食べることは生きることの基本。
老衰の過程で食べる量が減り、全身が弱るのは自然なこと。
海外では、高齢あるいは、がんなどで終末期を迎えたら、口から食べられなくなるのは当たり前で、胃ろうや点滴などの人工栄養で延命を図ることは非倫理的、逆にそんなことをするのは老人虐待という考え方さえあるそうです。
日本では少しでも、一秒でも長く長生きすることが患者本人にとって「よいこと」と考える人が多いため、ひと言も話せない、自分で体を動かせない、自分の意思を表現できない、いわゆる寝た切りになっても「胃ろう」で命をつないでいる人がたくさんいます。
でもご家族の立場だったら、「胃ろう」にしなければやがて死んでしまうことはわかっている。
ある意味「死亡宣告」の選択を強いられるわけです。
「生」と「死」についてのとらえ方が問われる、これはつらい選択だと思います。
でもね、そんな「胃ろう」の利用者さんをたくさん見ている介護員の中には「自分は胃ろうはイヤ」て人、けっこういるんですよ。
うちの施設でも「胃ろう」の利用者さんが何人かいらっしゃいます。
体調が悪くなり入院となったある利用者さま。
その方は高齢なこともあり、痰のからみや足のむくみなどがひどく、もう医療ではできることがない、これ以上の延命は本人の苦しみが続くだけ。ということで、胃ろうでの栄養摂取をあきらめ、ほんの少しの水分を入れるだけにすることにご家族が同意されたようでした。
・・・つまり、自然に弱っていきやがて死を迎えることを選択されました。
退院され、残された時間、私たちがお世話することになったのですが、それまで、ご家族が毎週のように面会に来られ、献身的に体をさすっている姿を見ていただけに、退院後付き添ってみえるご家族に、どう言葉をかけたらいいのか、言葉に詰まってしまったのをおぼえています。
その利用者さんは一週間ほどで亡くなられました。
本当にごくろうさまでした。
毎月のように亡くなる方を見送ってはいますが、悲しみよりも、ごくろうさま、よくがんばったね、ありがとね、という気持ちが大きいです。
ご本人にも、ご家族にとっても。
食べることって、本当に大切ですよね。
私なんか食べる事の楽しみだけで生きているようなところがあるので、食べれなくなってしまったらどうなることやら。
自分の意思がしっかりしているうちに、老後「胃ろうはやりません」「延命処置も必要ありません」て家族が困らないように何かに残しておいた方がいいのかな。