「瘋癲老人日記」 (谷崎潤一郎、1962年) 新潮文庫
谷崎潤一郎(1886-1965)のまとまった作品としては最晩年に近いものである。新潮文庫で「鍵」(1956)と一緒になっているように、男の老いと性を扱ったものではあるが、前者がまだ生々しいところとそれに対する執着、日記が相手に読まれるか、読まれるとして書くかという他人との関係、その認識と描写というさまざまな問題を扱い、その方法に対する試みを含んでいるのに対し、これはかなり単純である。
主人公は文筆をよくし、和洋の教養もあり、財産を持っている大家族の長で、老いから来る体の不調に不機嫌であるが、頭は性に対する妄想で一杯であり、しかもそれはかなりマゾヒスティックで息子の嫁に集中している。
発表された時こちらは学生で、新聞などでかなり騒がれ、周囲でも話題になっていたが、老人が主人公ということもあるのか、これまで読まずにいた。カナカナ表記の日記体というのも、遠ざけていた一因かもしれない。
結果として、老年にさしかかる時期に読んでよかったと思う。今読めば、半分は不良老年の、そのわけはよくわかる執着と妄想であり、その見え方がいささか滑稽であるのも自然である。
それにしても、文学の世界で、それまでこれに似た世界があったであろうか。おそらく、日本の社会が豊かになり、栄養と医学に恵まれ、体、そして頭の一部がこれまで以上に生きながらえてしまった、こんなに長寿になってしまったことの、帰結だろうか。
カタカナの文章は、少し慣れてくると、読み進むのにそれほど苦労はない。自らを恥じずにありのまま書いていく日記体、谷崎の発明と文章力であろう。
谷崎の作品は、歳をとって「細雪」から読み始めたが、今後は初期から中期のいくつかを楽しみたい。