午前中三木市全体のグランドゴルフ大会があり、夕方畑の畝間潅水をしました。水が全体にまわるのに時間はかかりましたが、これで畑の水やりはしばらく大丈夫です。でも山のほうはカラカラのままです。水道水を植えた木にかけても焼け石に水のようなものです。雨よ降れ!!
『炭焼き小屋にて』 (2)
刻(とき)を告げる鶏の声がきこえた。頭を上げて縁側の障子を見たが外は暗い。台所のほうで朝餉の支度をする音がきこえていた。
謙三は重い綿の掛け布団を引きかぶった。
子供の頃の情景がまぶたに浮かんだ。
鶏が刻を告げる。闇のなかに山の稜線がかすかに見えてくる。法輪寺の小坊主の鐘を撞(つ)く音が、遠くに聞こえる。裏の八幡神社で、ちょび髭の神主が朝の太鼓を打つ。陽射しが障子に当たる。雲雀が鳴きながら舞い上がる。
柿田謙三は山陰の田舎で少年の時間をすごした。彼の生れたのは日本の敗戦後間もない頃で、農地解放で自作農になった親は、謙三には大学を出て都会に住む勤め人になるよう願った。謙三は親の願い通り大学に進み、卒業して都会の会社に勤め、結婚して三人の子が生れた。両親はどきどき孫の顔を見に出てきたが、街の空気は息苦しいといっていつも数日で帰ってしまった。
五十歳までさしたることはなかった。兄二人はいずれも幼い頃に病死しており、いずれ両親を都会の家に引き取ることになるだろう、と漠然と考えていた。しかし達者で畑仕事をして、ときに畑で採れたものを送ってよこす親の様子からすれば、早急に対応を考えねばならぬ状況ではなかった。
五十一歳のとき父親がわずか一週間寝込んで死んだ。残された母親も三ヵ月後に心臓の不調で急死した。どちらも八十歳を越えての死亡だったので、命の自然な流れとして親の死を受け入れられた。
しかしその後立て続けに起こったことを思い返してみると、ふた親の死が災難の前ぶれだったかもしれない。やっと大学に入った長男が病気で入院し、運転免許とりたての長女が買ってやったばかりの車で人身事故を起こし、厄介な跡始末に親が奔走した。一段落ついたと思ったら謙三が20年来付き合っていた久米伸子の存在を家族に知られ、妻は三人の子供とともに家を出た。家族が出て行ったと告げると、久米伸子も謙三から離れた。
それから一年、謙三は独り暮らしをして、会社とマンションを往復するだけの張りのない生活をしてきた。三ヶ月前会社からリストラを言い渡された。創業当時からの生え抜き社員で、会社と共に生きてきた自分まで整理されるとは思ってもみなかった。
体の芯のずきっとする痛みをはじめて体験したのは、退職者の送別会があった日だった。家に帰りドアを開けたとき、へその奥あたりを襲った強い痛みに、その場にしゃがみ込んだ。どうして痛むか考えたがわかるはずもなく、とにかくあした医者に行こう、と這ってベッドに入った。
次の日は朝から気分がよく、出勤しなくてもよいという解放感が痛みの不安に打ち勝った。そんなことがあったのを忘れた頃、また痛みが襲った。痛みは、謙三の気分のいい時間を妬(ねた)む意志をもっているかのようであった。
あの痛みがだんだんひどくなり、苦しんで死ぬ。
謙三は痛みの来襲にいつも身構えて、家に閉じ篭もることが多くなった。
このままではいけない。気分転換に海外旅行でもしよう。
謙三は銀行に行き、元の妻が退職金を全額引き出したのを知った。連絡をとると「養育費として当然でしょ。取り返せるものなら裁判でもなんでもしなさいよ」と一蹴された。金がないという現実の生活不安は、ホームレスの自分が公園のベンチで海老のように体を曲げて死んでいる、という終末の場面を連想させた。
自分の置かれた状況をわずかな友に話そうと思ったが、やめた。家族に見放され女に見放され会社に見放され体の痛みに怯え金がなくなったくらいのことは、どこにでもある話だ。ことさらな不幸とも思えない。五十歳を過ぎた男がそんなことで、すべてがいやになり死にたい、といったら冷笑されるだけだろう。
人生に起こることには、みんなそれなりの意味があるかずだ。自分の人生がなぜこの二年で急速に色あせ、生き甲斐や希望という文字が消えてしまったか。わからない。しかし考えてみればそれ以前だって、生き甲斐や希望に満ちて生きてきたわけではない。明日という日が来ることを待ち望んで床に就いたわけでもない。朝が来て惰性で動き出していただけだ。床に就いてそのまま目が覚めなくてもかまわない。いずれ人間にはそんなときがくるのだから。
そんなふうに流れる思考に抵抗しようと思わなかった。かえってその思考にはまっていると不安が消え、心がらくになった。
生命保険や家財などの処分をメモしてかつての家族に郵送し、柿田謙三は旅に出た。
『炭焼き小屋にて』 (2)
刻(とき)を告げる鶏の声がきこえた。頭を上げて縁側の障子を見たが外は暗い。台所のほうで朝餉の支度をする音がきこえていた。
謙三は重い綿の掛け布団を引きかぶった。
子供の頃の情景がまぶたに浮かんだ。
鶏が刻を告げる。闇のなかに山の稜線がかすかに見えてくる。法輪寺の小坊主の鐘を撞(つ)く音が、遠くに聞こえる。裏の八幡神社で、ちょび髭の神主が朝の太鼓を打つ。陽射しが障子に当たる。雲雀が鳴きながら舞い上がる。
柿田謙三は山陰の田舎で少年の時間をすごした。彼の生れたのは日本の敗戦後間もない頃で、農地解放で自作農になった親は、謙三には大学を出て都会に住む勤め人になるよう願った。謙三は親の願い通り大学に進み、卒業して都会の会社に勤め、結婚して三人の子が生れた。両親はどきどき孫の顔を見に出てきたが、街の空気は息苦しいといっていつも数日で帰ってしまった。
五十歳までさしたることはなかった。兄二人はいずれも幼い頃に病死しており、いずれ両親を都会の家に引き取ることになるだろう、と漠然と考えていた。しかし達者で畑仕事をして、ときに畑で採れたものを送ってよこす親の様子からすれば、早急に対応を考えねばならぬ状況ではなかった。
五十一歳のとき父親がわずか一週間寝込んで死んだ。残された母親も三ヵ月後に心臓の不調で急死した。どちらも八十歳を越えての死亡だったので、命の自然な流れとして親の死を受け入れられた。
しかしその後立て続けに起こったことを思い返してみると、ふた親の死が災難の前ぶれだったかもしれない。やっと大学に入った長男が病気で入院し、運転免許とりたての長女が買ってやったばかりの車で人身事故を起こし、厄介な跡始末に親が奔走した。一段落ついたと思ったら謙三が20年来付き合っていた久米伸子の存在を家族に知られ、妻は三人の子供とともに家を出た。家族が出て行ったと告げると、久米伸子も謙三から離れた。
それから一年、謙三は独り暮らしをして、会社とマンションを往復するだけの張りのない生活をしてきた。三ヶ月前会社からリストラを言い渡された。創業当時からの生え抜き社員で、会社と共に生きてきた自分まで整理されるとは思ってもみなかった。
体の芯のずきっとする痛みをはじめて体験したのは、退職者の送別会があった日だった。家に帰りドアを開けたとき、へその奥あたりを襲った強い痛みに、その場にしゃがみ込んだ。どうして痛むか考えたがわかるはずもなく、とにかくあした医者に行こう、と這ってベッドに入った。
次の日は朝から気分がよく、出勤しなくてもよいという解放感が痛みの不安に打ち勝った。そんなことがあったのを忘れた頃、また痛みが襲った。痛みは、謙三の気分のいい時間を妬(ねた)む意志をもっているかのようであった。
あの痛みがだんだんひどくなり、苦しんで死ぬ。
謙三は痛みの来襲にいつも身構えて、家に閉じ篭もることが多くなった。
このままではいけない。気分転換に海外旅行でもしよう。
謙三は銀行に行き、元の妻が退職金を全額引き出したのを知った。連絡をとると「養育費として当然でしょ。取り返せるものなら裁判でもなんでもしなさいよ」と一蹴された。金がないという現実の生活不安は、ホームレスの自分が公園のベンチで海老のように体を曲げて死んでいる、という終末の場面を連想させた。
自分の置かれた状況をわずかな友に話そうと思ったが、やめた。家族に見放され女に見放され会社に見放され体の痛みに怯え金がなくなったくらいのことは、どこにでもある話だ。ことさらな不幸とも思えない。五十歳を過ぎた男がそんなことで、すべてがいやになり死にたい、といったら冷笑されるだけだろう。
人生に起こることには、みんなそれなりの意味があるかずだ。自分の人生がなぜこの二年で急速に色あせ、生き甲斐や希望という文字が消えてしまったか。わからない。しかし考えてみればそれ以前だって、生き甲斐や希望に満ちて生きてきたわけではない。明日という日が来ることを待ち望んで床に就いたわけでもない。朝が来て惰性で動き出していただけだ。床に就いてそのまま目が覚めなくてもかまわない。いずれ人間にはそんなときがくるのだから。
そんなふうに流れる思考に抵抗しようと思わなかった。かえってその思考にはまっていると不安が消え、心がらくになった。
生命保険や家財などの処分をメモしてかつての家族に郵送し、柿田謙三は旅に出た。