女を捨てず・女に甘えず・らしさを活かす

女性スタッフがビジネス社会で実際に体験したことを中心に「見たこと」「聞いたこと」「感じたこと」をありのままお伝えします。

しおのせっこつ院

2021-03-16 | 日記

中村です。 

 

「股関節が痛い」「腰が痛いなどなど…。身体の
あちこちが痛んでメンテナンスが必要なやっかいなお年頃


で、


痛みが激しい時は毎日。
特に何もなくてもできれば週2~3回。少なくとも1回は
接骨院でメンテナンスしたいと思う今日この頃。


いきつけの接骨院はしおのせっこつ院
担当してくれるのは梅木先生(通称うめちゃん)


昨日


いつものようにうつ伏せで施術を受けていると、向かいで
施術している院長先生と女性の会話が聞こえてきた。


身体や日常生活の状況についての話をする女性に対して、


「そうかそうか、頑張ってるやん
「うんっそれでいい
「やればできる子やから
※ちなみに女性は子供ではなく、れっきとした成人女性です。


発言を一切否定することなく、受け止め、承認を与え続ける。
先生の承認を彼女がやんわり否定しても、「い~やっ、やれ
ばできる子やから」と承認して元に戻す。
※ちなみに院長先生、誰に対しても承認し続ける天使ではない
ことを
付け加えておきます。悪しからず!



それを聞きながら、梅ちゃん先生に



中村「『やればできる子』って。私も言われたい…」

と言ってみた。

梅ちゃん先生「・・・」※聞こえてないのではない。しっかり聞こえている。

中村の心の中の声「無視かい


しばらく施術が続く。


施術の最後はいつも股関節をぐぐっ~と開く。梅ちゃん先生
の容赦ない攻撃。これが利くぅ~


自分では到底無理な体勢まで「しっかり」「よ~く」開いた
(と自己評価)。思わず、


中村「おぉ~っやればできる子や」


に対して


梅ちゃん先生「やれることをやりましょ


やればできる子の押し売りを承認することな
くやんわり返す。「やれることを(全力で)やる」確かにそ
の通り。さっすが~梅ちゃん先生


改めて思う。


接骨院は体のゆがみや痛みをとるための場所。当然求められ
るのはそれらを解消する施術力。これがなければ話にならな
い。でも、問われるのは施術力だけではない。施術力は必要
条件ではあるが十分条件ではない。接骨院に通う人たちは、
施術を受けながらする先生との会話他を求めている。
もちろんの中身は人それぞれ違う。より詳しい専門的な
知識を知りたい人もいれば、他愛のない話をしたいだけの人
もいる。だから、その日のその人に応じた会話が求められる。
そうでないと「そんなこと聞きたいないねん」とか「今日は
そんな気分じゃないねん」と思われて足が遠のいてしまう。
いずれにしても、もくもくと施術してハイ終わりではない。
そうでなければ調子が悪い時しか通わない。



しおのせっこつ院に行くと施術中はほぼ喋っている。こちら
からしゃべりかけなくても、


梅ちゃん先生「最近どうっすか?」


「『どうっすか』ってか❓」…と思いながら、ゴルフや最近お
気に入りのパンの食べ方などたわいのない会話が始まる。



改めて思う。しおのせっこつ院は、



自分がここにいていいと思える場




だから、みんな通ってくる。痛みのある人もない人も。承認
されてもけなされても…。みんな笑顔で通ってくる。
個食。個住。お一人様などなど人との接点を持たずに生活する
ことができる世の中。コロナ禍でリモートワークが推奨され会
話をしながら外食する機会もなくなって否が応でも一人でいる
時間は増えた。先行き不透明な状況下で

自分がいていいと思える場所=居場所
 
があることがいかに安心感につながるか。その大切な役割を
せっこつ院が果たしている。


随分以前、接骨院の受付担当者(コンシェルジェ)対象のコ
ミュニケーション力向上プログラム作りに携わっている人に、
「せっこつ院は人間系の情報発信基地であり、地域住民のつ
ながりにおける最後の砦になる」と聞いたことを思い出した。


ここにいていい場所があれば一人暮らしのお年寄りも淋しく
ない。


そう思えるのは、院長先生や梅ちゃん先生の人間力によると
ころが大きい。個々の抱える課題解決を商売にしている以上、
課題解決に必要な技術力があるのは当たり前。でも技術力だ
けで通ってくる人は必要がなくなれば離れていく。
 
技術力+人間力


人間力があるから人が集まってくる。技術力が当たり前だと
すると、人間力でしか差がつかない。ネイルサロンも美容室
も歯科医院も接骨院も同じ。


ノーパンチを目指す

2021-03-12 | 日記

中村です。


出勤途中にあるお寺。
普段は裏ルートで出社するため、駅前で用事を済ませ
てから出社する際や、外出先から帰社する際にしか前
を通らない。

そのお寺の掲示板にいつも筆書きのメッセージが一枚。
いつ見ても、


そうそう」
「それそれ」
「な~るほど」



と思わされるものばかり。


特に、そのメッセージがその時自分が抱えている問題
や心の有り様に刺さるものだった場合、


(たまたま前を通ったけど)偶然でなくこのメッセージ
を見る必然性があったから…と妙に納得することもある。




現在のメッセージはこれ




誰誰のせいおかげに変えてみる



ふむふむ。確かに…。いつもながら深いメッセージ


でも、※以下私見ですが、



~のせい・・・自分以外の人や状況のせいだからどう
しようもない。根底で自分は悪くないと思っているか
ら解決に向けた行動はなし。しかも、自分は被害者
だから気分も悪い。ダブルパンチでダメージ大

一方、


~のおかげ・・・問題は解決しないが、少なくとも根底
に相手への感謝があるので気分は悪くない。シングル
パンチ
で済む。



確かに、プレイべートならここまででいいかも。でも、
ビジネスにおいては少々物足りない。


もう一歩進めて、ノーパンチの状態(=問題解決)に
もっていく必要がある。



担当しているある会社の内定者研修。今年はコロナ禍と
いう状況を鑑みてリモートで5回に分けて実施している。
研修を通じて学ぶテーマとして、


①「自分軸」から「周り(相手)軸」へ

②「他責」から「自責」へ


を掲げている。自分ではなく「相手」「上司」「お客様」
「会社」の立場で状況を見、人や状況のせいにして何もし
ないのではなく、自らの責任範囲と捉えて自分ができるこ
とを実践すること。言うのは簡単だけど、徹底するのは簡
単ではない。


でも、これを実践できる人が会社や社会から信頼され、仕
事の幅が広がる。

お寺のメッセージ+「自責」で問題解決に向けて一歩踏み
出す=ノーパンチの状態 を目指したいと考察した一件。

 


「で」じゃなく「が」

2021-03-05 | 日記

中村です。



昨日、ある会社のミーティングに参加した時のこと。

4月に入社する新入社員の育成計画を検討するミーテ
ィング。入社後の教育計画をどうするか?受け入れ側
の自分達はどのように関わればいいか?などなど検討
する項目は多い


途中、議論が行き詰まってしまった場面でこんなこと
があった。


メンバーの一人が


「それええんちゃいます?」


とある案を指さした



ちょっと待った~



『で』はあかん。『が』

たまらず、立ち上がってホワイトボードに「で」「が」
と書いてプチ説明。「~でいい」という選択は妥協の産
物。一方、「~がいい」という選択は納得の産物。結果
として選択したものが同じだったとしても、ベースにあ
るものが妥協と納得ではその後の心持は全く違う


大切な新入社員を育てる計画を「こんなもん」で
決めてええんか?

「こんなもんええんちゃう?」で決めた計画を
真剣に遂行できるか?


と問う。いずれもNO



どうせなら、とことん議論を尽くし

「これいい」と思える計画で受け入れよう
その後、議論は再開。想いのこもった計画ができた。



今日ある会社でリモートの内定者研修を行った際、
上記エピソードをこんな風に伝えた。


もう間もなく飛び込んでくるビジネス社会における選択
の場面で、


「~でいい」という選択は、妥協の産物。そこにこだわ
りはない。こだわりがないから、選択が正しくても大き
な喜びもない代わりに失敗だったとしても大きな怒りや
落胆はない。感情の揺れは小さい。

に比べて、

「~がいい」という選択のベースにはこだわりがある。
こだわって手に入れたものには愛着があるから基本大切
にする。選択が正しければ大きな喜びや満足感が得られ
る代わりに、失敗だった時の怒りや落胆も大きい。感情
の揺れが大きく疲れることもあるが、むっちゃ嬉しい、
むっちゃ腹が立つ、むっちゃがっかり…この深い感情が
次へのステップに向かう原動力となる。


間違いなく日常は豊かなものになる


仕事だけじゃなく、恋愛も、人間関係も同じ


「で」で妥協せず「が」でこだわって選択・決断するのは
時に面倒くさく、対峙が避けられない場面も多い



それでも


「が」にこだわり、
これいいと思うものを手に入れ、
この人いいと思う人と一緒に、
ここいいと思う場所にいることができる


そんな豊かな人生を送ってほしい