うちなんちゅうに、やまとんちゅう。
沖縄の言葉で、沖縄の人(うちなんちゅう)と内地の人の意味である。
ちょっと、憎しみと分け隔てがあるのである。
内地の人間にはアゲインストなのである。
3年は受入てくれないのです。
よそ者に対する意識以上のものが潜在意識としてあるのです。
こんなあ、言葉が違うでえ。
札幌から東広島に引っ越して、子供が最初に浴びた言葉でした。
3歳の娘は、意味が分からず無邪気にくっついて遊んでもらっていました。
島から通い始めた高校生時代。
広島の人は、私達をまとめて島の人間じゃけえと言ってました。
島もいろいろあるのですが、都会の広島からみれば、
信号もない島の人間なのです。
四月の節句(旧暦で行事が行われる)が過ぎると、
島から通う人たちは、まとめて休みました。
濃霧がかかるのです。レーダーを積んでないフェリーは航行できなかったのです。
その時に、島の人間とわかるのです。

島からみれば、広島の生活は裕福に見えました。
唯一の交通手段は船です。
広島には、路面電車もあれば、
汽車(まだ蒸気機関車がはしっていました)もバスもある。
ちょっと歩けば、商店街です。
毎日6時に起きて、帰ってご飯を食べるのが10時頃。
学校の成績は、悪かったのです。よって、勉強は船の中。
お年頃でもあり、フェリーの暗闇はカップルがちらほら。
都会に憧れるあまり、島の人間とは距離を置くようになりました。
そのうち、島の人間だけじゃない、田舎が総じて「島」だったことに
気づきました。世界から見れば、日本は島国だと気づきました。
そして落ち着きました。自分の島(生まれ在所)が懐かしくなってきました。
島の中でも、隣の村とは言葉が異なりました。通じないのです。
細かく見るか、大きく見るか、人それぞれです。
しかし住んでいるのは、今のここです。
憧れてもどうにもなりません。ないものねだりです。
浮き草であろうと、根をしっかり生やしているのです。
私は、濃霧になるとちょっぴり嬉しかったのです。
なんと言われようと、今日は何をしようかなと、
自然が突然くれた、公然の休みでした。
霧だして 行くに咲かれぬ 島桜
2015年4月5日