自転車のペダルを漕いでいると気づくときがある。無念無想と雑念想念の渦が交差するのだ。乳酸をうまく逃がすコツを掴めば後は風になって流れに乗ることができる。こんな「ナチュラル・ハイ」がぼくを哲学者にしたり、詩人にしてもくれたりする。
最近、円通寺のことを思い出すことが多い。学生時代もっとも好きな場所だっだのに、この30年、一度も足を踏み入れていない。
比叡山は洛北に進むに連れてだんだん雄大さを見せる不思議な山だ。その比叡の山を間近に借景にする円通寺の庭園がぼくの最大のお気に入りだ。都合が許さない今でも…。深く考える自分に仕立ててくれる場所だった。
四季を問わずその折々の風情があり表情を変える。緻密さとか計算とかをまったく感じさせない、横石を主体とした石の多くをさり気に、雑然と置いてみました風の無作為感がたまらない。逆にぼくの想像力を刺激する。苔に雪が溜まる凍てつく冬、寒さにもへたれず凛と黙想に専念できる自分に驚いたものだ。
岩倉という土地は国際会議場ができ立ての当時でも寂れた所だった。竹やぶが多く、大きな池があり、田舎じみていた。それが時代ともに様変わりを始めた。京都の街とて無縁ではない。建物が高層化し、どう取り繕っても墓石としか見えないビルが無神経に建とうとしている。
叡山の手前に無粋なものがそびえていないよう願わずにいられない。再訪が怖く躊躇うのは、認めたくない気持ちが強いからだ。