2019年の夏シーズンにTBS系列で放映された連ドラ『凪のお暇』は、とても良い作品だったし評判も良かったけど、私は最終回の内容に少々ガッカリしました。
『凪のお暇』は、常に周りの空気を読み、無理して周りに合わせて生きて来た28歳のOL・凪(黒木 華)が、その心労により倒れてしまい、入院したのに誰ひとり見舞いに来ない現実にまた絶望し、全ての人間関係を断ち切るべく会社を辞め、布団以外の家財一切を捨てて郊外の安アパートへ引っ越すというストーリー。
そこに住むのは腕にタトゥーを入れた自由人(中村倫也)、パン屋さんで食パンの耳を日常的に恵んでもらう独居老人(三田佳子)、凪を不審そうに睨みつける少女(白鳥玉季)など、一見まともには見えない人ばかり。
だけど彼&彼女らには、それまで凪が関わって来た人たちとは違うピュアな感性や価値観があり、その新たな交流によって半ば無理やり視野を広げられた凪は精神的に大きく成長し、最後には自立していきます。
良いドラマでした。実に良かったんだけど……
私が残念に感じてしまった理由が、前回、前々回と書いて来た「孤独」に対する世間の偏見や圧力っていうテーマに直結してるもんで、以下、当時の記事(最終回レビュー)を一部抜粋し、またコピペさせて頂きます。
結局、すべてが収まるべきところに収まった感じで意外性が微塵もなく、なにか新鮮なものが観られそうっていう当初の期待は裏切られた、と言わざるを得ません。
いろんな人々との出逢いと交流が主人公を支え、成長させていく構図も「教科書通り」って感じで、まぁそりゃそうだよねって納得するしか無いんですよね。
同時期に放映され、私が大いにハマったNHKのドラマ『それは経費で落ちません!』にも言えることだけど、結局「誰かと喜びを共有できること」が何より幸せっていうマジョリティーな価値観に、あらゆる作品が落ち着いちゃうのが私としては大いに不満です。
確かに、そういう相手がいればハッピーです。その通りだと思います。けど、そういう相手と巡り会えない人、うまくつき合えない人だって沢山いるはずで、そんな人にもその人なりのハッピーはあるんだってことを描くドラマが、10年に1本でもいいから創られないもんか?って思う。
決して否定はしません。私だって『家族に乾杯』とか毎回観て泣いてるしw けど、正解はそれだけじゃないでしょ?って。他にも正解が無数にある筈なのに、メディアが勝手に1つの正解を押しつけ過ぎてませんか?って。
学校でクラスのみんなと馴染めないことがダメなこと、不幸なことって、みんなが思い込んでるのはいったい誰のせいなの?って。そりゃみんな空気を読んじゃいますよ、窒息しそうにもなりますよって。
昨今、報道番組なんかはそうじゃない価値観をようやく肯定するようになって来たけど、連ドラは相変わらず「絆」「つながり」こそが至高で「孤独」は底辺だ不幸だと決めつけてる。それを苦に自殺する人が増え続けてる現実を一体どう捉えてるのか?と問いたいです。
作品のクオリティーとは関係ない話になっちゃいましたが、初回を観た時にひと味違うドラマが観られそうな期待を勝手にしちゃったもんで、平凡この上ない結末にちょっとガッカリしました。
男と女がくっついて子孫を残す、あるいは身を守るために群れを作るっていうのは自然の摂理なんでしょうけど、そうしなくても生きていける世の中になってしまった以上、そうしない人を否定するような価値観は変えて行かなきゃいけない。せっかく変わりつつある価値観を、変わらないように変わらないようにとTVドラマ(特に民放の番組)が守り続けてる。視聴率を稼がなきゃいけない=多数派に媚びるしかないメディアの弊害です。
まさかこんな理由でイチャモンをつけられるとは、番組スタッフも全く思ってないでしょうねw ヒロインはちゃんと自立したんだし、間違ったことは何ひとつしてないのに、何を私は目くじら立ててるんでしょうか?w
何も間違っちゃいないんだけど、例えば三田佳子さん演じる独居老人がサプライズパーティーでみんなに温かく迎えられる感動シーンを観ても、自分がもしそんな事されたら居心地悪くて逃げ出したくなるけどなあって、私なんかは思っちゃう。
独り暮らしを楽しく満喫する三田さんの描かれ方が素敵だなあって、初回を観て思っただけに、結局みんなと一緒が一番ハッピー♪みたいな着地点に落ち着いちゃうのがすこぶる残念でした。
自分が孤独なもんだからそれを肯定して欲しいだけなんだろ?って言われれば、その通りかも知れません。いや、まったくその通りです。全員に肯定されなくたっていいけど、たまには誰かいないの?って思ってます。
私はとっくに開き直ってるから大丈夫なんだけど、死にたいほど苦しんでる人も無数にいる筈で、その存在の否定に繋がるような価値観は一刻も早く無くした方がいい。
孤独に生きることが最高だとはさすがに思ってません。喜びや苦しみを分かち合える相手はいた方が良いに決まってます。そりゃそうです。
分かってるからこそ、同じことばかり繰り返し聞かせるのは、もういい加減やめて欲しい。自分が出来るんだから誰にでも出来ると決めつけないで欲しい。あまりにマイノリティな価値観による感想で恐縮ですが、だからこそ書く価値はあるんじゃないかと思って書きました。
以上、コピペ終わり。書いてから2年が経ち、その間にコロナで世の中は一変しましたけど、「孤独」の扱われ方や「絆」「つながり」至上主義はちっとも変わってません。そりゃあ、昭和の時代からそこだけはビクともしないんだから、今後も変わらず続いて行くことでしょう。
けど、そろそろヤバくないですか? 私自身を含む孤独な人たちをこのまま「不幸」だ「負け組」だと差別し、あるいは無視して追い詰め続けたら…… 孤独な仲間はこれからますます増えて行きそうなのに…… 孤独な仲間ってのもおかしな表現だけどw
これまた日本の連ドラで、よく「独りぼっちに慣れないで」ってなセリフがあたかも名言みたいに使われてましたけど、私は逆だろうと思ってます。これからの時代を生き抜くには、孤独に慣れる事こそが最大の課題じゃないですか?って。
いくら書いても「友達いないヤツの強がり」としか思われないかもだけど、本ブログの重要テーマの1つとして今後も書き続けたいと私は思ってます。
セクシーショットは、このドラマで注目された直後に東出昌大くんとのスキャンダルが出ちゃった、唐田えりかさん。ドラマで不倫を描いたらみんな大喜びで観るクセに、何もあんなに叩かなくたってねえ…… 世間の圧力なんかに負けず、ガンバレ!
ああいう連中がいるから差別され、電車内で放火するようなバカを生んでしまい、ますます差別されちゃう悪循環。どうしょうもないですね。
どうもそれ以外の人と馴染めない、
どうしてもいつも集団で浮いてしまう
上手くいかない
なぜだ、
とても悩んでいましたが、、、
自分が人類を拒否っている
ということを知ったとき、
ショックと安堵が
同時に訪れました(笑)
家族に心を許している時点で
違うかもですが、
家族以外はほぼ一匹狼ですが
めちゃめちゃ気が楽です(笑)
家族はやっぱり、基本的には裏切らないですもんね。例外も山ほどあるでしょうけど。
よく邦楽はラブソングばっかでつまらんとか叩く人いますが、そんなこと言ったら古代の和歌だって恋愛の歌多いじゃんとw
後は故郷とか家族とか。人恋しさや寂しさというのは変わらない価値観なんでしょう。
平安や鎌倉時代にも「孤独の何があかんねん」って言ってた人はいたとは思うんですが、世の趨勢には抗えず、今日まで至ってるんじゃないでしょうか?
自分としては家族仲間は物語と割り切って見れば、好きなジャンルでもあります。
逆に「孤独」をテーマにした作品が出来たとしても、これじゃない感とか、「知った口を聞くな!」とか。
共感性羞恥と言うんですかね。見ててイラつきそうな気がするw
リアリティも大事ですけど、映画は良くも悪くも現実逃避の面があると思うので。自分に無いもの、経験してないものを見て補給したいと感じる。
そもそも他人を拒絶する本当に孤独な人間は映画なんて見ないと思いますし。
他人に興味があるからこそ、何かしら惹かれるものがある。
例えそれがメディアの洗脳的な面であったとしても。やはり切り離せない部分があるんじゃないんでしょうか?
まぁ、メディアが発達した分、こうして発信や反論も簡単に出来ますし、そこまで悪い世の中でもないのかなとも。
ハッシュタグ足裏見せろでめっちゃ笑いましたw
今回の記事で言いたい結論はここに集約されてますねw 勉強になります!
家族、仲間、絆、私も決して嫌いじゃありません。『太陽にほえろ!』だって根本はそうだし。ただ、主人公が独りぼっちになってハッピーエンドっていうドラマもあっていいんじゃないかって、少数派の価値観にもたまには寄り添ってよって、思うんですよね。
https://www.nicovideo.jp/watch/sm39630119
三話を翻訳しましたが、この第四話はクリックする人がいないようです。
ハリソンさんの言わんとすることはわかりますが、そういった作品(価値観のまったく違う人にもある程度は理解・共感してもらわなきゃならない)はものすごくハードルが高そうですね。
浅学な私はそういう結末――主人公が非日常に生きてるとかは除いて――の日本映画やドラマも思いつきませんし。
仮にハリソンさんがそういうのを作るのなら何かアイデアとかはありますか?
でも、主人公でなければ……例えば『凪のお暇』で独り暮らしをエンジョイしてた三田佳子さんは、充分ハッピーなんだからあのまんまでいて欲しかった。皆がみんな、同じ価値観で統一されちゃうのがイヤなんですよね。