このところ熊谷達也の小説ばかり図書館で借りて読んでいますが、『翼に息吹を』という小説を読了しました。この題名では何を書いた小説かわかりませんが、特攻隊の知覧基地が舞台です。昭和20年5月から6月、沖縄に向けて多くの特攻隊機が知覧基地から飛び立ちました。その時期を扱っています。
一人称の小説で、《私》は特攻隊の乗る飛行機の整備士で、おんぼろの機体を劣悪な、乏しい資材で飛べるように整備しなければなりません。出撃に合わせて睡眠時間を削る激務です。出撃しては機体の整備不良という口実をつけて何度も引き返してくる特攻隊員がいます。彼は懲罰的な単独での出撃命令を出され……。
文と筋に力があり、いわゆる「小説的強度」の強靭な小説です。
二つ感想を書きます。
○ 『ルソンの谷間』(江崎誠到)の小説で、仲間との会話にこんなエピソードが出てきます。
「彼は特攻隊で何度出撃しても、〈飛行機の具合がわるい〉と引き返してきた。とうとう10回目に護衛機が彼の機を追い立てて出撃し、敵艦に突っ込まざるを得なかった」。江崎がなぜこんなエピソードを挿入したかわかりません。熊谷の小説ではその特攻隊員の心が垣間見えてきます。
○ 山本五十六は昭和16年12月の真珠湾攻撃のとき、出撃した潜航艇が「片道切符の出撃ではないか」と強く詰問した、と読んだことがあります。「帰還する可能性がある」と聞いて許可したそうです。もし山本が、米軍の暗号解読により撃墜されることなく、戦時中ずっと生きていたら「生きた人間が鉄砲玉になる」という外道な戦法は絶対とらなかったでしょう。 …… ※ 実際には10艇の潜航艇のうち9艇は戦死して〈9軍神〉に祭り上げられた。1艇はアメリカ軍に捕まり搭乗員は捕虜第1号となった。彼は敗戦後ブラジルで実業家になった。
『翼に息吹を』の終わりのほうに、敵艦に体当たりして死んでいった特攻隊員が、私たちに突き付けている課題があります。それを熊谷はこう書いています。
あのとき、軍人、民間人を問わず、私(特攻機を整備する兵隊)を含めて地上に残るすべての者が、特攻隊員たちの背中を、間違いなく押していた。惜別の涙をこらえる一方で、私たちは、彼ら特攻隊員たちに、絶対にここに戻ってくるな、と暗黙のうちに強いていたのではないのか。出撃の際のあの異様とも言える華々しさは、死にゆく者への激励であったのは確かだが、当の特攻隊員たちをして、これで自分は死ぬしかなくなった、とあきらめさせる、強制を伴った儀式だったのではあるまいか……。
白い雲が浮かぶ青空に向かって次々と飛び立つ特攻機と、それを見送る人々の光景は、悲壮で美しくもあったが、同時に、醜悪なものでもあった。
そういう意味で、私たちひとりひとりは、特攻作戦を発案した軍の上層部や大本営と、なんら変わるところはないのかもしれない。極端な話、日本国民全員がこの戦争を始めることを望み、特攻の実像を創り上げてきた、と言っても過言ではない気がする。
そして私は気づく。
どのような形であれ、特攻作戦に直接携わってきた私には、答えを出せない設問だと。
そもそも、答えを出す資格が、私にはないのだとも思う。
答えを出せる者がいるとすれば、設問に答える資格を持つ者がいるとすれば、自ら死んでいった特攻隊員だけだ。
……(中略)……
答えを出せる者、答えを出す資格を持つ者はほかにもいると、ようやくのことで気づいたのである。
それは、後世の人々だった。
いまのぼくたちが後世の人々です。あの特攻隊という存在にどんな答えを出しているのでしょう。
一人称の小説で、《私》は特攻隊の乗る飛行機の整備士で、おんぼろの機体を劣悪な、乏しい資材で飛べるように整備しなければなりません。出撃に合わせて睡眠時間を削る激務です。出撃しては機体の整備不良という口実をつけて何度も引き返してくる特攻隊員がいます。彼は懲罰的な単独での出撃命令を出され……。
文と筋に力があり、いわゆる「小説的強度」の強靭な小説です。
二つ感想を書きます。
○ 『ルソンの谷間』(江崎誠到)の小説で、仲間との会話にこんなエピソードが出てきます。
「彼は特攻隊で何度出撃しても、〈飛行機の具合がわるい〉と引き返してきた。とうとう10回目に護衛機が彼の機を追い立てて出撃し、敵艦に突っ込まざるを得なかった」。江崎がなぜこんなエピソードを挿入したかわかりません。熊谷の小説ではその特攻隊員の心が垣間見えてきます。
○ 山本五十六は昭和16年12月の真珠湾攻撃のとき、出撃した潜航艇が「片道切符の出撃ではないか」と強く詰問した、と読んだことがあります。「帰還する可能性がある」と聞いて許可したそうです。もし山本が、米軍の暗号解読により撃墜されることなく、戦時中ずっと生きていたら「生きた人間が鉄砲玉になる」という外道な戦法は絶対とらなかったでしょう。 …… ※ 実際には10艇の潜航艇のうち9艇は戦死して〈9軍神〉に祭り上げられた。1艇はアメリカ軍に捕まり搭乗員は捕虜第1号となった。彼は敗戦後ブラジルで実業家になった。
『翼に息吹を』の終わりのほうに、敵艦に体当たりして死んでいった特攻隊員が、私たちに突き付けている課題があります。それを熊谷はこう書いています。
あのとき、軍人、民間人を問わず、私(特攻機を整備する兵隊)を含めて地上に残るすべての者が、特攻隊員たちの背中を、間違いなく押していた。惜別の涙をこらえる一方で、私たちは、彼ら特攻隊員たちに、絶対にここに戻ってくるな、と暗黙のうちに強いていたのではないのか。出撃の際のあの異様とも言える華々しさは、死にゆく者への激励であったのは確かだが、当の特攻隊員たちをして、これで自分は死ぬしかなくなった、とあきらめさせる、強制を伴った儀式だったのではあるまいか……。
白い雲が浮かぶ青空に向かって次々と飛び立つ特攻機と、それを見送る人々の光景は、悲壮で美しくもあったが、同時に、醜悪なものでもあった。
そういう意味で、私たちひとりひとりは、特攻作戦を発案した軍の上層部や大本営と、なんら変わるところはないのかもしれない。極端な話、日本国民全員がこの戦争を始めることを望み、特攻の実像を創り上げてきた、と言っても過言ではない気がする。
そして私は気づく。
どのような形であれ、特攻作戦に直接携わってきた私には、答えを出せない設問だと。
そもそも、答えを出す資格が、私にはないのだとも思う。
答えを出せる者がいるとすれば、設問に答える資格を持つ者がいるとすれば、自ら死んでいった特攻隊員だけだ。
……(中略)……
答えを出せる者、答えを出す資格を持つ者はほかにもいると、ようやくのことで気づいたのである。
それは、後世の人々だった。
いまのぼくたちが後世の人々です。あの特攻隊という存在にどんな答えを出しているのでしょう。