まだ、諫早市内をウロついています。(笑)
と言っても「愛宕山の肥前鳥居」の撮影ミスに気付いて、2回目の訪問です。
市内をウロついていると、学校の前に銅像を見つけました。
「もしや」と思い近づいてみると、案の定「下村脩博士の像」でした。
2008年にノーベル化学賞を受賞された研究者です。
学校は下村博士の母校・諌早高等学校でした。
「ー生物発光研究の先駆者ー
下村博士は1928年に雲仙市出身の軍人であった父と諫早市出身の母の間に生まれる。少年期は父親の仕事の都合で転居を重ねるが、16歳のとき母の実家がある諫早市長野町に疎開のため移り住み、旧制諌早中学校(現在の諌早高校)に転入。1945年3月同校を卒業する。
その後、当時諌早にあった長崎医科大学附属薬学専門部(現在の長崎大学薬学部)に入学、青春期の最も多感で夢と希望に満ちた大切な時期を、自然豊かなここ諌早の地で学ぶ。
卒業後は長崎大学、名古屋大学を経て、さらなる研究のためアメリカへ渡り、発光生物のひとつオワンクラゲから緑色蛍光タンパク質(GFP)を発見し、現代医療などへの多大なる貢献により、ノーベル化学賞を受賞する。
博士の偉大な功績を称え、市民の誇りとして未来の子供たちに受け継がれていくよう、多くの方々の善意によって受賞記念の像を建立する。」2010年4月 下村脩博士銅像建立委員会
これだけの偉業を成し遂げないと人は銅像を作ってもらえないんですね。(私にゃ〜無理だなw)
と言っても「愛宕山の肥前鳥居」の撮影ミスに気付いて、2回目の訪問です。
市内をウロついていると、学校の前に銅像を見つけました。
「もしや」と思い近づいてみると、案の定「下村脩博士の像」でした。
2008年にノーベル化学賞を受賞された研究者です。
学校は下村博士の母校・諌早高等学校でした。
「ー生物発光研究の先駆者ー
下村博士は1928年に雲仙市出身の軍人であった父と諫早市出身の母の間に生まれる。少年期は父親の仕事の都合で転居を重ねるが、16歳のとき母の実家がある諫早市長野町に疎開のため移り住み、旧制諌早中学校(現在の諌早高校)に転入。1945年3月同校を卒業する。
その後、当時諌早にあった長崎医科大学附属薬学専門部(現在の長崎大学薬学部)に入学、青春期の最も多感で夢と希望に満ちた大切な時期を、自然豊かなここ諌早の地で学ぶ。
卒業後は長崎大学、名古屋大学を経て、さらなる研究のためアメリカへ渡り、発光生物のひとつオワンクラゲから緑色蛍光タンパク質(GFP)を発見し、現代医療などへの多大なる貢献により、ノーベル化学賞を受賞する。
博士の偉大な功績を称え、市民の誇りとして未来の子供たちに受け継がれていくよう、多くの方々の善意によって受賞記念の像を建立する。」2010年4月 下村脩博士銅像建立委員会
これだけの偉業を成し遂げないと人は銅像を作ってもらえないんですね。(私にゃ〜無理だなw)