チェーホフ: ワーニャ伯父さん ー田園生活の情景ー 四幕
神西 清 訳 新潮文庫
有名な四大劇の二番目で1897年に発表された。
舞台はこの前の「かもめ」と同様に田舎の地主、インテリ階級である。
退職した大学教授、妻とおそらく死別したのち再婚した相手のエレーナは若い。先妻の娘ソーニャは気立てはいいがエレーナほどの器量ではない。ソーニャの母方の伯父がワーニャで独身、その他医師、地主など。医師は「「かもめ」同様ポジションとしては高い。
ワーニャもインテリで領地の経営に尽力して教授を支援したが、その甲斐はたいしてなかったと思っていて、元教授との財産関連の諍いから自分の半生を嘆き不機嫌、ふさぎの虫を続ける。
ソーニャも望みがなくなってきて、後妻のエレーナが医師と結びつけようとするが、医師は逆にエレーナと駆け落ちしたいと言う。
「かもめ」と比べると登場人物の数も少なく、位置づけもはっきりしていて、一つ一つの台詞も長くとってあるから、それぞれの思いがすっと入ってくる。
おそらく作者の一番のねらいはワーニャによる半生の振り返り、悔やみであり、それは共感するところも多いのだが、読んでいて思い浮かべてしまったのは「山月記」(中島敦)の虎である。吠える虎が「臆病な自尊心」と評されたのはよく知られるところで、ワーニャも虎ほど強烈ではないが、本質的にはインテリであり、努力もしてきたわけで、そういって間違いではないだろう。
それを人生としてどうおさめていくか、ここでチェーホフは誰も死なせず、やはり絶望を感じたソーニャが「でも、仕方がないわ、いきていかなければ!」という言葉ではじまる名高い詠唱的な台詞でワーニャを慰める。ソーニャの忍耐、もちろんこれはワーニャを見て慰めるところから出てきたものだろう。終幕の見せ場の長い台詞、これは小説ではなく舞台だから効いてくるものだ。繰り返し味わうという気にもなる。
生きていって最後はこうしたいとして表現するとしたら舞台になるとチェーホフが示してくれ納得した。
神西 清 訳 新潮文庫
有名な四大劇の二番目で1897年に発表された。
舞台はこの前の「かもめ」と同様に田舎の地主、インテリ階級である。
退職した大学教授、妻とおそらく死別したのち再婚した相手のエレーナは若い。先妻の娘ソーニャは気立てはいいがエレーナほどの器量ではない。ソーニャの母方の伯父がワーニャで独身、その他医師、地主など。医師は「「かもめ」同様ポジションとしては高い。
ワーニャもインテリで領地の経営に尽力して教授を支援したが、その甲斐はたいしてなかったと思っていて、元教授との財産関連の諍いから自分の半生を嘆き不機嫌、ふさぎの虫を続ける。
ソーニャも望みがなくなってきて、後妻のエレーナが医師と結びつけようとするが、医師は逆にエレーナと駆け落ちしたいと言う。
「かもめ」と比べると登場人物の数も少なく、位置づけもはっきりしていて、一つ一つの台詞も長くとってあるから、それぞれの思いがすっと入ってくる。
おそらく作者の一番のねらいはワーニャによる半生の振り返り、悔やみであり、それは共感するところも多いのだが、読んでいて思い浮かべてしまったのは「山月記」(中島敦)の虎である。吠える虎が「臆病な自尊心」と評されたのはよく知られるところで、ワーニャも虎ほど強烈ではないが、本質的にはインテリであり、努力もしてきたわけで、そういって間違いではないだろう。
それを人生としてどうおさめていくか、ここでチェーホフは誰も死なせず、やはり絶望を感じたソーニャが「でも、仕方がないわ、いきていかなければ!」という言葉ではじまる名高い詠唱的な台詞でワーニャを慰める。ソーニャの忍耐、もちろんこれはワーニャを見て慰めるところから出てきたものだろう。終幕の見せ場の長い台詞、これは小説ではなく舞台だから効いてくるものだ。繰り返し味わうという気にもなる。
生きていって最後はこうしたいとして表現するとしたら舞台になるとチェーホフが示してくれ納得した。