城郭 長谷川博美 基本記録

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さきたま古墳群 ビイスタ工法の一考察

2022-05-21 02:36:02 | 規矩術、ビイスタ工法、城郭平面幾何学、

さきたま古墳群  ビイスタ工法の一考察

◆長谷川

城の図面ばかり見ていると疲れる時がある。

私は「さきたま古墳群」の図を疲れた目を

して見ていた。倭族、和種とは何故?前方

後円墳を作るのだろうかと?前方後円墳は

韓半島南部から日本列島東北部にまで分布

する古墳の一様式である事に間違いがない

が稲荷山古墳の中堤には、古墳祭祀の場と

して作出部が青線の如く存在する。これ等

はビイスタ工法を応用して青線の如く土木

工事を施している。勿論前方後円墳の前方

部は放射状ビイスタ工法そのものである。

前方後円墳の萌芽や系譜は既に弥生時代

の前方後円周溝墓に既に発生の起源があり

幾何学の基本は四角、矩形の方眼状升目を

を基調とする90度角度とする直角を基調と

する方眼状グリッドと放射角度を基準とす

るものとコンパス「矩」を基調とするもの

に大別する事ができる東洋史では、規矩術

と表現している。東洋で放射状に形成され

る器物で身近な物は唐笠、団扇、将棋、羽子

等の数多くの物品が放射状に設計されている。

さて中土堤の巨大な作出は地方王墓の古墳

としては異例の様にも思えた。また前方後

円墳、稲荷山、将軍塚山、二子山、愛宕山、

瓦塚、鉄砲山、奥の山、中の山古墳の前方

後円墳には機内大和の大王墓とは異なる、

矩形の二重周壕を巡らせいている事例も、

地域の首長墓の独自性やアイデンティテイ

を強く打ち出している。稲荷山、将軍塚

山、双子塚、瓦塚、鉄砲山の各古墳には

直接後円部に左片袖の作出部「赤点」を

備えている。ま各古墳は赤線の如く赤線

の如く複数腺で一組のグループを形成し

ていると考察した。

◆長谷川

私は独自に赤の放射腺状の王墓、青の放射腺の

王墓、緑の放射腺の王墓、黄色の放射腺の王墓

を仮説として群集前方後円墳のビイスタ工法論

的配置の一考察として仮説論として表現した。

私の赤、青、緑、黄色など古墳配列の意味は

1ーーーーー2ーーーーーーー4ーーーーー5

「親」ー「子」ー「孫」ー「曾孫」ー「玄孫」

の様な地方首長の王族系譜を物語るものか?

現代会社組織でも血族相続形式のフアミリー

会社を形成する組織もあるが血族に関係ない

リダーシップを執る会社経営が行われている

人間社会においても血族間で利権争いや相続

を争う血族相克は源頼朝など源氏でも発生し

ている。このさきたま古墳群の被葬者達も必

ずしも血族相続者の首長墓群とは限らない。

◆無関心様

今回の投稿戦国と関係ないっしよ!オレ興味

全然ゼロなんすよ!

 

◆長谷川

失礼致しました。貴方は戦国にも古代も興味

が無いのですね?

 

◆無関心者

戦国は興味アリすよ!古墳なんかは知らんし!

 

◆長谷川

丸墓山は石田三成の本陣だと一目見て解るセンス

が貴方に欲しいですね!つまり此処は豊臣秀吉軍

2万人が後北条方の忍城を包囲した歴史現場です。

古代は此処が関東の表舞台だった。戦国期も此処

が表舞台の一つだ。稲荷山古墳の被葬者は大和の

天皇を補佐する人物だった。王を補佐する人の事

を王佐之才「おうさのさい」と呼びます秀吉の天下

創業を補佐した人物こそ、石田佐吉こと石田三成

すよ。歴史は普遍的に繰り返されているものです。

 

      石田三成本陣

読み・・・いしだみつなりほんじん

所在地・・・埼玉県行田市埼玉(旧行田市)

築城年・・・1590年

築城者・・・石田三成「本来は円墳」

主な城主・・・石田三成

 

水攻めの本陣

1590年、豊臣秀吉が小田原攻めをした際、

石田三成は忍城を水攻めにしたが堤防決壊し

た。その本陣こそが丸墓山古墳であったと言

われ、古墳の南北に堤(石田堤)を築いた。

◆反論者

でも古墳と戦国関係無いっしよ!?織田信長

とかに関係なし勝家とか光秀も関係ないし。

 

◆対談者

姉川合戦の信長本陣が辰が鼻「茶臼山古墳」

山崎合戦の光秀本陣が「御坊塚」前方講演墳

賤ケ岳合戦の勝家本陣が余呉の狐塚でしよ?

秀吉は余呉湖畔の山中「茶臼山」に一時的に

布陣しています。「保崎谷古墳」勿論大阪城

の茶臼山も古代の古墳が起源な訳なんですよ。

 

◆対談者

所で古墳が築造されていた時代に文字が存在

したのでしょうか?一部の有識文化層のみが

漢字を使ったと思われますが、、、、、、?

 

◆長谷川

当該稲荷山古墳の鉄剣象嵌文字が著名。

以下ウッイキペデイアより稲荷山古墳。

銘文発見の経緯[編集]

1968年に行われた稲荷山古墳の後円部分の

発掘調査の際、画文帯環状乳神獣鏡や多量

埴輪とともに鉄剣が出土した。1978年

腐食の進む鉄剣の保護処理のためX線によ

る検査が行われた。その際、鉄剣の両面

に115文字の漢字が金象嵌で表されている

ことが判明する(新聞紙上でスクープとな

り社会に広く知れ渡ったのは1978年9月[1]

その歴史的・学術的価値から、同時に出土

した他の副葬品と共に1981年に重要文化財

に指定され、2年後の1983年には国宝に指定

された。当初、古墳の発掘は愛宕山古墳

行われる予定であったが、崩壊の危険がある

ため稲荷山古墳に変更された。

銘文の内容[編集]

(表)

辛亥年七月中記乎獲居臣上祖名意富比垝
其児多加利足尼其児名弖已加利獲居其児名
多加披次獲居其児名多沙鬼獲居其児名半弖比

(裏)

其児名加差披余其児名乎獲居臣世々為杖刀人
首奉事来至今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時
吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也

漢字六書の仮借から銘文の漢字一字を読み一字

とした場合、書かれている文字に読点を打って

解釈すると、

辛亥の年七月中、記す[2]。ヲワケの臣。上祖、

名はオホヒコ。其の児、(名は)タカリのスクネ。

其の児、名はテヨカリワケ。其の児、名はタカヒシ

(タカハシ)ワケ。其の児、名はタサキワケ。

其の児、名はハテヒ。(以上は表面)」

「其の児、名はカサヒヨ[3](カサハラ[4])。其の児、

名はヲワケの臣。世々、杖刀人[5]の首と為り、奉事し

来り今に至る。ワカタケル(『ワ、ワク、カク』+

『カタ』+『ケ、キ、シ』+『ル、ロ』)の大王の寺[6]

シキの宮に在る時、吾[7]、天下を左治し、此の百練の

利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也。

(以上は裏面)」

特色[編集]

115文字という字数は日本のみならず他の東アジアの

例と比較しても多い。この銘文が日本古代史の確実な

基準点となり、その他の歴史事実の実年代を定める上

で大きく役立つことになった。

また、1873年(明治6年)、熊本県玉名郡和水町(当時

は白川県)にある江田船山古墳からは銀象嵌の銘文を有

する鉄刀が出土した。この鉄刀の銘文にも当時の大王の

名が含まれていたが、保存状態が悪く、肝心の大王名の

部分も字画が相当欠落していた。この銘文は、かつては

「治天下𤟱□□□歯大王」と読み、「多遅比弥都歯大王」

(日本書紀)または「水歯大王(反正天皇)」(古事記

)にあてる説が有力であった。しかし稲荷山古墳出土の

金錯銘鉄剣の銘文が発見されたことにより、「治天下獲

□□□鹵大王」 と読み、「獲加多支鹵大王(ワカタケル

大王、雄略天皇)」にあてる説が有力となっている。

このことから、つまり5世紀後半にはすでに大王の

権力が九州から東国まで及んでいたと解釈される[8]

 

◆質問者

東国王オワケの臣とは

時代を体表する偉大な東国の統治者だったですか?

為政者とは巨大なランドスケープ計画を創立する?

 

◆長谷川

①藤原宮の壮大な都市構想「藤原の宮」のビイスタ

方形グリッドと放射グリッドを併用して都城を構築

②平清盛の兵庫港の後身兵庫城  西国交易の重要拠点

③源頼朝の鎌倉府 東国武士政権の巨大な府城

④倭国統治創業を補佐したオワケの臣等陵墓群

 圧倒的な土木量を投入し作られた巨大古墳群

◆対談者

長谷川先生もしかしたら!私はビイスタ論動画

の視聴者数がてっきり25名程度かと馬鹿にして

ましたがもしかすると2500名様も賢明な皆様が

御覧になられビイスタ論の動画が到達するかと

と不安を抱いております私達の講師長谷川先生

はせいぜい受講者様は5~6人名が良い所ですよ!

それが2500人を超えると言う事自体異常な現象!

 


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1 コメント

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Unknown (Unknown)
2022-05-20 10:39:42
長谷川先生のビイスタ論は異常な論説ではありません。土木建築文化論として見落とされていた偉大な着眼点にして戦前戦後を通して最も革新的な研究論でしよう。
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