150段と言われる階段を上り切ると、前方が「絹の道」
階段方向は、片倉駅の表示
ここで一呼吸を入れて、蚊対策をして、歩き始めた。
右手には鉄塔やアンテナ群が見え隠れ、
そして、
地元有志により建てられたという、「絹の道碑」に到達。 (左上の葉に隠れ気味の石碑)
銘板などは水滴が付いていたので省略、またしても石の階段を上り、
大塚山公園 道了堂跡へ
右奥がそれらしい。
道了堂跡
ここは、
開港した横浜港から輸出する絹糸を、田畑が少ない鑓水の農民が桑の木を育て、蚕を育てていたらしい。
(1859(安政6)年の横浜開港の前から密かに輸出されていたという説も?!)
絹糸は、日本の主要な輸出品であり、長野・山梨・群馬から八王子へ集められ、横浜へ送られた。
この鑓水には、年商5000両以上の豪商が5人も居て、生糸以外のお茶や、八王子に遊郭を作った商人も居たらしい。
しかし、経済恐慌のあおりと、生糸の暴落により、一挙に没落をした。
劣悪な環境で働かされていた機織りの女工さんや関係者の信仰に「機守神社」があり、
機神様(白滝観音)が祀られている。
(大滝神社境内に案内板が或る。)
この時の栄華の有様は、「御殿橋」欄干の銅版画で推測できる。
右下斜面の建物の有様が推測できる図。
道了堂跡の東側斜面
ここにも重要な建物が建っていたのでは?と思わせる仕様。
上ってきた左側、
この道了堂は、
生糸の取引で莫大な財を成した鑓水商人が、浅草花川戸から道了尊を勧誘、1874(明治7)年に創建された。
と、此処では紹介されているが、永泉寺の別院として明治7年創建という記述もあった。
更に此処では、
1963年道了堂の堂宇を守ってきた老女が殺害されるという事件が起きた。
この老女と村人の関係や、堂宇の所有権なども絡み、長く尾を引いたという。
更に、その10年後、
1973年には立教大学教授が遣水に有る別荘地で教え子の女子大学生を殺害した事件が発生。
不倫相手の大学生は妊娠していたとの説も。
そして、その教授はそのご家族の一家心中で、終わりを告げた。
ミステリーゾーンとして名を馳せたという噂は本当だったのだろうか!?!
薄暗い道了堂跡の階段を下ると、
水道施設と左側に細い道
八王子グリーンタウンの北野台3丁目へ抜けられるらしい。
我々は足元に注意しながら、
川のように変わった絹の道を下った。
絹の道入口に到着、
すぐ先に見える「絹の道資料館」へ
雨が降り続く中、室内で休憩できる資料館、助かりました。
一寸色あせた資料を拝見、心も、お腹も充填し、
午後の旅に出発!!
八王子道標と言う古い道標があるのですが、雨に濡れて文字が読みにくかったので写真はなし。
1865(慶応元)年に建てられた石碑、
左側には、「此方 はら町田 神奈川 ふぢさわ」
正面は、「此方八王子」
右側面には、「此方はしもと 大山 津久井」
と描かれているそうだ。
(自分では判読できず、ネットより)
嫁入り橋から、
小泉家屋敷へ
こちらのお屋敷は未だ住まいとして使われているため、ここから拝見するだけ。
坂道を上り、鑓水の名水へ向かいます。
絹の道と表示されている道を歩く
見晴らしへ到着、
左側には仮設だがトイレらしき建物
右側には、鑓水公園の案内碑
更に左側は、
穂成田遊歩道橋が続く。
橋を渡り始めるとタイルの絵が描かれている。
絹の道
桑の木と蚕、そして生糸へと創り上げる様が描かれていた。
休憩場所の後ろ側の案内板
この先に、遊歩道が有ったはず!!
浜通り遊歩道を探しに来たが、
はなみずき歩道橋だった。
急ぎ足で先に行く二人を追いかけた。
少し先で追いついたが、
今度こそ!!
浜街道遊歩道!?
のはず、・・・・
間違いない!! 浜街道遊歩道橋
しかし紛らわしさも感じる命名!?
急いで引き返し、
絹の道を進む。
追いついたけれど、またまた気になる「浜街道陸橋」
橋の上へ上がり、
欄干の絵
逆側は、
謂れと、こだわりが感じられるけど、説明がないと理解できない私、・・・・。
前回見つけられなかった歩道橋など確認出来たので一安心
次回-03へ続く。
9月9日は、4,128歩歩きました。
9月10日 土曜日 5時33分 室内の気温は、26.4℃ 湿度は 71%
外気温は、24.8℃ 湿度が82%
蒸し暑く、ジメジメした空気。
朝焼けが少し見えたけど、今日の暗やみ散歩は行けなかった、・・・・。
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