女を捨てず・女に甘えず・らしさを活かす

女性スタッフがビジネス社会で実際に体験したことを中心に「見たこと」「聞いたこと」「感じたこと」をありのままお伝えします。

「わ・か・る」ということ

2010-11-29 | インポート

  「わ・か・るとはどういうことか?この週末考えた。

 『わかる』を状態で言うと、頭で考えていることと行動が一致している。かつ、その行動が周り(仕事であれば仕事の依頼者)の求めるものと一致している(=正しい!)ことを指す。

 よって、「わかっているかどうか」は、その人の行動を見れば確認できる(はず)。「考え」や「意識」は目で見えないが行動は目で確認できるから。

 「わ・か・る状態に至るまでには2つの関門がある。

一つ目の関門は「相手の求めていること・言っていることを頭で正しく理解する」こと

二つ目の関門は「頭で理解したことが必要な場面でタイミングよくできる」こと

一つ目の関門が突破できなければ当然第二の関門には到達できない。

同じことを何度も繰り返す。そのことを指摘された時は「あっ、そうか」と思ってしばらくはできるが、しばらくすると・・・(もとの状態に)。

 いずれもいわゆる「わかっていない状態

恥ずべきことではあるが私にも今だに「わかっていない状態」が露見することがある。そんな時、まず例外なく(ウチの)社長から、

「お前はわかってへんと言われる。

これを言わせてしまうのが一番辛く悔しい。情けなくもある・・・。で、その後考える。「本当にわかってへんのか?」「いやいや、コレコレこういうことやろ?わかってる、わかってる(はず)。確かにその通りやし・・・。でもまたなんでこんなことしてしまった(言ってしまった)んやろ・・・。」

       

 物事の本質や相手の言っていることの「真意」をわかることは簡単ではない。特にその内容が「概念的なもの」や、自分にない体験をベースにした「強い信念に基づくもの」である場合、その内容を表面的に理解はできても言葉に込められた真意=深(い)意(味)を汲み取ることは容易ではない。

 ではどうすれば?

「わからなければならない」と思ってわかるものではない。わからなければ・・・と思って無理やり理解しようとしたことは、消化不良のまま残る。消化不良なので自分のものにはなっていない。結局、その場は行動できても「深(い)意(味)が充分理解されていない」から応用がきかず、おんなじことを繰り返す

わからなあかんことはわかっていても、わからんもんはわからん!簡単にわかった気になったり、わかった振りをしても何の意味もない。

「わかろう」「わかりたい」という気持ちで(「~なければならない」ではなく自分の意志でそう思うこと)考え続ける。そうすれば、ある時、ふっといろんなことが一気につながって、自分の中におちる(=消化不良のまま自分の中に残っていたものが、一気に消化されて自分のものになる)。

自分のなかにおちる = シンプルな言葉で「あっ、そうか!こういうことだ!!」と意味づけができてスッキリする

教育という仕事は、自分の関わった人ができるだけ早く「わかった」状態に到達できるように導くのが仕事。今更ながら、自分のやるべきことが」 な週末だった。

 

 


小池栄子

2010-11-24 | インポート

  

  先日の山形出張の際のこと。

到着機遅れのため伊丹空港で予定より30分程度待合で時間を潰すことになり、雑誌でも買おうか!と思って売店に行った。

「さ~て、どの雑誌にしようかな・・・」

それまで「小池栄子」というタレントに対して特に「好き」という感情も「嫌い」という感情も持ち合わせていなかったが、表紙の写真がとしていて格好よかったのでAERAに決めた。

201011241002000

ページをめくると、「表紙の人」というコーナーで小池栄子のプロフィールとインタビュー記事が紹介されている。

その記事のキャッチコピーが

「逃げない30代でいたい。できるかどうかで、40代以降が決まると思う」

「そつなく」「器用」に仕事をこなしてきた彼女は、20代そのキャラクターが女性タレントとして重宝がられた。今年30歳になった彼女が、記事の中で「これからの目標は、自分はこうありたい、この役はどうしてもやりたい、と言えるようになること。他の人とぶつかってでも、自分で責任をとる覚悟で仕事をしたいですね」とコメントしている。その決意が上述の「逃げない30代・・・」の件(くだり)にあらわれている。

 素直に「格好いい」と思った。

 その覚悟が表紙の写真の凛とした雰囲気に表れていたのか。

 小池栄子という女性が好きになった。


すとろーくを求めて生きる

2010-11-22 | インポート

 心理学でストロークとは「相手の存在や価値を認めるような働きかけ」のこと。人間の持つ承認欲求(「認められたい」「かけがえのない存在として大切にされたい」という気持ち)」を満たすための働きかけ・・・「名前を呼ぶ」「笑顔で話しかける」「ほめる」「よしよしする」などがそれに値する。生命を維持するために水や食物などが必要なように、「」が健全に育つために必要なのがこのストローク。

 人はすとろーくを求めて生きる

巷ではやりのツイッター。ツイッターの原点は「今、何してる?」らしい)。家に帰ったら「帰宅なう」、薬を飲んだら「お薬いん」とつぶやく。私自身はツイッターをやっているわけではなく、たまたま知り合いの女性のツイート(つぶやき)をみるようになってその存在を身近に感じるようになったのだが・・・。

正直、「なんやねん、これ?」「何がおもしろいのん?」と思っていた。

しかぁ~し、この「つぶやき」を見ていて最近気づいたことがある。このつぶやきの中には、「辛い」「消えてしまいたい・・・」などのマイナス感情が多く出てくる。それに対して、

「なでなで」⇒多分気持ちの中でよしよしと頭をなでているのだと思われる

「ぎゅううううううううううっ」⇒多分気持ちの中で相手を思いっきりハグ(抱きしめ)しているのだと思われる

と「つぶやき返し」をしているフォローワーと言われるメンバーがいるのだ。

この「なでなで」や「ぎゅうううううううっ」こそまさしくストローク

生身の人間と対面してコミュニケーションをとることから逃げてる。とも言えるが、心を閉ざした若者たちが唯一自分の心の内を打ち明け、自分の存在価値を確認できる場がここ(ネット上のつぶやきの場)にあるのだろう。

とは言えやはりこのネット上のコミュニケーションには、今でも違和感を感じる。

家族や大切なの手の平の温かさや、温かい眼差しに直接触れ、『自分という存在』を感じるのが一番だと思うのだが、そんな考えは今時(いまどき)ではないのだろうか?


ことばの力

2010-11-18 | インポート

 「この一言に救われた~」ってことばありますか?

生きるか死ぬか?という切羽詰った場面ではなくて、出口の見つからない思考に陥ってどんどんマイナスの思考サイクルにはまってしまったり、イヤな自分との戦いにメゲそうになった時、誰かの一言で、フッとその状況が打破できた・・・。そんなことばのこと。

人からのことばで影響受けるなんて、お前は甘いんじゃ~ぁぁぁあああ

と言われそうだが、未熟もんの私にはそんな時もある。

ある時、ダメダメ状態に陥っていた私にメールが届いた。

  へこたれそうな時は、へこたれましょう!

と、そこにあった。

このことばで思考のぐるぐる状態から開放され「へこたれてる場合ちゃう!」という気持ちになった。

  


頑張れ留学生!

2010-11-16 | インポート

 TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)、FTA(自由貿易協定)、EPA(経済連携協定)など・・・最近やたら略語を目にする。

 11月10日の日本経済新聞の一面にもフィリピンのアキノ大統領が、「日本は少子高齢化問題を抱えており看護師や介護士の需要は高いため日本とのEPAによる受入れ拡大を要請した」という記事が掲載されていた。記事には「現在国家試験は日本語で実施され合格が困難なので言語の条件緩和を求める」とのコメントもあった。 

 普段ならなんとなくその記事を読み、「ふ~ん」で済ませていたであろうその記事。その日はちょっと違った。

その日私はある社会福祉法人を訪れ、待合でしばし打ち合わせすべき人を待っていた。部屋の外ではその法人が昨年の11月から介護スタッフとして受入れたフィリピンの女性が地元のボランティアの先生(元教師の女性)から日本語の個人レッスンを受けていた。

「あらっ、久しぶり

以前受入れ直後の彼女に会った時、にっこり笑った可愛らしい「笑顔とは裏腹に、手に持っていた日本語の資料にびっしりと自分で書き込みをし相手の言うことを一言たりとも聞き漏らすまいとする気迫を感じたことを思い出した。

打ちあわせの相手を待つ間、彼女と先生とのやりとりを眺めていた。

漢字の読み書き中心のレッスンであることがわかる。「ちょぞう」⇒「貯蔵」、「せいざ」⇒「正座」などなど。

「ちょぞう」なんて大学生でも書けないかも?正座に至っては生活習慣の違うフィリピン出身者には理解し難いだろうなぁ・・・。これらを先生は実演しながら熱心に教える。本人は熱心に質問しながら学ぼうとする・・・。まさに真剣な「学びの場」がそこにはあった。

 あとで聞いたところによると、彼女は2年後に控えた介護福祉士の資格取得に向けて猛特訓中とのこと。介護福祉士の資格取得には(専門の学校出身でない限り)3年以上の介護などの業務に従事しないと受験資格が得られない。(受験資格が得られても)試験は日本人と同じ日本語の問題(※ごく一部専門的な用語に関してはフリガナがつけられるようになったようだが・・・)に挑まないといけない。しかもチャンスは一度きり。ダメなら母国に帰るしかない。人生をかけて海を渡ってきている彼女が必死になるのは理解できる。朝読んだ日経新聞の記事が頭によみがえった。

優しい気持ちで親切に一生懸命に介護する彼女は利用者も人気があると聞いた。外国の人にケアしてもらうなんて日本の若者はどうなっとんじゃという議論もあろうかとは思うが、

なんとなく福祉の学校をでたから「福祉の仕事でも・・・」と就職し、「お年寄りのことが好きになれない」「優しい気持ちで接することができない」けど仕事と割り切ってケアする日本の若者とどちらがこの仕事に向いているのだろうか?

「自分」や「自分の仕事」の意義や存在価値を改めて再考させられる一件。