思ったよりも延びた横瀬浦紀行も最後のアップになります。
本当は丁度お昼の時間になったこともあって、食事に立ち寄った「海の駅 船番所」なども紹介したかったですが、食事に夢中で撮影し忘れました。(外観など1枚もなし、横瀬浦に歴史散策に行く時は是非お薦めします。w)
表紙の写真にはなんだかモダンな建物が写っていますが、ちょい左端に注目して下さい。
史跡を示す石柱があります。
ここは「長崎甚左衛門居宅跡」です。
覚えておいででしょうか?長崎甚左衛門。
時津出身の私と少なからぬ縁のあるお人です。
2011年2月20日の記事に「長崎甚左衛門の墓」を掲載しています。
長崎の領主14代目です。
奥さんがキリシタン大名 大村氏18代当主 大村純忠の娘(三女)です。
大村純忠と共に横瀬浦で洗礼を受けたと考えられています。
秀吉によって長崎を追われ、筑後柳川の田中吉政に一時仕えて、その後横瀬浦に戻り、1621年に七十年余りの生涯を時津で閉じました。(横瀬浦→長崎→筑後→横瀬浦→時津?)
長崎港と横瀬浦港の両方の開港に関わったのが長崎甚左衛門です。
それで横瀬浦には長崎市と共通した地名が残っているのです。
本当は丁度お昼の時間になったこともあって、食事に立ち寄った「海の駅 船番所」なども紹介したかったですが、食事に夢中で撮影し忘れました。(外観など1枚もなし、横瀬浦に歴史散策に行く時は是非お薦めします。w)
表紙の写真にはなんだかモダンな建物が写っていますが、ちょい左端に注目して下さい。
史跡を示す石柱があります。
ここは「長崎甚左衛門居宅跡」です。
覚えておいででしょうか?長崎甚左衛門。
時津出身の私と少なからぬ縁のあるお人です。
2011年2月20日の記事に「長崎甚左衛門の墓」を掲載しています。
長崎の領主14代目です。
奥さんがキリシタン大名 大村氏18代当主 大村純忠の娘(三女)です。
大村純忠と共に横瀬浦で洗礼を受けたと考えられています。
秀吉によって長崎を追われ、筑後柳川の田中吉政に一時仕えて、その後横瀬浦に戻り、1621年に七十年余りの生涯を時津で閉じました。(横瀬浦→長崎→筑後→横瀬浦→時津?)
長崎港と横瀬浦港の両方の開港に関わったのが長崎甚左衛門です。
それで横瀬浦には長崎市と共通した地名が残っているのです。