島原半島博物日誌

島原にある某施設のスタッフが綴る非公認・非公式の個人ブログです。

神話の里-番外編②高千穂太郎の墓

2016-12-13 09:56:55 | 歴史・史跡
高千穂峡を探して彷徨い歩いています。w
イラストマップの罠にかかってしまったのは自覚していましたが、そもそも道は間違っていない筈なので、信じて突き進みます。
こういう場合は予期せぬ出会いもあるもので、古民家風の建物を見つけました。(表紙写真)
一般の民家ではないらしいのですが、入口にチェーンがしてあって近づけませんでした。
どうも公民館か集落の集会場みたいだったようです。
更に歩を進めて行くと、見た事のあるマークを見つけました。

「オルレのマークじゃん。」
オルレとは、「韓国済州島から始まったもので、もともとは済州島の方言で『通りから家に通じる狭い路地』という意味です。自然豊かな済州島で、トレッキングする人が徐々に増え、オルレはトレッキングコースの総称として呼ばれるようになり、今では韓国トレッキングの中心的なコースになっています。オルレの魅力は、海岸や山などの五感で感じ、自分のペースでゆっくりとコースを楽しむ所にあります。」(九州観光推進機構HPより)
島原半島にも南島原コースとして口之津に同じマークがあるので、すぐに分かりました。

いよいよ本題です。
今日のタイトルにもなっている「高千穂太郎の墓」(正確には〜の入口)です。
ここはイラストマップにも載っていなかったので、本当に予期せぬ出会いでした。
「高千穂郷は、古来神武天皇の兄三毛入野命(みけいりのみこと)の子孫と称する三田井氏が治めていましたが、天慶年間(938〜946年)に家系が絶え、豊後国大野郡領主大上大太惟基(おおがだいたこれもと)の長子太郎政次を養子に迎え、代々高千穂太郎を通称したと伝えられています。
 その後、高千穂氏は室町時代に三田井氏とも称し、肥後の阿蘇氏とともに九州中部に小さいながらも独立圏域の平和郷を構築していました。
 戦国時代末期、豊臣秀吉の九州平定後の国割りにより、高千穂郷は県(あがた・延岡)城主高橋九郎元種(もとたね)の支配地となりますが、三田井氏はこれを不服として元種に反抗します。天正十九年(1591年)元種は三田井家の家老大人(おひと)城主甲斐宗摂(かいそうせつ)を一計を弄して味方に率いれ、三田井家領主親武(ちかたけ)の本城「仲山城」を攻略し、文禄三年(1594年)三田井一族は滅亡します。
 高千穂太郎の墓は、初代政次の墓として毎年四月十五日を例祭日と定め里人により大切に祀られています。尚、墓石には「卍捐館松翁永仙大禅定門神儀(えんかんしょうおおえいぜんだいぜんじょうもんしんぎ)」と
刻してあり、周囲には「仲山城跡」をはじめ三田井氏の菩提寺の跡が残されています。」(昭和四十四年三月十九日町指定史跡 高千穂町教育委員会)
そんな人がいたのか〜。
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