最近音楽を聴くというのはどうゆうことなのか、少しよくわからなくなってきた。昔から言われてきたことなのだが、娯楽としての音楽はある。教養としての音楽もある。娯楽としての音楽も、最近では阿久悠の作詞の曲のように、時代背景まで含めてキチっと解説がある時代になった。そうすると曲の面白さも深まるし立派な教養になる。永六輔と中村八大になると歴史も付いてくる。
ただ歌謡曲ではなぜか歌詞とメロディに共感を持つ人が多いほどヒットする。感情移入しながら聴くのが大切なのだと思う。過去に好きだった曲を今聴くと、過去の様々なことまで思い出されて胸がキュンとするのは、そのせいだ。これが正しい音楽との向き合い方なのだと思う。あとはカラオケに行って自分の過去を汚すように歌ってしまっても、気がつかないものだ。
ただ音楽が好きになるとアレやコレやと聞いてしまうものだ。その中には肌に合わなかったりするものもある。それでも聞きすぎると、単に好き嫌いではなくどこが嫌いなのか考えるようになる。その上で大好きなものから大嫌いなものまでどこが好きで嫌いなのかのリストが頭の中に出来上がってゆく。そして自分の趣味と傾向を見定めながら慎重に選ぶようになってゆく。
まあそれでも好奇心に突き動かされて聞き続けると、マニアになる。微細な違いを追求する人たちだ。そこまでは至っていないのは、そこまで記憶力が良くないからだが、自分でもこの場合はいいことだと思っている。
自分の場合クラシックでも特に好きなのはフランス近現代と後期ロマン派の一部だけなので、マニアになりたくともディスクが少なかったりする。そもそも全部聞いたことがない人もいる。後期ロマン派はどうしようもなくディスクがあるが、なんとなく好みはわかっている。NHKFMのおかげだ。マニアになれないし、なりたくもない。ワーグナー全部なんて無理だ。
ただ変な聞き方をしている。一時期バッハにはまったことがあった。ポリフォニーを把握するのはとても難しい。どうするかで、通奏低音に注意して聞けば後の声部の動きがわかるようになると言う解説を読んでそのまま実践した。いや特訓した。6声まではなんとか追っかけられるようになった。それがあの曖昧なフランス近現代と後期ロマン派ではどうなるのかといえば、メロディーラインを追っかけずに音を丸ごと受け入れられるようになった。高音は放っておいても耳につく。だから低音に注目すると全体の構造が見えてくるのだ。この感覚はベースをやっていた人にも共通するもののようだ。
ところがこれは世間一般からするととてもおかしい聞き方らしい。なぜそういった分析するように聴くの?楽しむものじゃない?そう言われてもかなり困る。後期ロマン派は「音で泥酔」音楽だし、フランス近現代は「覚醒しながら酩酊する」厄介な音楽だし、もともとそんなに健康的な音楽ではない。歌謡曲のように聞かれて忘れられて思い出される曲の方が、健全な気がする。
違う音楽がある。楽しむための音楽だが、踊るための音楽がある。
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