中村です。
いつの頃からか慢性の肩コリに悩まされている私。ここ最近は腰痛も加わり
週に一度のマッサージがかかせなくなっている。
「行きつけ」のエステサロンやおしゃれなレストランはないが
「行きつけ」のマッサージ屋さんはある
日本橋にあるその店のスタッフは全員女性。気さくで明るいおばさまばかり。
しかも、スタッフ同士仲が良く和気あいあいとしたアットホームな雰囲気
癒しを求めて行くわけではないが、気持ちまでほっこりするのが魅力。
もちろん施術もばっちり。
私を担当してくれるのは竹島さん。笑顔がとってもチャーミングで丁寧な施術
が魅力。私のことをよくわかってくれている(身体の状態や強さの好みなど)ので
かゆい所に手が届く施術はもちろんのこと、継続的に通うようになって気心がし
れても手を抜くことなく、いつも「私のコリをほぐす」ために、汗をかきかき一生
懸命やってくれるのがうれしくて、地下鉄を乗り継いで通っている。
先日の土曜日も、彼女に身体のコリをほぐしてもらうためにそのマッサージ屋
に行った。
仰向けの状態で足をほぐしてもらっている時、隣のベッドに常連らしき男性客が
入ってきた。
マッサージを受ける際、スタッフと会話「する派」と「しない派」に分かれる。私は
「しない派」状態や要望を伝えたら、質問があるか、「痛い」「気持ちいい」など
の感じ方を伝える以外はほとんどしゃべらない。と言うよりしゃべりたくない。
隣のお客さんは「する派」施術が始まると同時に気心の知れた女性スタッフと
会話を始めた。
「わし、今日から新歌舞伎座で始まった五木ひろしの公演行くねんで」
「へぇ~、ええやんか!」
コリや身体の状態のことではなく全くの雑談。どうやらこのお客さんはこの類の舞台
や公演を観るのが趣味らしい。この会話を皮切りに今まで観た様々な有名歌手の舞
台の批評が始まった。
「○○は歌はうまいけど演技が下手すぎる」
「○○の公演は歌ばっかりで全然おもんない」
「○○はしゃべりが下手すぎる。ほんまおもんないで」
話を聞いていた女性スタッフも負けてはいない。
「私この間○○(=鼻の穴が大きいと話題の有名演歌歌手)の舞台観たけどあの人
近くで観たらほんまに鼻の穴でかいで」
と応戦
これには思わず「放っといたれや!」と心の中で突っ込み
この後、2人の会話は、これらの公演を行う有名歌手の高齢化について話が及んだ。
「○○は声が全然出ぇへんようになった」
「○○は昔は聞きほれるような声やったけど、最近は聞いてられへん」
「○○は声が出ないから半分以上口パクや」
「○○の公演は楽しみにして行ったけどがっかりしたわ」
など出るわ出るわ・・・。ある歌手に至っては痛々しいとまで言われていた。
これを聞いてふっと頭に浮かんだのが。
引き際の美学
歌手として名が通れば、その姿を観るために客が集まる。内容よりもその名前で
客が集まる。逆に言えばその名前がなければ客が集まらない。当然興業主は、
客の集まらない(=儲からない)公演なんてやるはずはない。
また、「有名人の公演を観た」という事実である程度満足できる客もいる。
それが悪いとは思わない。お金を払うのは客。『何』に対してお金を払うかは人それぞ
れの基準でいい。
私が思うのは、演じる側の意識の問題
「興行主から依頼されたから」「客が求めるから」ではなく
『自分が』『プロとして』どうありたいか!
誤解がないように言っておくが、年齢を重ね、声の質は変われどもプロらしく観客を魅了
する歌手。また、できるだけそれをやり続けられるように日頃から鍛錬し続ける歌手も多
い。また、自分の姿を観るのを楽しみにしてくれているファンがいる以上、声が出なくても
舞台に立ち続けことが重要。という考え方もあるだろう。
家族や多くのスタッフを養うため、やめたくてもやめられない事情もあるだろう。
でも、私は思う
引き際の美学
プロとして。プロだからこそ、自分がその技で十分にお客様に満足させられない。
ということは誰よりも自分自身が一番よくわかる。
だとすれば、お客様から心配や同情される前にきっぱりと引くべきではないのか?
自分に置き換えてみる。
お客様から契約をもらって仕事をしている以上「頼んで良かった」と思われる
仕事をする。
引かない以上、これを追求していく。追求していきたいと思った一件だった。