「没後50年 横山大観 ‐ 新たなる伝説へ」
国立新美術館 2008年1月23日~3月3日
横山大観(1968-1958)の絵は随分見ている。それでも大観だけの展覧会というのは見た記憶がないから、今回は多少余裕を持ってみていると、自然に一つのことが浮かんできた。
大観だけというのではないが、近代の日本画というものには時間が感じられない。ということは運動が見えてこない、つまり中の人物や動物が今にも動き出しそうだという気配がないのである。
それではその絵がよくないか、感銘を受けないかというと、そんなことはない。例えば「五柳先生」(1912)は六曲一双の大きなもので陶淵明と童子が描かれているが、先生の鬚や衣が風に翻っているにもかかわらず、それは風を表現しているというよりは、なにかその形象そのものを見るものに届けるという趣で、何か一つの理想とでもいうべきものが形として感じとられる。
大好きな「生成流転」にしても、これは川がその源から長い旅を経て海へまた空へというスケールの大きいものであるけれども、部分部分を見てみると必ずしも水が流れているという様相ではない。その一方で右から左にどこで変化が起こっているのか、ちょっと見にはわからないうまい描き方である。
この時間がない、動きを感じにくいということが、それでは装飾、デザインといったものにもう一歩でなりそうというのでないところが、大観のいいところといったら変だろうか。
そういう大観でも大戦後の絵は、荒廃の中から立ち直ろうとしたのか、西洋への対抗意識がより強く出てきたのか、力強さがはっきり出てきているものが多く、また色使いも派手になってきていて、そういったことが様式感を失わせる結果となっているように見えてならない。
そういう中であるからこそ、「或る日の太平洋」(1952)には、画家が自らだけを信じた創作というしかないものがある。題材からはちょっと敬遠していたこともあった絵だけれど、次第にそうでもないなと、このところ好きになってきている。
新美術館は開館から1年、混雑がいやだったというのは言い訳だが、今回が初めてだ。やはりこれだけ大きいのはいい。ちょうど文化庁のメディア芸術祭も開催されていて、こちらも覗いて見たが、会場に余裕があることもあって、最近の若い人たちの試みをリラックスして楽しむことが出来た。