このたびは、1997年没の父(89歳)/2017年没の弟(行年68歳)/2019年没の母(行年107歳)の写真を持って、ゆかりの地を訪ねました。
〇 中国道院庄を出て、最初に訪ねたのは竹田村の木地山です。父は小学校の教員で、敗戦後朝鮮の学校から引揚げてきて、分校に勤務しました。その分校があった地です。この村には30軒ほど家があり、数十人の子どもがいて、分校に通っていました。どの家も〈小椋〉という苗字です。呼ぶときは苗字をつけないで名前で呼んでいました。いまはほとんど住民がいなくなり、ぼくと同級の人も都会で暮らしていました。やっと一人の住民と出会い、あいさつができました。
〇 もう一つ分校を訪ねました。廃村寸前の村です。いまでは分校も、そして本校も廃校になっています。父が病気あけに勤めた分校で、母も山に登って分校暮らしをしました。この分校も谷川にきれいな水が流れています。住民はほとんどいないようでしたが、軽トラックがとまったので声を掛けました。
「父が60年ほど前に、この分校に勤めていたものですから …… 」と言ったら「Y先生ですかな」といきなり父の名を言われてびっくりしました。聞けば「小学校のときに習った」というおじいさんでした。いろいろ村の様子をききましたが、ほとんど住民はいません。耕作放棄の田んぼは、夏草が盛り上がっています。
ぼく:「イノシシの被害はひどいですか」 住民の方:「イノシシはたいしたことないですけど、シカがよう出て、野菜が作れんですわ。今日もシカがワナにかかって、いつも渡してる人に、シカが掛かったって言ったですけど、今日は用があるけえ、捨てといていな」って。そこの橋から川に捨てました」
道子さんはイヤといって見に行きませんでしたが、きれいな水ですし、写真をアップします。なんかゴッツイ話だな、と思います。
〇 中国道院庄を出て、最初に訪ねたのは竹田村の木地山です。父は小学校の教員で、敗戦後朝鮮の学校から引揚げてきて、分校に勤務しました。その分校があった地です。この村には30軒ほど家があり、数十人の子どもがいて、分校に通っていました。どの家も〈小椋〉という苗字です。呼ぶときは苗字をつけないで名前で呼んでいました。いまはほとんど住民がいなくなり、ぼくと同級の人も都会で暮らしていました。やっと一人の住民と出会い、あいさつができました。
〇 もう一つ分校を訪ねました。廃村寸前の村です。いまでは分校も、そして本校も廃校になっています。父が病気あけに勤めた分校で、母も山に登って分校暮らしをしました。この分校も谷川にきれいな水が流れています。住民はほとんどいないようでしたが、軽トラックがとまったので声を掛けました。
「父が60年ほど前に、この分校に勤めていたものですから …… 」と言ったら「Y先生ですかな」といきなり父の名を言われてびっくりしました。聞けば「小学校のときに習った」というおじいさんでした。いろいろ村の様子をききましたが、ほとんど住民はいません。耕作放棄の田んぼは、夏草が盛り上がっています。
ぼく:「イノシシの被害はひどいですか」 住民の方:「イノシシはたいしたことないですけど、シカがよう出て、野菜が作れんですわ。今日もシカがワナにかかって、いつも渡してる人に、シカが掛かったって言ったですけど、今日は用があるけえ、捨てといていな」って。そこの橋から川に捨てました」
道子さんはイヤといって見に行きませんでしたが、きれいな水ですし、写真をアップします。なんかゴッツイ話だな、と思います。