今日は母がショートステイ先の施設から、入所となる施設(私の勤務先)へと移転する予定でした。
ところが! ショートステイ先の施設でコロナ感染者が発見され、念のため母も検査を受けたら陽性反応が出た! えーーっ、このタイミングで!?
当然、入所はしばらく延期となり、母はショートステイ先で10日ほど面倒を診てもらうことになりました。唖然呆然!
1つだけ幸いだったのは、母がコロナウイルスをウチの施設に持ち込まずに済んだこと。発症者の発見があと少し遅ければ間に合わなかった筈で、ほんとタッチの差。
それと最悪のシナリオは「私こそが感染源だった!」っていうオチだけど、すぐに施設のナース室で検査してもらったところセーフ(陰性)でした。
あとはもう、母が重症化しないことを祈るしかありません。前回の記事に「神は自分の中にいる」なんて書いた舌の根も乾かぬうちに神頼みとは、なんたる皮肉!
別にブログを面白くする目的で話を盛ってるワケじゃありません。事実は小説より奇なり。人生、なにが起きるか分かりません。元日にあんな大地震が来るなんて、まさにフィクションを超えた現実としか言いようがない。
今日、母のことで悲観的な発言をしたら「そんなこと考えちゃダメ!」って、同僚に叱られました。考えると実現しちゃうからってことでしょうけど、もしホントにそうならいよいよ神やん!
だったら、とにかく母が苦しまないで済むことだけ考えるとします。ホントそれだけが願い。
とっくの昔に多くの人が同じこと言ってるでしょうけど、神様っていうのは結局、自分自身の中にいる。自分の身に起きてることは全て、それまで自分が選択して来たことの結果。そう考えれば何も矛盾が生じない。
いま放映されてる連ドラ『全領域異常解決室』は一応“刑事もの”として紹介したけど、こないだ最新話を観たら実は「日本古来のグッド・ゴッド VS バッド・ゴッドの戦い」を描く壮大なストーリーであることが明かされました。主役の藤原竜也くん(そして恐らく相棒役の広瀬アリスさんも)正義の神様ってワケです。
そんな設定にリアリティーを感じるか否かは置いといて、自分の中にもグッド・ゴッドとバッド・ゴッドが同居してると考えれば、時おり見舞われる“不運”も実は自分で選択して来たことの結果なんだと割り切れる。
たとえば飛行機事故に遭って死んだとしたら、その便に乗るという選択をしたのは自分だし、もし他の誰かに無理やり乗せられたんだとしても、そいつと関わってしまったことが自分の選択ミス。
ここんとこ「運命的」とか「導かれてる」とか「人生プラマイゼロ」とか頻繁に書いてるけど、冷静に俯瞰視すれば何もかもが自分で選択して来たことの結果。すべてが繋がってる。
宗教を盲信する人はきっと、その責任をぜんぶ自分で背負う重みに耐えられないから、外にいる(つまり架空の)カミサマに選択を委ねてるんじゃないかと思う。
それで多少ラクに生きられるなら外野がとやかく言う必要ないけど、もし家族とかに迷惑を掛けてるとしたら、それはちょっと良くないんじゃない?って忠告したくなっちゃいます。金儲けを企む自称カミサマも無数にいるだろうし。
両親を出来るだけ苦しませずに見送るという「使命」さえ果たせば、もういつ死んでもいいと私が思ってるのは、これまでやって来たこと全てが自分自身の選択だと納得し、悔いがないから。
他の誰かに生き方を操作されそうになったら全力で逃げて来たし、だからこそ、そんな勝手を許容してくれた両親への恩返しは果たさなきゃいけない。
……って言えば格好がつくけど、ひとり立ちに失敗して実家にリターンした典型的「負け犬」であることもちゃんと自覚してます。
だから恩返しは当たり前だし、そのあと独りで野垂れ死ぬことにも抵抗ありません。ただ、どうすれば周りへの迷惑を最小限に抑えて死ねるか、ホントそればっかり考えてます。(自殺するとは言ってないけど選択肢の1つとしては有り)
しかし! 今ふと思ったけど、私がやってることは本当に恩返しなのか? 実は両親も内心は「ほっといて欲しい」「自宅でひっそり死にたかったのに余計なことを!」って思ってたかも?
……あかん、そこまで考えると「自己否定」からの「自己嫌悪」っていう、最も危険なゾーンに入っちゃう。
放置することが逆に親孝行だなんて、あり得ない! 兄が実践してる「完全ノータッチ&無関心」こそが正解だったなんて、絶対にあり得ない! あって欲しくない!!
たとえ「ひとりでひっそり死にたい」が本音だったとしても、足腰が立たなくなれば自分で漏らした糞尿にまみれて死ぬ羽目になる。誰かによるケア無くして安らかな最期はあり得ない。それだけは確か。
いずれにせよ親の終末のあり方を左右する決断を、何度も迫られてる私はある意味「神」みたいなもんでしょう。その責任による重力で髪の毛もどんどん抜け落ちてるし。
神なんだから、死に方も含めて人の指図はいっさい受けず、ぜんぶ自分自身で決めます。知れば知るほど介護なんてされたくないけど、親に受けさせた以上はそれも選択肢に入れなきゃしょうがない。
けど、その為に必要なお金をコツコツ貯めるだけの余生なんてつまらんし、やっぱ働くことに疲れ果てたらスパッと辞めて、好きなことやり尽くしてスカッと死ぬ案が最有力かも?
まあ、もうちょっと先の話です。いつも書くけど、私が死ぬ前に世界が終わってる可能性だって無くはない。それもまた、人類みんなが選択して来たことの結果です。
母が入所する施設と日にちが正式に決まり、この土日は母がマイホームで過ごす最後の2日間になりそうです。
と言っても母はほとんどベッドで寝たきりだし、もとより会話のない親子ですから普段となんら変わりません。
変わらないけど、こないだ入所先に置いてもらうつもりの音楽CDを整理し、プレーヤーの調子を確認するため岸恵子さんのムード歌謡曲を聴いてたら、不意に涙が止まらなくなっちゃいました。
単に曲調が切ないせいもあろうけど、母がまだ若かった頃の姿=自分の幼い日々の記憶が甦ったり、いよいよこの家で暮らすのが私ひとりになるのを実感したせいかも知れません。とっくの昔に崩壊したファミリーではあるけど、楽しい想い出が皆無なワケでもない。
母との関係は決して良好じゃない、ハッキリ言えば悪いけど、ひとりの女性がいよいよ終末に向かって衰弱していく姿を間近で見るのは、やっぱり切ないです。すごく切ない。
衰弱と言えば、父が生きてた頃からずっとお世話になってる女性ケアマネージャーのTさんも、大病を患いながら仕事を続けて来られ、ここ数ヶ月は記憶力も怪しくなってる。
Tさんとは凄く相性が良いと私は勝手に思ってて、自分が介護職に就くときも「向いてると思います」って背中を押してくれたし、愚痴もいっぱい聞いて頂いて、介護においては私にとって無くてはならない存在でした。
けど、母がショートステイから「入所」に変わるということは、すなわち担当のケアマネも入所先の人(私の勤め先の上司)と交替になるワケで、Tさんともお別れになっちゃいます。
このあとご挨拶に行くけど、私は涙をこらえる自信がありません。歳とともに涙腺がどんどん緩くなってるし、自分の母親よりも心を開ける相手と会えなくなると思うだけで、もうダメ。どちらかといえば「自己憐憫」の涙っぽいけれど。
人生で何度となく訪れる、大きな変化のとき。 母があとどのくらい生きてくれるか予測不可能だけど、とにかく「入所」は大きな節目。感傷的にならざるを得ません。
そんなときに、勤務先の壊滅的な人手不足により連日ハードワーク過ぎて、前回の記事は「しんどい!」の一言しか書く気になれませんでした。
そんなことを職場で叫んでも「こっちもしんどいわ!」って話にしかならんので、ここで叫ばせて頂いた次第です。
PS. 上野千鶴子さんの『在宅ひとり死のススメ』やphaさんの『パーティーが終わって、中年が始まる』をキッカケに、ここんとこ介護や老後をテーマにした本ばかり読んでます。
公私とも介護・老後に深く関わってる故とは言え、自由時間までそんな本ばっか読むのは如何なもんか? と思いつつ、いま何よりも興味あるのがソレなんだから仕方がない。
で、こないだから読んでるのが上野千鶴子&古市憲寿という、東大における師弟関係でありながら世代も価値観もまったく違うお二人の対談本『上野先生、勝手に死なれちゃ困ります』。
10年以上前に刊行された本だけど、本音をまったくオブラートに包まない両者が「介護不安」について語り合う丁々発止はめちゃくちゃ面白いし勉強にもなります。
まだ序盤しか読んでないけど、上野先生の「テレビは受動的なエンタメで、頭使わないからボケ街道まっしぐら。」っていうお言葉がグサリと刺さりました。テレビはウチのファミリーが会話を失った原因の1つだろうし、両親ともに認知症っていう結果にもたぶん繋がってる。
反面、私みたいに「テレビに救われた」と思ってる人だって無数にいるだろうから一概に「害毒」とは言えないし、ゲームやスマホも人類の未来にどんな影響を及ぼすか、現時点じゃ計り知れない。少なくともインターネットはテレビ以上に面白いからこそ「危険」なのは明白ですよね。
一昨年の秋に父が亡くなり、翌年には16年勤めた職場を去り、孤独感と虚無感で「うつ病」の入口にいた私を平常心に戻してくれたのは、『探偵!ナイトスクープ』の“キンタマ”ネタ3連発でした。
本当に腹がよじれるほど笑ったあと、気がつけば落ち着いてました。笑いの力って本当に凄い! 今夜もナイトスクープの録画を観るとします。