46. 考える技術・書く技術(板坂元著 昭和48年発行)
『 頭はいいとか悪いとか、ふだんよく使われる表現だが、もともとどういう意味があるのだろうか。われわれに腕力の差があるように、頭にも力の差がありそうだが、いろいろと本を調べてみても、その差―― つまり頭のよいわるい―― を測る基準というものは、学問上でも確立されていないようだ。
学校教育の十何年の間に、何千回となく試験があって、そのつど点数がでるけれども、あの数字はいい加減なもののように思われる。
わたくしも教師生活を二十年ちかくは経験しているけれども、95点の学生と83点の学生の間に、頭のよしあしの差があると思ったことは、いちどもない。
試験とはせいぜい、怠けているかどうかを知るのと、勉強をはげます程度にしか役立たないように思う。
ただ一つだけ言えることは、頭は筋肉のようなもので、使わなければ退化するものらしい。時実利彦のことばよると、「脳を使うとは、仕事をする、ものを考える、なにかを作るということ、そして、そのことに喜びを感じるということ、それが脳の寿命をのばす道でもあるわけです」。 』
『 日常生活の中で、簡単にできる頭のトレーニング方法をいくつか紹介しよう。
和田信賢アナウンサーは、実況放送におけるあの即時描写力を、どういうふうにして会得したらいいか、ずいぶん自分は考えた。
吊り革にぶら下がって、電車の窓から、店屋の看板を見ながら、あるいは店先の商品を見ながら、これは八百屋、これは足袋屋、これは米屋、という風に口に出して訓練をしたとあった。(瞬時判断力)
ベトナム和平が成立して、捕虜交換で帰ってきたアメリカ軍人の話によれば、収容所にいる間に無能化を防ぐために、いろいろな方法をとったという。
たとえば、皆で集ってバイブルの文句を思いだして、煙草の灰をとかして作ったインキとトイレットペーパーを使って私製バイブルを作ったり、語学の勉強のためにフランス語やスペイン語の辞典も編集したらしい。
わたくしも、中国で一年間ほど捕虜生活を経験したが、印刷されたものを全部とりあげられたので、しかたなしに芭蕉の七部集の連句を思い出すことをわたくしは毎日一人でやっていた。(記憶訓練)
旅行は、自分の体を動かし、かつ新しいものをたえず見物する点で、いちばん理想的なものかもしれない。芭蕉が東海道を何度も往復したものでなければ、俳諧はできないと言ったのは、元禄の昔のことだが、歩いて旅をする時代に東海道の長さだけでも刺激は十分だったろう。(旅行のすすめ)
わたくしは旅行をすると、その町その町でマーケットと骨董屋を見てあるくことにしている。その土地の人の味覚や臭覚の中で独特な生活を感じるには、マーケットを歩き回るに越したところはない。
できれば、マーケットの周辺にある居酒屋風の食いもの屋に入って、見たこともない食べものを試してみる。そういうところの人間は旅行者ずれしてないし、だいたいにおいてひじょうに親切なものだ。
マーケットのつぎには骨董屋。わたくしの行くのは骨董屋というよりも、道具屋といった方がよい。何に使ったのかわからないガラクタが雑然と積んであるような道具屋が、もっとも望ましい。
だいいちニセモノが少ない。ニセモノをつくっても採算の合わないような品物の中から面白いものを見つけるわけだ。本書の扉に使ったランプの類は、そういう歩き方をしているうちに集ったものだ。(骨董のたのしみ)
わたくしはマージャンを、もっともすぐれたゲームとして推賞している。日本で生まれた発想法として、学界でも実業界でも広く用いられている川喜田二郎のKJ法、あれをはじめて知ったとき、わたくしは「これはマージャンだ」と思った。
まず、雑然として集められた情報は、配牌に見立てられる。手に入った情報を、いくつかのグループに分けるところは、マージャンでも実行する。
そして、グループ相互の間の関連を考える過程は、マージャンの役づくり、そのあと、つぎつぎにツモってくるパイ(情報)によって、手もとの資料を組みかえることも、捨てられたパイからも情報をくみとって考えを組みたてることも、KJ法と似ている。
KJ法についての本にはマージャンのことは触れていないが、わたくしはKJ法を人に説明するときには、いつもマージャンを例に出すことにしている。それがいちばん簡単なKJ法の説明のしかただと思う。 』
『 楽器やタイプライターは、符号と道具を使って目と耳と指を同時に働かせる訓練をすれば、頭のはたらきのスピードは、ますます早くなる。
大人でも、楽器をあつかうことによって脳の老化は防げるようだ。六十の手習い、年よりの冷や水とはいうけれども、上手下手は別として、頭のトレーニングとしてならゴルフなどよりは、ずっと高等なものである。
頭のよしあしなどというものは、つねに変化するもので、自分の身辺にいくらでもトレーニングの手段は転がっている。よしあしは、その手段を見つけてをマメに実行するか老朽化にまかせるかによる。
試験の点数がアテにならないのと同様に、学校教育も信じられているほどには役にたつものでない。平凡な結論になるが、つまるところは、自主トレーニング次第ということになろうか。 』
『 頭のウォームアップができたら、つぎは材料あつめの段階になる。料理のコツというものは、けっきょくは、包丁さばきとか味つけではなく、よい材料を使うということにある。
おそらく、料理のよいあしの八十パーセントは材料によって決まる、といってさしつかえあるまい。ものを考えたり書いたりする頭の活動も、料理とおなじように、材料のよいあしが半分以上は決定的な力をもっている。
そのためには、先輩・古人によって集積された情報を、貪欲にとりそろえることが先ず第一の作業である。つまり、読書の技術を上手に身につけることが、何よりも大事な仕事になるわけである。
とくに、情報社会では読書のための便宜は、むかしよりもずっと向上した。こういう条件のなかで、どういうふうに本を読んだらよいものだろうか。 』
『 つぎに、さっと目を通して、ツマらないものはどしどし捨てて行く技術を身につけること。
将棋の木村元名人が、プロの将棋さしに必要な素質として、財布を外側からみて中にいくらあるか当てられるカンがなければならない、と言ったことがある。
それほどのカンでなくても、本や論文をサッとながめて、読む価値があるかどうか、どれくらいの程度のものかを判断する力は、練習によって伸ばすことができよう。
だいたい筆者には文の書き進め方に型があるもので、読み始めの数ページを気をつけて読めば、その型が見つかるものである。
大きく分けて、ピラミッド型と逆ピラミット型の二つの型がある。ピラミッド型は、あまり重要でないことがはじめの方に述べられ、文のおわりにもっとも重要な記述がなされる型である。
もう一つの逆ピラミット型は、文のはじめに重要な記述が出てきて、先に進むにしたがって重要度の少ないものが出てくる尻すぼみの型である。
この練習をしておいて、本なり雑誌なりを読めば、読むスピードが早くなるし、つまらないものは早いうちに捨ててしまうことができるようになる。
いってみれば、推理小説の種明かしをさきに読んでしまうような読み方だが、出版物の氾濫している今日、悪いものの早期発見法はわれわれの身につけておいてよいことだ。 』
『 「続・やわらかい頭」(森政弘・片山龍二著)の中で読書を精読・多読と後ろから読む方法と三つに分けて説明している。
第一の精読は、徹底的に、一字一句、コンマから句読点までみんな読む精読。理工学関係の本だと、むずかしい高等数学がでてくるから、それを全部一つ一つ検算をしてみて、誤植まで発見できるまで読む。
すべて書いてあることを理解し、知識を吸収する読み方。第二の多読とは、出てくる一つ一つの式などにとらわれないで、その式の裏にある自然の法則の意味(物理的意味)を読む方法。
式の間違いも、数学的な誘導から見つけるのではなく、物理的な意味からおして発見する。それから第三の後ろから読む方法、これは、第一ページから読むことをしないで、後ろの三分の一くらいのところをあけて読みはじめる方法である。
学術的な本は、いちばんいいところがたいてい後ろの三分の一ぐらいのところにあるから、そこから読みはじめる。そして、どこかでつっかかったら前にもどってそのつっかかりを除く、またつっかかりができれば前を参照する、というふうに読む方法である。
この著者は、読書の能力が上達するにしたがって第一・第三と読み方をかえて行く練習をすすめているが、これは、一冊の本の精読にも読み方の段階として応用できる。 』
『 読書やカード・システムで得られたものは、集積された情報で、いわば整備・補給の段階にすぎない。これをもとにしてわれわれは自分自身の考えを生み出さなければならない。
集積された情報をもとにして生み出すものは、まさに「つぎの一手」である。盤上の布石は、それまでに他人や自分によって積みかさねられた知識や考えについての情報であり、そこからもっとも効果的なつぎの手が生まれる。
しかも、そのさい、将棋や碁と同じく、たんに理づめだけでなく、カンという直感も大いに働かせる必要がある。
「つぎの一手」を見つけるためには、どうしたらよいか。わたくしは、すでに集積しているカードの補充と、そのカードからの離脱する二つの方向で仕事をすすめることにしている。
カードの補充は、カードの山を分類して、関連あるもののグループに分ける。この操作は、川喜田二郎のK・J法に大いに学んだ。このあとで、そのカードの一つの束を何度も引っくり返しながら、あるカードについて気のついたことを記入し、新たに思い浮んだことをカードにとる。
そして、この作業がある程度成熟したら、そのカードその他の資料を全部おしやって、「カード離れ」ということをする。うまく説明できないが、仕入れた材料が頭の中で醗酵する。 』
『 名著といわれる本には、読者の情動レベルをおさえる上でいろいろな技術が、実行されている。それは、第一が、読者を自分の味方に引きずり込む技術。
第二は、読者の信頼・尊敬をえる技術。第三は、読者を自分のリズムに乗せる技術。あまり上品な言い回しではないが、この三つを「だきこめ」「なめられるな」「のせろ」と若い人に解説することもある。
たとえば、面白くて読みやすい小説は、会話の部分と地の部分が上手に組み合わさせてあるもので、具象(会話)と抽象(地)の変化で、知らず知らずのうちに読者をそのリズムに引き込んでしまう。
その上、自然の美しい描写が加わって人事と自然の対象・調和が行われる。とくに自然描写は読者を緊張から解放させるためには、もっとも有効な方法だ。
源氏物語は、文法も言葉も現代人にとっては難しいが、もし仔細に読んでみれば、会話と地の文、人事と自然の組み合わせが、理想的といってよいほどに巧妙におこなわれていることがわかる。
あるいは芭蕉の「おくのほそ道」も、漢文調の文と和文調の文を章によって使い分け、さらに自然と人事を適度に変化させることによって作品全体のリズムがつくられている。
それぞれの段の長さが文庫版で1ページから2ページの間になっている点も読みやすさを大いに手伝っている。漢文や日本の古典からの引用も、多すぎない程度に出てきて、抽象度の変化をつける役を果たしている。
読者がいつの間にか読み進んで行くような魅力は、こういうリズムの中にもっとも多く含まれている。 』
本書の著者は、ハーバード大学で、江戸文学、日本語を教えていた。武蔵高校、ケンブリッジ大学にも、席を置いたこともあり、わたしたちが考える時に使う、日本語と日本文化について、客観的に捉えられていると思う。(第47回)