メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

永遠の故郷-夜(吉田秀和)

2008-04-12 19:14:11 | 音楽一般
吉田秀和「永遠の故郷-夜」(2008年、集英社)
著者の書くものでも、このように歌曲それもフーゴー・ヴォルフのものが中心となると、ちょっと苦手である。ドイツ・リートが好きでドイツ語も達者な人たちならいいのだが、そしてヴォルフの歌曲一般の評価が高いのは知っているのだが。
 
歌詞や楽譜がよく出てくるのはこの人の書くもので慣れているけれど、結果として演奏を論じた場合かこっちも曲をよく知っている場合には理解できるがそうでないと残念ながらその世界に入っていけない。
 
それでも、リヒャルト・シュトラウスの「最後の四つの歌」、「万霊節」について書かれたものは楽しめた。
 
「最後の四つの歌」などは、若い頃聴いて、部分的にはひきつけられるところがあったものの、この歌の核心までは行き着かない感が残り、それは年齢にまかせるしかないと、その後何度も聴いてきた。そして、興味が薄れることはなく、今はこの曲の中に埋もれてもいい気分がある。
よく聴くのは、ヤノヴィッツ、カラヤン・ベルリンフィルのもの。
 
「万霊節」もいい曲だ。日本でいえば秋の彼岸の墓参りで、誰かを思うということだろう。
エリー・アメリングのドイツ歌曲アンソロジー(LP)の中にたまたま入っていた。
 
「最後の四つの歌」でたいてい最後に置かれる「夕映えの中で」冒頭オーケストラの部分は、映画「ワイルド・アット・ハート」(1990年、監督デヴィッド・リンチ、主演ニコラス・ケイジ)のオープニングで使われている。この取り合わせにはうなってしまった。
 
最近、一青窈の「ハナミズキ」を聴くと、「万霊節」が頭にうかぶことがある。

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細雪(1983年、東宝、市川崑)

2008-04-04 23:27:38 | 映画

「細雪」(1983年、東宝、140分)
監督:市川崑、原作:谷崎潤一郎、脚本:日高真也、市川崑、美術、村木忍
岸恵子、佐久間良子、吉永小百合、古手川祐子、伊丹十三、石坂浩二、岸部一徳、桂小米朝、江本孟紀、辻萬長
 
先日、市川崑追悼番組としてNHKBSで放送されたものの録画である。
谷崎の原作をここまで自分の世界、自分の手法に合う形に持ってきて、2時間20分というかなり長いものながら、台風洪水の場面、東京の場面をカットし、四女妙子(古手川祐子)のどろどろの恋愛沙汰も比較的短くまとめてしまい、原作からは感じ取れない随分相手に対して思い切ってものを言っている会話など、映画を作るときにはことまでやるものか、と感心する。
 
そして、桜から始まり、紅葉、吹雪で終わる様式、日本家屋の中で光と影のコントラストが強い世界に常に見るものを引き込み、その中で随所に見せる女対女、男対女のなまめかしさ。
何かミステリーが始まりそうといったら、監督に失礼か。
 
監督の視点は次女(佐久間良子)の夫(石坂浩二)だろう。彼は妻以外の女性に対して常に男を意識している。そして姉妹のドラマの軸は、動の長女(岸恵子)と静の三女(吉永小百合)である。(この二人、監督の好みの人選であることは言うまでもない、見ればわかる)
そして、監督の眼はこの一族内にしかない。映像技法も含めて優れた風俗映画であるが、その風俗は家族の中のものである。
 
映画を見るとき、困るのはその原作を読んでいる場合で、やはり気になってしまうことが多い。そして1959年に作られた映画(監督:島耕二)もまだ記憶に残っている。
 
2006年12月に、谷崎の細雪映画「細雪」(1959)について書いた。こっちの映画は短くまとまったものであるが、むしろ原作には近い。
作り手の視点は次女と四女にあって、この二人が静と動である。特に次女の視点は、この戦争少し前の時代を生きる男も女も問わない人間のものであり、また四女はその後に来るべき日本人の予言である。
 
谷崎の原作をよく読めばそれは読み取れるはずだが、他の作品にある女性を見る目、それはもちろん谷崎の作品評価の根幹にかかわるものではあろうが、「細雪」の評価においてもあまりにもそれにとらえられすぎ、上記については見過ごされることが多いようだ。
 
しかし、そうやって随所に男の舌なめずりが目立ってしまうには惜しい傑作なのである。この原作は。

1959年の映画では次女が京マチコ、四女が叶順子であった。市川崑の佐久間良子、古手川祐子には、こういう力やインパクトはない。
今回の長女岸恵子は市川の意図にはぴったりだろう。三女の吉永小百合だが、脚本もやはりこの原作の優柔不断さは変えられず山本富士子のようにそれだけでぴたりとはいかないから、最後の妹をかばうところで勝負したのだろうか。これが彼女の転機になったという声が多いが、それほどとは思えない。
 
ともあれ、映画と原作との関係は難しいが、そこが面白いということも出来る。


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包帯クラブ(天童荒太)

2008-04-03 17:26:17 | 本と雑誌
「包帯クラブ」(天童荒太)(ちくまプリマー新書)(2006)
 
どこの地域かは特定されていないが、海岸ではなく、県庁所在地の次くらいの都市の高校生たちグループの話である。
 
外科的な傷がない少女が包帯を巻かれてから、彼女はそれをきっかけに動きを始める。そしてクラブが出来る。
「結成」という章の一部を引用すれば、「いろんなことに傷ついている人がいる。その傷を受けた場所に行き、包帯を巻く・・・。何になるかはわからないけれど、それでほっとする人が、一人でもいたら充分なんじゃないか」というコンセプトだ。
 
あまり現実を詳細に書き込まないで、このコンセプトに関係ある人たち、ほとんど同世代、の行動、やりとりで進んでいくから、なにかSFのスタイルに読めてしまうところもある。
途中でカズオ・イシグロの「私を離さないで」を思い浮かべた。
 
そして、このそんなに長くない、中篇とでもいっていい小説は、凝った構成をもっていて、まず、このクラブの前史として全国の方言をいろいろ取り入れて他の人たちには何を話しているのかわからないようになる「方言クラブ」がある。(何か最近のKYを予言したかのようだ)
 
そして、作者が(文章は主人公の第一人称だから彼女が)大人になってから、当時の様々な関係者がその後を背景に、この話が集まってくるブログかなにかに投稿してきたものが、随所に差し込まれている。
 
したがって、三つの時期の話になっているということで、このちょっと変った話に、読むものに安定感とまではいかないけれど多少の落ち着いたイメージを与えている。
 
ただ、後半はこういうプロットに関係するエピソード、会話がこれでもかこれでもかと出てくるだけで、理解は出来るが、読むほうとしては何も動かされるところがない。
おそらくコンセプトとプロットが出来てしまうと、それに合う細部の書き方で最後までいくだけだからだろう。
 
本当は作者が書いていくうちに、その細かい具体的な文章が動きを産み、作者も思いがけない展開が出てくるもので、それが読む方にも抵抗感を与え、面白いのだが。
「私を離さないで」にはそういうところがあった。

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