伊藤浩之の春夏秋冬

いわき市遠野町に住む市議会議員。市政や市議会、日常の活動などを紹介していきます。

震災後初めて訪ねた南相馬市小高区・浪江町

2013年11月23日 | 原発
 原発事故で真っ二つに分断された浜通りの交通。あれから2年8ヶ月、福島県浜通りの北部を訪ねる機会がありませんでしたが、やっと訪ねることができました。訪ねた翌19日から市議会の決算委員会が続き22日にやっと終了。あの視察を振りかえってみました。




 福島県浜通り。調べると1876年以前は磐前県(いわさきけん)という独立した県だったようです。歴史的に交流の深いこの地域が原発事故で南北に真っ二つに分断されました。この浜通り北部・南相馬市や浪江町を、11月18日に視察・訪問したのは福島県内の日本共産党の地方議員の一行。津波被災に加え、原発事故による放射性物質の汚染、これに伴う避難区域等に設定されたことで遅れた救援や復旧・復興事業の実情を目のあたりにし、被害の深刻さにあらためて衝撃を受けるとともに、原発政策をすすめた国や東電の責任の重さを通関する機会になりました。

 前日、飯坂温泉の旅館で日本共産党の原発政策などを学んで宿泊。日が変わり、朝を向かえ南相馬に向けて出発しました。途上、福島市内でも線量が高いとされる渡利地区を通り、川俣町、飯舘村を通り南相馬市に入りました。

 全村避難をしている飯舘村では、道沿いの住宅や農地で除染作業がすすみ、除染された汚染物を詰めたフレコンバックがところどころに積み上げてありました。車の通行量は思ったよりありますが、戸外の人影は、作業員と思われる人影以外はほとんど確認できません。そこに原発事故の影響の深刻さが浮き立っています。

 飯舘村を過ぎ八木沢峠を下ると、次第に放射性物質の汚染度は低くなり、南相馬市に入ります。南相馬市の道の駅で同市の渡辺寛一市会議員と合流、国道6号線を南下し、同市小高区(旧小高町)に向かいました。

 小高区は南相馬市で原発にもっとも近い地区。干拓地の井田川に向かいました。ここに至る途中、コメを保管していたという倉庫がありました。背後には小高い丘。この倉庫も津波に襲われました。保管されていたコメ袋は、倉庫の前面に散らばっていたと言います。津波は前面ではなく、背後の丘を超えて倉庫を襲ったというこらしい。

 宮田川に着きました。ここにかかる橋の上で説明を聴きました。井田川地区は61戸あったそうです。ここも津波に襲われたそうです。しかし津波ばかりではなかった。津波の後に悲劇が襲いました。

 干拓地の同地区は、ほぼ海抜ゼロメートルの水田地帯。その中を流れる宮田川は満潮になると逆流してしまう。そのため河口には水門が設けられ、満潮時や高潮時には水門を締めて農地を守っていたそうです。

 津波が襲ってくるという報が伝わり水門が閉められました。閉められた水門はやがて開けられます。ところがこの時は違った。原発事故が発生し、原発から20Km圏内の小高区でも放射性物質の汚染から逃れるため人々が避難をしたのです。

 開ける人のいない水門の中には水がたまり、井田川地区は水没をしてしまい巨大な湖ができ、少し内陸になる国道6号線をこえて水田地帯を水没させました。それから1ヶ月半、4度目の挑戦でやっと水門を開けることができたそうですが、その間、津波被害者を捜索することはかないませんでした。同地区では41人が亡くなっていたと聞きました。「原発事故がなければ助けることができたかもしれない」。生き残ることができた住民の心に悔いを残したそうです。

 宮田川の水門付近は砂防林に覆われていました。多くの杉の木が津波に流された後も、2本だけは生き残りました。小高の「奇跡の二本松」です。

 小高の後、浪江町に入りました。許可を得ての視察です。6号国道から海側に向かいました。町並みは震災の被害の跡をそのまま残しています。海岸近く。請戸川にかかる請戸橋から請戸漁港方面に目をやります。漁港の面影はありません。荒れ果てている陸地、おそらくそこは農地だったと思われます。そこには漁船が転々と転がっています。2011年3月11日以降、復旧することができないでいるのです。

 請戸橋から南に目をやると、遠く離れた平地と空の境目。そこには林が横たわり視界を遮ります。その林の上に煙突が数本、そしてクレーンが突き出ています。事故をおこした東京電力福島第一原子力発電所です。約6.5Km 先では、原発事故を収束させるための作業が、その時も続いていたわけです。

 この日は4号機の使用済み燃料プールに保管された核燃料を取り出し、共用プールに移すための作業が開始された日。後から記念すべき日だったのだということに気が付きました。

 請戸を視察した後、国道6号を挟んで浪江駅方面に向かいました。町の中では、一部で被災した建物の撤去作業が行われていました。しかし時は止まったままです。浪江駅近くの新聞店のウィンドウから梱包されたままの新聞が見えます。2011年3月12日、なんとか運びこまれた新聞が配達されることがないまま積まれているのです。原発事故が止めた時をそのまま記録に残しているわけです。

 浪江町を後にしてコースを逆にたどり、小高区、原町区、そして飯舘村、川俣町を通過し、福島市に戻りました。いわき市とは違う被災状況に置かれる浜通りの北部地区。そのことをまざまざと思い知らされた視察でした。

 震災と原発事故から2年9ヶ月が過ぎて、いまだに続く原発事故の悲惨な現実。こうした危険を内在する原発を残して良いのか。いま現在、そのことが問われています。原発の再稼働が必要と思う人々にも、この現実を見て考えて欲しいものです。

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