黒田官兵衛の播磨山崎城のビイスタ工法
◆長谷川
『黒田家譜』天正8年(1580)に羽柴秀吉に
より播磨・但馬が平定された後の官兵衛の
動向に関し「孝高ハ元来幡州ノ国士にて、
秀吉の謀臣たるによって、但馬にハつかハ
されず。幡州宍栗郡山崎の城に居らしむ。」
とある。当該「山崎の城」は江戸期築城の
平城「山崎城」(鹿沢城・山崎町鹿沢)
と異なリ「篠ノ丸城」山崎町横須と推定
されています。
◆長谷川
さて一説に文禄慶長の役の際に太閤秀吉の
本営肥前名護屋城にはビイスタ工法が存在
すると以前何回か述べましたが、件のこの
肥前名護屋城にはビイスタ工法を見出せる
と思います。
◆長谷川
比較研究論として「篠ノ丸城」山崎町横須にも
城郭ビイスタ工法が存在するのか研究家として
は比較考察する事が日本城郭研究の研究手法の
一手段して肝要かと思います。「篠ノ丸」にも
やはりビイスタ工法が潜在していると思います。
◆長谷川
上記赤色写真には数多く連続竪堀の影も
散見され城友は興味深いと言えましょう。
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