チェロ弾きの哲学ノート

徒然に日々想い浮かんだ断片を書きます。

ブックハンター「知的生活の方法」

2013-06-28 13:15:11 | 独学

47. 知的生活の方法 (渡辺昇一著 昭和51年4月発行)

 『 私は第一回目の授業から佐藤順太先生に魅了されてしまったのである。還暦を越えた老教師が初歩の英語の教科書を教えるのだから、別にドラマチィックなことは何もないはずなのである。

 しかし、私は何やら無意識にずっと求めてきた師にめぐり会ったという直感がした。その後、先生から二年半以上クラスで教えていただき、ご自宅にもお伺いするようになってから、私の直感は正しいことがわかったし、私が何を求めていたかも明らかになった。

 それはひとくちに言って、ほんとうに知的生活をしている人にめぐり会った、ということなのであった。先生の隠居所は広い建物ではなかったが、天井まで和漢洋の本が積んであった。

 英語の先生だから、英語の本があるのは当然である。漢文の古典と日本の古典は和本である。しかも積んであるだけでなく、先生はそれを読んでおられたのだ。そのような人がいることは、本で読んだことがあったが、実物を見たのは初めてであった。

 二、三の例をあげよう。雑談の折に「伊勢物語」に対する江戸時代の注釈で一番よいのは藤井高尚のものである、というような話しをなさって、和とじの実物を示されるのである。

 当時の私には、もちろん江戸時代の草書の本は読めない。漢文の話になると、「孟子」でも、道春点(林羅山=道春が漢文につけた訓点)と後藤点(後藤芝山がつけた訓点〉の違いを実物で示される。

 英語はすべてCOD(Concise Oxford Dictionary)である。文学談になればラフカデオ・ハーン(小泉八雲)の極美の全集を示され、「文学論には雲をつかむようなものが多いが、ハーンのいうことはよくわかるし、この程度のものはほかにあることを知らない」と言われる。

 近ごろは、ハーンの文学論は学者の間で非常に高く評価されるようになってきたが、三十年前、ハーンといえば「怪談」の著者ぐらいにしか思われなかったころの話である。

 それを東北の田舎に隠居していた老人が、あの戦時にもその文学論を精読して、三十年後の中央の学者が言うような結論に達しておられたことになる。それは先生が、よく読み、よく考えて実感として到達されたのである。

 学業不振の私生活は、佐藤先生にめぐり会ってから一変したのである。私が子供のときから漠然と求めていたような知的生活のありうることを、実際に知ったのである。(そのころは、知的生活ということばは知らなかったが)そして私は佐藤先生のように英文科に進むことに決めた。 』


 『 私は平泉渉参議院議員と、半年以上にわたって英語教育に関する論争をやってみて、いろいろな発見をしたのであるが、英語教育は結局、学校によい先生がいることが問題のアルファであり、オメガであることにいまさらながら気がついたのであった。

 学校で教える英語は実用のほかに知力開発という重大な使命を持っているのであるから、教養の要素がなければならない。ところが世の中に「教養の英語」などはありはしないだ。

 それは教養のある先生が教えれば教養の英語のなるだけの話である。では「教養のある英語の先生」とはどういう先生か、ということを具体的に言えば、それは自由時間に英語の原書を読み続けている先生であると言ってよいであろう。

 そういう先生が実に少ないのが問題なのだと、高校の責任者に聞いたことがある。どうしてこうなるのであろうか。その最大の原因と考えられるものを私の体験から述べてみよう。

 英文科の学生として私はクラスで最も成績がよかったものであるが、そのころ、なん人かの有志が集ってアメリカで最初のノーベル文学賞をもらったルイスの「メイン・ストリート」という作品(ペンギン版5百ページ以上)を読み始めたときのことである。

 各人一節ずつ読んで訳してゆくのだが、進み方はなんとも遅々たるものであって、いつになったら終わるかわからないことはだれにも感じられた。

 二回目ぐらいからは、だれも集らなくなって、この読書会はたちまち消滅したのであった。そのとき、小説をこんなふうに読むことがそもそもまちがっているのだ、と私は思った。

 「論語」とか「唐詩選」とか、チョーサーでもシェイクスピアでも、古典的なものなら一行ずつなめるようにていねいに読んでいってもよい。

 ところが小説はそうはいかない。たとえば吉川英治の「宮本武蔵」とか、山崎豊子の「華麗なる一族」などを、外国人が辞書を片手に、読書会で読むような、そんなテンポで現代小説を読んでも、おもしろくもなんともなかった。

 しかし、一生を外国語にかけた男として、そのような状態にはけっして満足したわけではなかった。

 二十代の中ごろに三年ばかり留学したときは、英語とドイツ語で学問をしたり発表をしたりできるようになって帰ってきたが、英語で現代小説を楽しめるようにはなれなかった。

 幸いに三十代にアメリカの大学で講義するという機会を与えられた。計画によれば、どこの大学でも週二度ぐらい講義すればよいことになっていた。向こうに行ってからは、とにかく面白くなるまで現代通俗小説を読み漁ろうと思ったのである。

 探偵小説、ベスト・セラーと言われるものを読み漁った。しかし、少年時代の「三国志」や漱石みたいなものにめぐり会わなかった。ある日、古本屋に行ったら、表紙に五百万部突破と刷ってある小説が目についた。

 著者はハーマン・ウォークで、書名は「マジョリー・モーニングスター」である。五百万部も売れたものならひとつ読んでやろうと思って読み始めたところが、引き込まれるように面白い。

 そして終わりに近づいてくたら、ウォルター・ロンケンという登場人物に、いつのまにすっかり感情移入していたのであった。これは私にとってまさに記念すべき夜であった。

 氷が割れたというべきか、これから続々とおもしろい小説にめぐり合いはじめたのである。おもしろいと感ずる鋭さも、いつの間にか身につけた読むスピードも、それまでの私にないことだった。 』


 『 捕物帳とあらば、なんでも読んだ。しかも少年時代以来、筋がわかっていても読み返すことはいっこう苦にならない。昭和二十五年以前に出ている捕物帳なら、読んでないものはないと言ってもよいと思う。

 そのうちどういうことが起こったであろうか。大学の進学し、むずかしい本も読むようになったせいか、あんまり幼稚っぽい捕物帳は繰りかえして読むに耐えなくなったのである。

 最後まで残ったのは「銭形平次」と「半七捕物帳」である。そして大学院に進むようになると銭形平次が脱落し、最後に残ったのは「半七捕物帳」である。

 そしてふと気づいてみると、それは私だけの判断でなく、読書人一般の判断だあるらしく、岡本綺堂の「半七捕物帳」だけは、数ある捕物帳の中でまったく別格になっているらしいのである。

 私は、最初のうちはすべての捕物帳をみんなおもしろいと思ったのである。それが何回となく繰りかえして十数年たったら半七だけが残っていたので、これはもう私にとっては絶対と言ってもよい読書体験であった。

 結果的には、世の中の判断に合致しただけの話なのであるが、私の内面的な進歩の証拠みたいな気がして嬉しくて仕方がないのである。 』

 
 『 「刀の目利きになるいちばん確実な方法は、自分の所有物として持ってみることでしょうな」と私の恩師である故佐藤順太先生は言われた。

 先生は前に紹介したように、私にとっては英語の先生であったが刀剣のことについてもご自宅にお伺いした折などに話してくださることがあった。

 先生は武家のご出身で刀をだいぶ持っておられたようであるが、鑑定の方でも相当の目利きとのことであった。私がたまたまおじゃましていた折も、数本の刀を持った人が鑑定の依頼に見えたことがあった。

 「素人はよく偽物をつかまされる。しかし大金を払った側では、何しろ手許において、時々見ているものだから、そのうち偽物だとわかってくるものだ。

 すると偽物をつかませた骨董屋を恨む。ところが骨董屋の方も、偽物はいずれバレることを知っているものだから、そのお客のことを、なんだかんだと悪口を言うものだ」と。

 骨董屋が実際そうであるかどうかは知らないが、おもしろいと思ったのは、素人でも自分で身銭を切って刀を買って手元に置くと、だんだん価値がわかってくる、という話しである。これはまさに本でも当てはまる話ではないだろうか。

 身銭を切って買った本でなければ身につかない、などと言おうとも思わない。食事でもほんとうに味覚を楽しもうと思ったら、身銭を切った店での食事がよいのではないか。

 身銭を切っておれば、まずいかうまいかについての判断もきびしくなろう。凡人の場合、身銭を切るということが、判断力を確実に向上させるよい方法になる。

 若いうちは金がないから、図書館を上手に使うことは重要な技術である。しかし収入が少ないなら少ないなりに、自分の周囲を、身銭を切った本で徐々に取り囲むように心がけてゆくことは、知的生活の第一歩である。

 西洋のことわざに、「あなたの友人を示せ、そうすればあなたの人物を当ててみせよう」というのがあるが、私はこう言いたい、「あなたの蔵書を示せ、そうすればあなたの人物を当てて見せよう」と。 』


 『 若手の評論家・学者で、私の尊敬している人がいる。その人の名前をあげればだれでも知っているが、T氏としておく。

 もう一人これも私の尊敬する若手の学者で物書きのH氏と三人で、コーヒーかなにか飲んだとき、本の置き場が話題になった。

 H氏は2代続きの学者であり、しかも二,三年前、徹底的に書庫・書斎の改築をして相当広くしたということだった。

 謙虚なH氏が「相当広い」という以上、非常に広い書庫・書斎であると考えてよい。そのとき、H氏がT氏に尋ねたのである。「君はマンション住いだが、本はどうしているんだい」と。

 T氏が学者として、また評論家として、絶えず立派な業績を上げているのに、本のための空間に対する特別の配慮がないわけはない、という前提の質問であることがまず私の興味をひいた。

 T氏は毎月のように「文芸春秋」とか「中央公論」とか、締切のある刊行物に書いているほか、学術的な本も多く出している人だ。

 ものを書く経験を持った人ならば、それがマンション住いでできるわけがないと思うから、H氏はそれについてきいたのである。

 するとT氏はちょっとためらうように次のように答えた。「実はあのマンションの二階に家族と住んでいるんだが、五階にもう一家族分の部屋を借りて、そこを仕事場にしている」と。

 これでH氏も「わかった」という顔をし、そばで聞いていた私も、大いにわかったような気がしたのである。

 T氏のつきることのない著作活動の源は、もちろん氏の頭脳であるにはちがいないのだが、それを助けるものとして、一家族の住める分のマンションの空間を、まるまる本を住まわせるために使っているということがわかったのである。

 住宅費は二倍になるわけだが、能動的知的生活者にとって、それはどうしても逃げるわけにはゆかない経費なのである。

 現代の知的生活には空間との闘争があると言ったが、それが特に日本の、しかも大都市では、壮絶なものとなる。 』


 『 イギリスの文献学者であったケンブリッジ大学のW・W・スキートが、独力でイギリス最初の、しかも今もって最大の語源辞典を作ったときの方法は、彼の時間に対するセンスを示している。

 彼はどんなむずかしい語源の単語にも、三時間以上の調査をすることはしなかった。一つの単語を一生懸命、三時間までは調べ、それで不詳のものは「不詳」として先に進んだのである。

 スキートが三時間かかって調べのつかない単語は、どうせだれがやっても、ちょっとやそっとで説明がつくわけのものでないから、とにかく辞書を完成した方が学問に寄与するところが大きいと割り切ったのだった。

 これは言うは易く行うは難いことである。しかし、この賢明さによって、彼はその辞典を完成させたのである。しかもいまなお版を重ねているのであって、初版後、ところどころ手をいれるだけで今日まで生命を保っている。

 雄大な計画の仕事が、スキートのような「見切り」による制限がなかったために、中途半端のまま終わって、無用の努力になってしまった例がどのくらいあるかわからない。 』


 『 知的生活を志すような人は、はじめから時間を無駄にすることに無頓着ではない。だから友達と一晩飲んだとか、ヘボ将棋をしたとかいうのは、気分転換にもなっているので、大したことではない。

 危険なのはまさに勉強なのだ。たとえば、ギリシャ語かラテン語の勉強をしたとする。そこで読むのは、いずれも立派な古典であり、その勉強の価値の高さについての疑問の余地はない。

 しかし、ギリシャ語やラテン語をマスターするにはほとんど半生を要するし、またそれを忘れないようにしておくためにも、残りの半生を要すると言ってよいのである。

 そこでハマトンは、古典を読むときは、英語対照のなっているもので満足しろ、とすすめている。原点を注と辞書で読もうとするな、という忠告である。

 もちろん学生時代に文法の基礎を覚え、辞書と注を頼りに読む訓練をするのはよい。しかし、大人になっても学校と同じやり方でやるのは、人生の限られた時間があまりにももったいないというわけである。

 日本の場合、学生が英語でトインビーのエッセイを読むために、文法をこねまわし、辞書を引き、何時間もかけて予習しても、それは無駄ではない。

 しかしそれは、学校を出ても、そんなことをしていたり、もう一つ新しい外国語を同じ調子でやり始めるのは、特殊な事情でもない限り、時間の空費である。

 逆に言えば、学生時代に一ヵ国語でも外国語をマスターした人は、例外的な知的生活の幸福を享受することになる。

 あまり辞書も引かず、外国の本を読めるところまで卒業時に達している学生が、毎年七十万人も卒業する大学生のうち、どのくらいいるであろうか。こんな状況だから、英語教育無用論がでてくるのだ。 』 (第48回)