メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

魔笛 (ミラノ・スカラ座)

2012-03-26 13:58:11 | インポート
モーツアルト:歌劇「魔笛」
指揮・ローラント・ベーア、演出:ウィリアム・ケントリッジ
サイミール・ピルグ(タミーノ)、ゲニア・キューマイア(パミーナ)、アレックス・エスポージト(パパゲーノ)、アイリッシュ・タイナン(パパゲーナ)、ギュンター・グロイスベック(ザラストロ)、アクゼナ・シャギムラトワ(夜の女王)
2011年3月 ミラノ・スカラ座、 NHK BS 2011年12月放送の録画
 
この魔笛の特色といえば、まずモーツアルトの他のものと違ってドイツ語の歌芝居という形だからか、もとから台詞部分が多い(ミュージカルみたいという人もいる)のだが、この演出は台詞が少し多いようだし、台詞を大きな声で出させているように思える。
 
それから、この非現実な背景を、手書きの影絵のようなプロジェクター映像を駆使して、うまく見せ(例えば動物など現実に見えるように、子供向けのように、ださなくてもいいわけだから)、時間の推移も見る者の想像力にまかせる、という美術、演出は面白いし優れている。衣裳は20世紀前半だろう。
 
「魔笛」はこのところ見る機会が多いが、見れば見るほど、先日も書いたように、この若い二人が試練を乗り越えお互いを思いやる真実の愛を見出す、というテーマが、むしろマザコンからファザコンへではないか、とより思えてきて、どうもあまり好きではない。特にザラストロの押し付けがましさ、周囲の賛美は目障り、耳障りである。
 
ザラストロと夜の女王は一時期夫婦で、別れた後に娘を取り合って争っている、という解釈は以前からあって、細部で台本と辻褄はあわなくても、そう見ておいていいだろう
 
それを救うのがパパゲーノなのだが、この演出では衣裳も地味で、つまり「鳥刺し」という異形、非日常が少しもない。歌手はうまいのだが、こう見えてしまうのは演出のせいだろう。
 
指揮のローラント・ベーアは、特にどうということはないが、いい音楽進行だった。

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マスネ「タイス」(メトロポリタン)

2012-02-14 15:29:39 | インポート
マスネ 歌劇「タイス」(Thais)
指揮:ヘスス・ロペス=コボス、演出:ジョン・コックス
ルネ・フレミング(タイス)、トーマス・ハンプソン(アタナエル)、ミヒャエル・シャーデ(ニシアス)
2008年12月20日 ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場  2012年2月WOWOW放送録画
  
マスネの「瞑想曲」は聴けばだれでもこれか、というくらい知れわたっている。しかし、この曲がこういうオペラの中の一曲であることを私も知らなかったし、知っていたとしてもこのオペラを見ることはそんなにないだろう。事実この上演はメトにとっても約40年ぶりだったようだ。
 
とはいえ、こうやって見せてもらえば、これはなかなか聴く楽しみをもった作品である。
タイスはアレクサンドリアの娼婦にして社交界の中心、ということはヴェルディ「椿姫」の主人公のようなものか。それを熱烈な信仰心を持つ修道僧アタナエルが回心させようと、嘗ての友人ニシアスに囲われているタイスに会いに行く。いろいろあった末にそれは成功し、修道院に連れて行くがそのあと、、、
という話である。その回心と最後のドラマチックな展開に重要な役割を果たすのがこの「瞑想曲」のメロディー。ヴァイオリンの独奏パートが目立つコンサートマスターが拍手にこたえるというのもオペラでは珍しい。
 
主役の二人は充分楽しませてくれる。フレミングはいまやメトの顔みたいなもの、妖艶といううには少し愛らしさが残っているけれど歌は申し分なく、ハンプソン(バリトン)は長身もあわせ役にぴったりである。
 
調べてみるとマスネ(1842-1912) 1894年の作品で、オーケストラの音は想像したより分厚く、充実感があった。世紀末の作品といえばそうかもしれない。
歌詞はフランス語、かなり乗りはよく、キーになる単語はよくききとれる。
 
指揮のロペス=コボスは場数踏んだ人だからこういうものは慣れているのだろう。
 
こうして次々と「どんなオペラ?」という疑問にこたえてくれるのはありがたい。

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ショルティの「魔笛」

2011-12-15 14:46:56 | インポート
モーツアルト: 歌劇「魔笛」
ゲオルク・ショルティ指揮ウイーン・フィルハーモニー管弦楽団
演出:ヨハネス・シャープ
デオン・フォン・デア・ヴァルト(タミーノ)、ルース・ツィーサク(パミーナ)、アントン・シャーリンガー(パパゲーノ)、エディット・シュミット・リンバッハ―(パミーナ)、ルチアーナ・セーラ(夜の女王)、ルネ・ハーペ(ザラストロ)、フランツ・グルントヘーバー(弁者)、ハインツ・ツェドニク(モノスタトス)
1991年8月8日、ザルツブルク祝祭大劇場
2011年10月NHK BSプレミアム「ハイビジョンアーカイブス」で放送されたもの
  
魔笛は劇場でじかに、また映像でもなんどか見てきたが、今回久しぶりに見て、このオペラの主人公はパパゲーノかな、と思うようになった。少なくとモーツアルトはそうしようとした、と。
 
夜の女王のザラストロに対する恨み(この二人は以前結婚していた、という解釈に基づく演出があったような気もする)、それに対する娘パミーナの服従、その世界は感情をもとにした世界(たいては外部に対する怨恨に結びつく)、それの否定、克服としての昼、賢さ、試練の対置、その象徴としてのザラストロ、娘の動機付けとしての王子タミーノ、ということなのだろうが、どう見てもザラストロは魅力にとぼしく、小説、戯曲ならともかく、これはオペラとなると音楽で救うというも難しい。
 
これを我慢して、いろいろ解釈しながらこれまで聴いてきたのだが、今回こういうことはあまり気にせず、この状況を打開していくのはパパゲーノの天性、と考えれば納得いくし、見ていて、聴いていて楽しい。ザラストロのいうことをきくものばかりでは、事態は進まないのである。
最後に夜の女王が敗れるのが雷のせいではこっちは納得しないが、パパゲーノを見ていれば、生き残るのはこっち、というわけだ。
 
この演出、よくあるおどろおどろしい、あるいは子供っぽいところはなく、透明感のある舞台、歌唱は悪くないが容姿も衣裳も地味なタミーノとパミーナに比べ、パパゲーノのシャーリンガーは躍動感もあり、衣裳もはっきり目立つものとなっている。
 
1991年ですでに歌手で記憶のある名前がハインツ・ツェドニク(モノスタトス)だけとは、メトロポリタンと同様、こっちの鑑賞体験に空白があるようだ。
 
ショルティ(1912-1997)はこのとき78歳、この人の魔笛はやはりウイーン・フィルとのスタジオ録音を聴いているけれど、今回その指揮ぶりとともに聴くと、この曲の演奏として最高に精妙であり、あのウイーン・フィルも磨きに磨いたという感じの演奏である。これほどのレベルの演奏はほかにないかもしれない。
 
そしてパパゲーノにスポットライトがという意味では、最後のアリアのところでパパゲーノはオーケストラピットに降りてきて、ショルティはパパゲーノと仲よさそうにチェレスタを自ら弾きながら伴奏指揮をする。主役はパパゲーノ、ととってもいいですよ、とでもいうように。
 
ショルティはもともとピアニストでコンクールにも出たこともあり、自信たっぷりでうまい。晩年にいい映像を残してくれた。
 
ところで、日本語歌詞のスーパーが妙に小さい、と思っていたら、これは1991年放送時のまま今回も放送しています、と表示があった。そう、この鮮明なハイビジョン画面はすでに20年前に放送されていたのである。
このところ大学でデジタルアーカイブの概論を講義しているが、主対象は3年生でほとんど1990年生まれである。どうりでアナログだデジタルだといっても、理解しやすい話かたに苦労するわけだ。

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催眠(ラーシュ・ケプレル )

2011-11-07 09:39:12 | インポート
「催眠」上下、ラーシュ・ケプレル 著、ヘレンハルメ美穂 訳、ハヤカワ文庫
 
スウェーデン・ミステリは先の「ミレニアム」をはじめとして好調のようなので、評判の作品を読んでみた。
が、今回は不満が募った。途中からあと、結末は知りたかったから最後まで行ったが、結末というよりはその過程、背景、多くの登場人物に、こちらが入っていけないものを感じた。
 
ミレニアムのように、登場人物の内面、家庭、男女関係は詳細に描かれ、それが現代社会を反映しているのは、他の国のものとは違っていて、特徴的ではあるけれど。
 
精神科医が主人公で、過去に患者グループに施した催眠治療で問題が生じ、二度とやらないと宣言したのだが、ある少年が起こした異常犯罪で、警察から頼まれ関係者を守るべく少年に催眠術をかける。
しかし、それがきっかけで様々な奇怪な事件がおこり、それは主人公の家族におよぶ。
 
主人公の描き方に特に不満はないが、展開が精神を病んだ未成年の、それもゲームの世界がからんだもので、過去の治療風景が延々と続く描写も気分が悪いし、異常な暴力もこんなに描写する必要があるのか。終盤のアクション描写は無理がある。
  
それから主人公の妻について随分いろいろ書かれているのだが、まったく魅力が感じられず、感情移入していけない。
 
唯一の救いは、捜査の中心となっている警部で、この作者のシリーズでは今後主人公になっていくらしいから、期待できるかもしれない。

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シフラ in Tokyo 1964

2009-04-22 22:24:40 | インポート
「シフラ in Tokyo 1964」
ジョルジュ・シフラ(Georges Cziffra)(1921-1994)が、確か最初に来日した1964年4月23日東京のリサイタル録音。BBCから発売されたCDだが、BBCLEGENDSシリーズではなく、mediciMASTERSというシリーズになっている。
前半がショパンを幻想曲、ワルツ、即興曲、バラード、ポロネーズなど7曲、後半が彼の売り物であるリストの技巧的な4曲、という構成になっている。
 
リストは好き嫌いはともかく、この圧倒的な演奏はカタルシスをもたらすことうけあいで、文字通り手に汗握るものだ。
 
そして意外なのはショパンのしっとりしていてなかなか聴き応えがあることだろうか。シフラは来日の数年前、母国ハンガリーでの迫害から西に逃れてデビュー、評判になり、このときはそれを証明するものであったのだが、その後、特に日本ではこういう技巧派、そしてジプシー的とされる演奏は、ドイツのクラシックにもつらなるリストの正しい解釈とはちがうという論調が主流となり、際物あつかいに近いものとなっていた。
 
ただ、シフラが国籍を得たフランスなど、そうでもなく受け入れられたところもあり、日本でもプロの演奏家には彼が好きな人もいたようである。
 
フランスでもSenlis(サンリ?)というところに居ついて、古いチャペルを修復、そこで晩年に録音した「Les Rendez-vous de Senlis」という4枚組みのCD(EMI)でも、クープランやラモーを多く弾いておやと思わせ、ショパンはとってもいいアンソロジーになっている。
 
リストも、おそらくこの流儀につらなる先人の演奏もあっただろうし、楽譜を見て実際に弾けばこういう勢い、流れも出てくるだろう。そうではなくて、リストも古典派をベースにしたロマン派のクラシックという人たちのよって立つところは何なのか。それがコンセルヴァトワールというものかもしれない。もっとも、シフラのやり方だって音楽的な本能でもあるけれど、誰かがこうしたらと言って、それが継承されてきたところもあるだろう。
 
リストはどうしたかったか。
 
演奏会の会場はどこだったのか。東京文化会館?
ネット上でいろいろ検索してみたが、どうもみつからない。一般に古いコンサート情報は、意外に少ない。音楽事務所の記録のアーカイブなど、出来ないだろうか。
 
録音はあまりよいとはいえないが、おそらく客席でのものではない。NHKの「20世紀の名演奏」にここにも入っているリスト「半音階的大ギャロップ」があったっから、NHKではないかとも思われるのだが、何か契約上の問題があるのだろうか。
 
実はこの少しあと、5月9日(土)日比谷公会堂で、シフラは協奏曲を弾いている。岩城宏之指揮のNHK交響楽団。
リサイタルは聴いていないが、これは聴くことが出来た。というより、まだピアノを聴きはじめたころだったから、一つだけ行くとすれば協奏曲のほうが飛びつきやすかったのだろう。
このときのチケットはスクラップ・ブックに貼られて残っているのだが、プログラムもメモもないから、何が演奏されたか、判然とはしない。リストのピアノ協奏曲第1番は確かであるが、もう一つは何だったか。かなりの確率でチャイコフスキーだったとは思うのだけれど、これも検索してみたが、確かな情報はない。
 
この2日前の5月7日(木)には、アンドレ・クリュイタンス指揮パリ音楽院管弦楽団の「ラヴェルの夕べ」というオール・ラヴェル・プログラムを東京文化会館で聴いている。クリュイタンスの来日はこれ一度でしばらくして亡くなってしまったし、このオーケストラもなくなってしまったから、この機会は貴重であったし、この週は特別に贅沢なものであったわけである。NHKの録音がCDになっている。

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