2019.10.3(木)~4(金)
全日本ベテランテニスの試合に負け、博多→有田→伊万里→たびら平戸口と列車の旅、ローカル鉄道で海岸線を進み、久しぶりに車窓の景色を楽しむ。
平戸は、日本の最西端の穏やかな入り江で、遣隋使、遣唐使の頃から寄港地として使われ、空海や栄西が渡航で立ち寄る。異国文化や交易を日本に取り入れた歴史深い港街。
博多から有田経由、松浦鉄道で「伊万里」乗換え、日本の最西端の海岸線を走り「平戸口駅」に向かい平戸島に渡る。
列車待ちの時間に散策、「伊万里」のメインストーリー シャッターを閉ざした店が多い 伊万里川の辺にある「伊萬里神社」
松浦鉄道は、1車両のディーゼル車(有田駅) 乗客は数人 車窓から松浦付近 壱岐水道に面した入り組んだ入り江
◇平戸島・・◇
平戸の中心平戸港
平戸の街並み 吉田松陰や三浦按針(家康の顧問ウイリアム・アダムス)の宿が通りに面している。 木田弥治右衛門宅 「按針の館」イギリス国旗を掲げていた
平戸城(亀岡城)享保3年(1706)築城 3層5階建ての天守閣(改装中で見学できず)
平戸城から、田平港、平戸大橋
松浦史料博物館から、平戸桟橋、平戸城 1702年築橋のオランダ橋(幸橋)
◆松浦史料博物館・・◆
徳川家300年に比べ、800年間も続いた松浦家の旧居
茶室「閑雲亭」藩主鎮信(茶道系譜で利休に繋がる)が茶道を創始、作法は、器は回さず、呈茶(カスドール)は後から召しあがる。 茶室からの平戸城
天保11年(1840) 徳川斉昭が招き描かせた「三勇像」 右端「平戸藩主、松浦静山」・「下野黒羽藩主、大関増業」・「信州松代藩主、真田幸貫」
関船(松浦船) 大きな音を立てる(櫂かい) 火縄銃や弓矢の銃眼がある軍用船
「蒙古襲来絵詞」 9代藩主松浦静山が模写させた。文永の役(1274)で松浦党は数百人が討たれた。
松浦静山の収集品 1700年頃の世界地図 平戸、壱岐、五島、種子島、大阪、江戸など地名を記載、 日本語は長崎のオランダ通詞が追記
秀吉のキリスト教弾圧で、平戸の殉教者は400人を越える
◆平戸教会・・◆
平戸教会 日本で最初の教会(1551) 現教会は1931年建設 左に小さくザビエル像がある フランシスコ・ザビエル:1549年来日1550年平戸入り
◆オランダ商館・・◆
「オランダ商館」1609年設置 オランダの東インド会社 初代館長ジャック・スペックス キリスト教迫害で長崎に出島が出来るまで38年間使われる
オランダの「平戸図」(1621) 港町らしく多くの民家やオランダ商館、イギリス商館が描かれている。 亀岡城はまだ無かった
オランダ「日本誌」(1669) 平戸の様子が描かれている
徳川家康の朱印状(1609) 日本のどこの港に停泊してよいと記されている
1600年豊後臼杵に漂着したオランダ船「リーフデ号」 英国人ウイリアム・アダムス(三浦按針)が乗船
◆帰路の航空機・・◆
駿河湾 沼津付近 航空機(高度12000m)の室内内圧は729hPa(2080m)を示す。
オレンジ色に染まる東京港 17時頃の羽田付近 富士山、丹沢山塊
☆平戸は、松浦党(まつら)や異国情緒が漂う街程度の知識しか無かつたが、対外交易の発祥の地で、長崎に出島が出来るまではかなり栄えていた。
現在は、世界遺産に登録され観光を推し進めている。
☆平戸の市街地の一部だけ見て回った。市内周回のバスがあると自然景色など見られるのだが、車が無かったので限られた。
☆松浦党は、海の武士団として、白江村の戦いで渡海して大敗、壇之浦の戦、弘安の役、高句麗沿岸を侵す、秀吉の島津征討、秀吉の朝鮮の役(3000人派遣)、鳥羽伏見の戦、奥州戦争などに参戦している。
☆2013年NHKテレビドラマ「妻はくノ一」では松浦静山がシーボルトやカピタンと面会しドラマを支える藩主、平戸藩江戸上屋敷の蓬莱園は浅草橋に、下屋敷も本所にあり平戸藩には親近感が湧く。