八王子市は、江戸時代以前から交通の要所であり、江戸時代には関所が設けられたち、
明治になっても、要衝であった。
太平洋戦争の時には、本土空襲が始まると、
国分寺や東大和市などの航空機産業は最初の目標で、
一段落すると中核都市への爆撃へ移行していったようだ。
そこから飛行機工場や軍隊はこぞって地下壕へ潜るように変わっていったらしい。
8月7日東京新聞記事 「鉄道の戦禍 今にに伝え」を無断ですが紹介させて頂く。
今回は、「浅川地下壕の見学」の記事を見つけメールした。
ヘッドランプや手袋を準備して、足元は長靴が推奨という返答が届いた。
京王線高尾駅の南口に集合
30人の参加者と聞いていたが、25分前には誰もいない!
定刻になっても現れない方もあり、一寸ドタバタ
受付から資料の配布、案内まで壮年の男性が一人で対応されていた。
此の方が、
「浅川地下壕の保存をすすめる会」副会長の中田 均 氏だった。
先ずは、浅川小学校の敷地へ入り、三箇所あった地下壕の場所を指図
住宅街を抜けて、みころも霊堂へ
事前情報では、階段の途中を地下壕で作られた航空機のエンジンを運ぶ線路が有ったはず。
中程から奥を眺める。
この斜面を線路が走ったはずだが、解説はなかった。
前の広場には、作業員として連れてこられた朝鮮人労働者が2千人ほど泊まり込み、
地下壕を24時間体制で掘り進めたらしい
更に進み
ここから奥が浅川地下壕のある場所との解説
そして、
この沢の下に地下壕が走っているが、この下は通路状態との解説
前方の山の中腹には、地下壕「ろ」の入り口が見える!!
解説だ。
更に進むと、
この石は掘り出された石のはずです。
帰り道、カミさんが袋に一つ仕舞っていた。
浅川地下壕のメイン「い」地下壕の入口に到着
トイレ休憩になり、奥にある施設へ
前の広場は、高乗寺の入口らしい。
10分後集合
ヘルメットをお借りして、再度解説を聞く。
目の前に有るトンネル入口だが、ここからは出入りはできない。
民家の玄関を入り、脇を抜けて、いよいよ浅川地下壕へ突入!
これだけの手間をかけながらも、あまり役には立たなかったらしい浅川地下壕
懐中電灯を照らしながら、シャッターを押す。
それにしても、このトンネルの殆どは岩盤、危険な作業を強いられたのは朝鮮から連れてこられた朝鮮人と聞いた。
日本人は残酷なことを日常で行っていたのかと、気を病んだ。
80年近い年月が過ぎてもまだ通行できるトンネルの見事な作りに感心!!
ここから右側へ曲がる。
大学生のグループには、お爺さんの時代の話で、新鮮だったろうか?
所々天井が白いのはカビらしい
ここの黒い石の先も白っぽい
ここも
私の父は、マレーシアとか南方へ従軍していたらしい。
敗戦後、公職に就いている時公衆の面前でMPに逮捕され、巣鴨へ連行されたらしい。
しかし情報を話すのが不十分で、二等兵だったらしいが巣鴨プリズン入りだったらしい。
逮捕時の私は母のお腹の中、母はストレスで一ヶ月以上の早産だったと聞いた。
奥へ進む
持参の懐中電灯が一斉に同じ方向を向くと、写真も撮りやすかった。
先へ進むが、暗すぎるので自分のライトをスポットにしながらカチャリ
もちろんヘッドライトも必須、
足元には石や水たまり、所により棒きれが立つ。
置かれた木は新しく見えたけど?!
それにしても見事な仕事!!
もちろん足元には十分注意が必要
進むと、鉄格子で行き止まり
サリン事件の時、奥にサリンが隠されるといけないのでと左下の赤い鉄作が追加されたとか
此処から先はやや狭くなっているようだったが、随分長いトンネルだ。
もっと狭い範囲で、広い場所が確保できたのではなかろうかと想像しながら、・・・・。
脇へ曲がる。
中田氏の解説が始まる。
更に先で立ち止まる。
東大の地震計が設置されていると言う。
電源とLANケーブルが敷かれており、外まで繋がり、自動で情報が送られているらしい。
従って、我々が歩くと揺れるため、入壕時には連絡をしています、との事。
浅川地下壕-2へ続きます。
8月21日 日曜日は、2、926歩 歩きました。
20日に歩き過ぎたので調整も兼ねて、篭もりました。
8月22日 月曜日 7時21分 室内の気温は、27.8℃ 湿度は 68%
外気温は、24.4℃ 湿度が79%
何処かへ出かけようと、カミさんが情報収集におおわらわ、
さて 何処へ??