私たちが子どものころ、木造建築の家に父の弟が2人住んでいました。つまり、私の叔父です。父のすぐ下の弟は所帯を持っていました。その下の弟はひとりもの。
オマケに父の両親も住んでいましたから十人で暮らしていました。
母はよく我慢したと思います。
私だったら一日で逃げ出します。
人はコワイ人がいないとダメです。父にはコワイものがなかったのです。
どこでも威張っていました。
神父でさえ、父の横暴を抑えることはできませんでした。
それどころか、父の機嫌を取る。
その頃から私はカトリックがキライになりました。
信仰は神父とは関係ないということを理解したのはヨーガを学んでからです。
母が亡くなったとき、しみじみ母の人生は何だったのだろう…と思いました。
バブルの頃でもありましたが、かなり裕福でしたから、唯一それが母の拠り所だったのかもしれません。金庫番でしたが、従業員の給料支払分まで飲み代になり、女房にそんなに頭が上がらないのか!と言う叔父の言葉で父はさらにエキサイトし、遊興費に使う。母は従業員の給料のために質屋に行ったこともあります。主婦の傍ら、家業の経理のすべてを母が成し遂げていましたから。だから自由になるお金はありました。でもそんな幸せは儚いもの。
息を引き取った時、次の人生は幸せになってね…と冷静に祈ったくらいです。
人は選んで生まれてきたと言います。私は私の意志で両親を選んだのか?
それは何で?
何か私にミッションがあるのでしょう。
ところで、父の兄弟も酒癖が悪く、ほとんど毎日、酒盛りでした。挙句の果てにケンカになる。警察を呼んだこともありました。
いつごろからか、気がつけば私たち5人の家族になっていました。
祖父母は不仲でしたが、揃って郷里に移り住み、叔父たちはそれぞれ、独立しました。
のちのち、この叔父が我が家に大変な迷惑をかけてくれることになったのですが、父は早くに病に倒れましたから、私のすぐ下の弟が父の代わりに面倒を見たのです。
オマケに我が弟には生まれつき心臓の悪い子を授かり16歳で亡くなったのです。
天使のような男の子でした。
神さまは本当に時としてイジワルに思えます。
では、なぜこの父を私たちは許容したのか?それは父だったからです。
父は、素面の時は可愛かったのです。前の晩に暴言を吐いていた父も一夜明ければ、悪戯をした男の子のように、頭を掻いていました。昨日の暴君と別人のようになります。こんなことの繰り返しでした。
まぁ、疲れる人でした。
夫はヘッドハンティングで実家を離れ、私たちはやっと呪縛から逃れたと思いきや、父が脳梗塞で倒れました。緊急搬送されたのは三田の済生会。驚いたことに、ワガママな父は点滴をはずし、病院を抜け出し、タクシーで帰ってきてしまいました。
その後、さすがに身体の異変を感じたのでしょう。自ら病院に行く…と言い始めました。
長い療養生活でした。60代中頃から入退院を繰り返し、最後は透析になりました。
最後の自宅療養の時は私たち夫婦も実家に行っていました。父自身も、これが最後の自宅生活になる…と何となく察知していたようでした。
車椅子で病院に行く時、夫が父のところに駆け寄り、手を握り激励しました。父は彼の目をじっと見て、強く握り返したそうです。
あの時、夫は赦したに違いありません。父も彼の良さはよくわかっていたはず。少し感動的な場面ではありました。母はそれから急激に認知症が進みました。
母は誰よりも私を大好きでした。認知症が進んで一番早く忘れたのは父のことです。(笑)私たち夫婦のことは最後まで覚えていたようです。
こうして、人の一生を振り返ってみると、長い長い川の流れの中の一瞬に思えます。
もし、魔法使いが現れて何十年前にタイムスリップさせてあげるといわれたら私はキッパリ断ります。
退行催眠で、私が一番辛かったのはインナーチャイルドを呼び出すときでした。
私が小学校4年生のとき、下の弟が生まれました。忙しい母に代わって、オムツの交換、ミルクを飲ませる、お風呂に入れる、今のように紙オムツはありませんでしたから、オムツを洗って、物干し場で夜干している。干す先から寒さでコチコチに凍りつく。私は、もしかしたら拾われてきた子ではないか?と本気で思いました。
弟はまだ幼いのに保育園の送り迎え。
母は更年期に差しかかった時、心を病みました。母は自らを病気にし、病気に酔いしれたのです。
中学生の私は何度病院に連れて行ったでしょう。
ひきつけを起こし、町医者を夜中に叩き起こすことは日常茶飯事。
救急車はタクシー代わり。
そのうち、母には知恵がつきました。入院すれは何もかもから逃れられる…と。
父は相変わらず横暴でしたから。
あの頃はすぐに入院させてくれたのです。
病院は、母の駆け込み寺でした。
こんな子ども時代に誰が戻りたいでしょう。
長々と私のつまらない話に付き合ってくださりありがとうございました。
立教大学でアドラーを学んだとき、通信講座をご受講の方には繰り返しの話になりますが、アドラーは人の動機付けには劣等感と優越性の追求が必要だと学びました。これは、人を高める動機づけです。
劣等感は普通、人と自分を比べて生じるもの。しかし、ここでいう劣等感は理想の自分と現実の自分との比較なのです。
これは健全な劣等感です。
優越性の追求があるから人は成長します。
しかし、行きすぎると不健康な劣等感になり、それを劣等コンプレックスと呼び優越性の追求も過ぎると優越コンプレックスになります。
大韓航空のナッツ姫や姉妹、その母はどうやらこれにあたります。エゴの塊で注目を浴びたいから横暴になる。
親から甘やかされながら、すべてのものを与えられて育つと、他者から与えられることを当然だと思い、ムチャクチャなことを言う人。私は最近こう言う人に苦しめられました。
これは行き過ぎた優越性の追求であり、対になるのが劣等コンプレックスです。
劣等感を言い訳に使うのは劣等コンプレックス。
不幸自慢も病気自慢も劣等コンプレックスだったのです。病気によって人の注目を浴びたいと言う願望が無意識下にある。だから本当にひきつけを起こすのです。
母は積年の忍耐に耐えきれなくなり、心を病んでしまったことを亡くなって6年も経った今、分かりかけてきました。
夫は、両親から私をもぎ取られたと言う憎き存在だったのでしょう。
愛ってなんでしょうか?
愛は相手の幸せを考えること。
子は親の幸せを願う。
親は子の幸せを願う。
最近は恐ろしいです。中年の子どもが無職で寝たきりの父母にパラサイトする。つまり年金をアテにしているから管だらけになっても生かしてしまうのです。