メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

エンジェル

2009-02-11 18:05:30 | 映画
「エンジェル」(Angel 、2007年、英・ベルギー・仏、119分)
監督・脚本:フランソワ・オゾン、原作:エリザベス・テイラー(有名女優とは別人)
ロモーラ・ガライ、マイケル・ファスベンダー、ルーシー・ラッセル、サム・ニール、シャーロット・ランブリング、ジェンマ・パウエル
 
才人オゾン初めての全編英語映画だそうである。
彼がなぜこの映画を作ったのか、わからない。
特に前半、よくある夢見る作家志望の女の子、下層階級の出身、小説で成功するが、それは読書による想像力の世界から出ることなく、わがままな性格もあって、どうなることか、破綻するだろうな、と予感させる。
 
一目ぼれした画家志望の男と一緒になるが、次第にうまくいかなくなり、二人とも変になっていく。後半少し過ぎてから、それでも普通よりはどこかしつこい作りになっていて、さてこれからオゾンはどうするのかなと、思うのだが、ちょっとした落ちがあるほかは、平凡な終わり方だった。
台詞にあるように、「夢見た人生と現実の人生」を描いてはいるのだが、見るものの感情移入は難しく、画面も、映画的かというと、中途半端で不満が残る。
 
主役エンジェルのロモーラ・ガライは、最初どうしてこの人が主役なのか、という感じなのだが、ストーリーをわかってみれば、似合っているのかもしれない。ただ華があるとはいえない。
 
少し前に見た「タロットカード殺人事件」(2006)でスカーレット・ヨハンソが居候する家の友達役だったが、それも名前を照らし合わせて気がついた。外見が地味である。
 
画家の姉でエンジェルのファン、身の回りの世話役になるルーシー・ラッセルはまずまずの演技。
 
フランソワ・オゾンはシャーロット・ランブリングの大ファンなのだろう。よく使われるが、今回は見るものが出てきたところで想像するとおりの役と展開で、彼女をまた見て楽しめたという程度だった。

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M:i:Ⅲ

2009-02-06 18:14:45 | 映画
「M:i:Ⅲ」 (Mission: Impossible Ⅲ、2006米、126分)
監督:J・J・エイブラムス、原作:ブルース・ゲラー、脚本:J・J・エイブラムス他
トム・クルーズ、フィリップ・シーモア・ホフマン、ヴィング・レイムス、マギー・Q、ジョナサン・リス=マイヤーズ、ミシェル・モナハン、ローレンス・フィッシュバーン、ビリー・クラダップ
 
ミッション・インポッシブル、つまりTVの「スパイ大作戦」映画版、この第1作は見たと思う(でも筋は覚えていない)が、Ⅱは多分見ていない。
トム・クルーズが製作をリードしたようで、彼を中心にした娯楽作品である。
 
最初に、今は結婚した主人公イーサン(トム・クルーズ)が捕らえられ、やはり捕らえられている妻を殺すとディヴィアン(フィリップ・シーモア・ホフマン)に脅されあるもののありかを強要される。そして話はその発端に戻って、再びその場面になるという構成をとっている。
 
見るものにそうなることがわかっていて話を進めるのは、結果としてあと30分のところで再びここになるのだが、よほど見せ場を作ってないとつまらないものになる。
そこはトムがTV界から引っ張ってきたJ・J・エイブラムスの腕なのだろうか、場面展開がスムーズで退屈させない。ひところのトニー・スコットをもっとさらっとさせた感じである。
 
一つ一つの場面の仕掛けは、半分おとぎ話と思っているから見ていられるということもあるが、電子、情報の技術でいずれは可能かもしれないと、瞬間に判断することは楽しいといえば楽しい。今回は特に、人体に埋め込まれるプロセッサーとグーグル・アース、そして人の特徴(形状、話し方など)を短時間に処理して模倣する技術、そういうものに焦点があてられている。
 
とはいえ、娯楽性はそこまでで、ドラマとしての面白さというところまではいってない。裏切りは当然あるものの、その意外性も、意外性の面白さだけにとどまっている。
  
フィリップ・シーモア・ホフマンを悪役の長に持ってきたのは、このあたりを考えてのアクセントだろう。ただこれは監督の編集のせいだろうか、そんなにあくは強くない。
他では、ローレンス・フィッシュバーンはこういう役が定番、妻のミシェル・モナハン、チーム同僚のマギー・Qなど女優の配役もいい。
 
お金を払って2時間楽しむのに、ほとんど文句はない。

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ブラームス第1(カラヤン、ロンドン・1988)

2009-02-03 12:42:03 | 音楽一般

シェーンベルク:浄夜 作品4 (1917年弦楽オーケストラ編曲、1943年改訂版)
ブラームス:交響曲第1番 ハ短調 作品68
カラヤン指揮ベルリンフィルハーモニー
1988年10月5日、ロンドン、ロイヤル・フェスティバル・ホール
BBC音源をもとにしたTESTAMENTのCD
 
第1番はブラームスの中でも、またドイツの交響曲の流れの中でも、大規模な迫力あるものの一つである。しかし、こんなにとてつもなくスケールが大きく、すさまじく激しいものとは思わなかった。

演奏は、なじんだ曲を計算し、見通しているというよりは、今回は進行そのままに、意識してここは抑えておくというところは見えず、おそれないで進んでいく。それに破綻せず応えられる、なんというベルリンフィルの能力、団員相互のそして指揮者への信頼!
 
実はこの曲、苦手であり、ブラームスでは、若いころに先ず第2が好きになり、第3はそれほどでもなく、第4は憂鬱になるばかり、第1は部分的にはいいけれど、くどく、しつこかった。カラヤンが万博(1970)で来日したときに聴いた第2は、他の日のドヴォルザーク第8とともに今でもよき思い出だ。

その後、マーラーを集中して聴き、ブルックナーは今でも苦手ではあるがこれも随分我慢して聴き、そうやっていると聴くほうも少しは変わってくるのか、ジュリーニが亡くなったとき(2005)、取り出して聴いた第4が素直に入ってきたのに驚き、それから第1も聴いてみると、ジュリーニ、そしてステレオ初期のカラヤン・ウイーンフィルで、なんとか味わえるようになった。
 
それでもこの演奏、全体がさらに一つ上のレベルで、細かいところでは第2楽章のオーボエ、第4楽章のフルートなど、誰だろうか。1960~1970年代には、オーボエはコッホ、フルートはそれこそニコレ、ゴールウェイ、ツェラー、ブラウなど綺羅星のようにいたけれど、それよりうまいのではないか。
 
カラヤン(1908-1989)最晩年、ロンドンでの最後のコンサートだそうである。パリでのコンサートの後、楽器の輸送がストライキで遅れ、コンサート開催すら危ぶまれ、リハーサルなしで1時間遅れて開始されたらしい。
 
だからどうだと断定は出来ないが、ブラームスはカラヤンもデビュー以来、終始レパートリーに入れており、ベルリンフィルとのコンビでも演奏回数がもっとも多い曲の一つ、やるべきことはわかっている。それでも、ホールも前日とは変わっていて、曲も同じだったかどうか。リハーサルなしというのは、注意力、特に互いに聴きあうことがより求められるだろう。
 
そういうときに集中できるのがオーケストラの能力の高さだし、そうやって自主的に動いたときに望んだ結果を引き出すのがカラヤンのカラヤンたる所以である。
 
またこのとき、オーケストラとの関係が最悪だった晩年の最後、それが解消していたという証言もあるようだが完全ではないだろうし、世間はまだそうは見ていない。むしろ、そうだからこそ、指揮者との人間関係で演奏がどうだこうだといわれることは、この際でもプライドが許さない。団員もそう思ったのではないか、これは想像だが。
 
シェーベルクの「浄夜」(個人的には1960年代に使われてた「清められた夜」という呼称の方が好きだ)も、ワーグナーの延長線上にある曲だとはいえ、これほど表現の振幅が大きいものは1970年代から演奏したことが多いカラヤンでも珍しいのではないだろうか。
下敷きになったデーメルの詩もよく思い浮かぶし、2番目のパートのむせ返るような香気、後半の寛容による安堵、繰り返し聴きたくなるものだ。
 
先の「英雄の生涯」(1985)と比べても、このCDの欠陥は音質で、強音とくにブラームスでひずみが目立つ。リハーサルなしとはいえ、BBCもこのコンビとホールは初めてではない。テープ保存に問題があったのではという評もある。
そうはいっても、知った曲、知った指揮者、オーケストラである。少しの想像力で補えば、聴き取る妨げにはならない。
 
ところで、これほどの演奏を、体に問題を抱えていたカラヤンが健康なときのように颯爽とした身振りで指揮したとは思えない。おそらく、そんなに大きく体を動かさなかったのではないだろうか。こんなすごい演奏であってみれば、ビデオが残っていれば見てみたいと思うのである。


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