秩父事件
2005年04月25日 | 歌
秩父事件は埼玉県秩父地方で1884年(明治17年)に起きた民衆蜂起である。
秩父事件の指導者、井上伝蔵は 死刑判決後、北海道に逃れ、石狩を経て北見で
1918年(大正7年)に没する。
死の間際まで、自分が秩父事件の首魁であることは伏せていた。
井上伝蔵は秩父事件の中心部隊「秩父困民党」の会計長だった。
伊藤房次郎と名前を変えて石狩で代書屋を開業していたらしい。
それで稼いだ資金を元手に、小間物兼文房具屋も営み、「柳蛙」の号で句会にも
参加した。
石狩市の弁天町に彼の句碑がある。
ともに戦った同士のおもかげを忘れられなかったと思う。
俤(おもかげ)の 目にちらつくや たま祭
分骨された遺骨が帰り、秩父で葬儀が営まれた。
事件当時、乙副大隊長の落合寅市が弔辞を読みあげると、涙を落とさぬ者は
いなかったと伝えられている。
「覚翁良心居士」―それが野中の墓石に刻まれた井上伝蔵の戒名である。
井上伝蔵の辞世の句?か。
想いだす ことみな悲し 秋の暮
石狩弁天歴史公園
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3f/8a/e35474f23104efcc7e63d5e18a661a2b.jpg)
「たま祭」秩父の大宮神社のお祭りのことかと思うのだが・・
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/52/e2/4ccb922b28052c3a3e907e7ab8b94f95.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2d/66/38eaaa5688e66c565939a83aad0df5c5.jpg)
秩父事件の指導者、井上伝蔵は 死刑判決後、北海道に逃れ、石狩を経て北見で
1918年(大正7年)に没する。
死の間際まで、自分が秩父事件の首魁であることは伏せていた。
井上伝蔵は秩父事件の中心部隊「秩父困民党」の会計長だった。
伊藤房次郎と名前を変えて石狩で代書屋を開業していたらしい。
それで稼いだ資金を元手に、小間物兼文房具屋も営み、「柳蛙」の号で句会にも
参加した。
石狩市の弁天町に彼の句碑がある。
ともに戦った同士のおもかげを忘れられなかったと思う。
俤(おもかげ)の 目にちらつくや たま祭
分骨された遺骨が帰り、秩父で葬儀が営まれた。
事件当時、乙副大隊長の落合寅市が弔辞を読みあげると、涙を落とさぬ者は
いなかったと伝えられている。
「覚翁良心居士」―それが野中の墓石に刻まれた井上伝蔵の戒名である。
井上伝蔵の辞世の句?か。
想いだす ことみな悲し 秋の暮
石狩弁天歴史公園
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3f/8a/e35474f23104efcc7e63d5e18a661a2b.jpg)
「たま祭」秩父の大宮神社のお祭りのことかと思うのだが・・
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息子が通学した秩父高校のこともありますが、秩父は歴史的にも興味つきない町です。
秩父の大宮神社が困民党の本陣になっていたと思いましたが、この神社には左甚五郎の彫刻があって、機会があればもう一度訪れてみたいところです。
武甲山も気になります。
また、もっと人目を忍ぶように暮らしていたのかと思い込んでいたので、句会にも参加していたというのは嬉しい驚きです。彼のつきせぬ思いを吐露するすべを持っていたのですね。
「俤(おもかげ)の 目にちらつくや たま祭」の「たま」は魂とか霊の意味なのでしょうね。
よろしければ、どうぞまたおいでください。
映画『草の乱』を観たいと思っています。
秩父は特に思い入れがありました。
はじめて秩父市を訪れ、道を聞いたときも、それから何度か秩父の人と話したときも、本当に気持ちの優しい方が多いと思いました。
井上伝蔵については「炎の谷」から印象が強かった、まさか石狩市に彼の足跡があったとは驚きました。
無事に遺骨が秩父に戻って葬儀がおこなわれたとのことで、よかったですね。
三泊四日の「出張」が今明けました。
病人の手術付き添いで、この月は10日費やしましたが、これで全部終わりました。
秩父困民党の事件はこちらに来てから初めて知りました。
地元では学校でも一度も教えてくれなかったですね。
その話が人の口の端に乗る事すらなくて、恐らくタブーになっていたのではないでしょうか。
昭和48年頃でしょうか?井出孫六さんが著した本があり、それを読んで初めて詳細を知ったことでした。
彼の書の中では井上伝蔵は人格高潔な士として描かれていたように覚えています。
その彼は北海道が終焉の地であったのですか?
俳句は、重みがありますね。
貴重なお話を有難うございました。
わたしは下山二郎著「炎の谷」を読んで、秩父騒動の詳細を知りました。
息子の秩父高校のときから、秩父事件に関心をもっていたわけでした。
その中心人物の井上伝蔵が石狩にいたということは本当に驚きです。
手術の付き添いとか、お疲れ様でした。
よほどのことがなければ行くつもりです。
この映画と同じ監督の前作(郡上一揆だったかを、加藤剛主演で描いたもの)も同じ寝屋川市民会館で数年前に観ています。
郡上「一揆」は丁寧に、当時の行政組織や法体系を活用して何年もかけて、要求を獲得したもの。漠然とあった「一揆とはヒッチャカメッチャカなエネルギーの爆(暴)発」との先入観を打ち破るものでした。
こんどの秩父困民党を描いた作品はどうか?
興味津々です。
秩父地方の養蚕農家の困窮は相当ひどかったようです。もっとも当時の農民の暮らしはどこも悲惨であったと思いますが。
困民党の首魁であった、井上伝蔵がここ石狩に生存していたとは嬉しい発見でした。
「草の乱」札幌でも上映する機会があれば、是非観たいと思っております。