先日見た夢が気になって仕方がありません。ひとりで夢の謎解きをしてみました。
夫が野球の選手でピッチャーを引退するという夢のことです。
私が「引退したら旅行ができるわね」
と言ったのは、今生が終わったから生まれ変わるのね?の問いかけではなかったのか?
彼は「家でぶらぶらしたい」と言ったのは、まだ生まれ変わらず、本当の故郷(あの世)でしばらくのんびりしたい…と言ったのではないか?
彼は自分のお葬式も見ていた。
私が築地本願寺にお墓まいりに行っているのもちゃんと見ている…と言いました。つまり姿は見えなくてもちゃんといるよ!と言うことではないか?
夢は、潜在意識の投影以外何もない、と思っていましたが、実は夢は何かのメッセージではないか…と強く思うようになりました。夢の不思議はまた後日。
コロナ禍でトラブル続出。
判断は誤ってはいないだろうか?と、自問自答しながら処理しています。身体は疲れませんが神経が疲れます。
疲れ過ぎると思考停止に陥ります。
あの夢は「キミが信じた道を進めばいい」と言う夫からのメッセージではなかったのかとも思っています。
大いなる宇宙の流れの中で、個性を持った魂は永遠に生き続ける…と私は信じています。
今生はその中のほんの一瞬。
自分で選んで生まれ、人生も選んでいる。
つまり、生まれる前に自分に自分が与えておいた問題集があり、それを解きながら成長するのが人生。死ぬ時期もちゃんと選んでいるように思えてなりません。
夫の母親は九州にひとりで住んでいました。夫は毎日、朝夕電話をしていました。
朝、元気に話をしていた母が夕方電話に出なかったのです。暑い夏の日でした。
夫は胸騒ぎを感じお向かいのお家に電話をして、鍵の置き場所を伝え、中に入ってもらいました。
亡くなっていました。
葬儀の時、近所の方から衝撃の発言を聞き、血が引きました。
亡くなったその日の午後、母はお散歩をしていたようです。ご近所さんにこう言ったそうです。
「今日も暑かねぇ…。明日私はここに来る…」と指さしたと。
指さした場所は祭儀場だったそうです。
「博ちゃん、私は今年の夏は越せないかもしれない…」と、盛んに話していた義母。
「夢でお父さんが正装をして現れた。迎えに来ているのではないか?」とも言っていました。
特に疾病があったわけではありません。
人は何となく死ぬ時期もわかるのではないでしょうか。
人は死を怖がり、その話を避けようとします。しかし、死を離れて生はない…。誰もが必ず人生の幕を閉じます。
その時にヘルマン・ホイヴェルスの詩にあるように、
「古びた心に、これで最後のみがきをかける。
まことのふるさとへ行くために」
と、心底思えるようになれば、少しはヨーガが身についた…と言うことでしょうか。