チェロ弾きの哲学ノート

徒然に日々想い浮かんだ断片を書きます。

ブックハンター「ヨシダソース創業者ビジネス7つの法則」

2016-12-16 09:34:00 | 独学

 119. ヨシダソース創業者ビジネス7つの法則  (吉田潤喜著 2011年11月)

 『 「 I  love  myself 」 こんなことを言ったら、日本では気が狂ったと思われるだろうか。 「自分のことを愛している、大好きだ!」 上等やないか。僕は自分自身を、自分自身の生き方をとても愛している。

 子どものときは、片目だのチョーセンジンだのと言われいじけてばかりで、こんなことは思いもしなかったが、アメリカに来て、空手を人に教えるようになり、さらにはビジネスをはじめるようになって確信した。

 自分を愛してない人間が、どうしてエネルギーを持てるだろうか。はっきり言ってしまえば、これは言ったもの勝ちだ。思えないから言えないのではなく、言ったら思えるようになる。

 試しに鏡の前に立って「自分の生き方が本当に好きだ」と毎日100回言い聞かせてみるといい。だんだん顔つきが変わり、性格も変わって、人生がいい方向に進んでいくのがわかるだろう。

  心の中でむにゃむにゃと寝言のように不平ばかり言っていると、生き方そのものもはっきりしないものになってしまう。僕が 「 I  love  myself 」 と言えるようになって、大きく変わったことがある。自分のペースに周りの人を巻きこめるようになったことだ。 』

 

 『 日本にいる頃はケンカに明け暮れて、恋愛なんて見向きもしなかった。なんて言うとかっこいいけど、真相は、恋愛に対して奥手だっただけ。「ワシみたいなやつがモテるはずがない」と思い込んでいた。

 そんな僕がアメリカに来て、突然女にモテはじめた。なぜか? 空手がブームになっていたことだけが理由ではない。こちらの気持ちを伝えれば、相手は受け入れてくれることに気がついたからだ。

 それからというもの、気になる女の子を見つけたら「好きや! 結婚してくれ!」と手当たり次第に猛烈アタック。その中で出会ったのが、リンダ(妻)だった。

 恋愛だけでなくビジネスでも、好きな気持ちや感動を伝えることを疎かにしてはいけない。口に出さなくても伝わるだろうなんて言う考え方は傲慢だ。僕は部下を褒めるときは、徹底して褒める。それこそ、キスするのかっちゅうくらいの勢いで褒める。

 面白いアイデアを前にしたときは素直に興奮し、プロジェクトがうまくいったときは素直に喜ぶ。ごく当たり前の感情表現ではあるけれど、その素直さをビジネスの現場ではなぜか抑えてしまう人が多い。

 ビジネスをはじめて以来、「社長」と呼ばれる人に大勢会ってきたが、サラリーマン社長とオーナー社長では、感情表現のしかたが違うように思う。

 自ら会社を立ち上げたオーナー社長は、ある意味子どもぽい部分もあるし、出る杭そのものだし、感情というエネルギーを素直に表現する人が圧倒的に多い気がする。

 そういう人は意外と、学校では手のつけられない問題児だったりするのだが。少なくとも、僕はそうだった。いくつになっても物事に感動でき、それを素直に表現できる大人でいたい。そういう大人こそ、魅力という大きなエネルギーがあるからだ。 』


 『 僕はソースのビジネス以外にも、事業の多角化を積極的に行ってきたが、初期に手がけたビジネスのひとつに、「オレゴン航空貨物」(OIA)がある。OIAの社長には、僕の空手道場の生徒でもあるスティーブ・エーカリーを選んだ。

 彼はもともと地元の空港貨物会社に勤務していて、僕が日本へミル貝を輸出するとき、仕事を頼んだ仲間だった。そこで「独立してOIAの社長をやってみないか?」と、誘ったのだ。

 この会社がのちに、NIKEとの契約を巡って、大成長を遂げることになる。NIKEの本社は、僕が最初に空手道場を構えたオレゴン州のビーバートンという街にある。

 世界のNIKEも80年代はまだ小さい会社にすぎず、現在は大幹部になっている面々が空手を習いに僕の道場に通っていた。その中のひとりが、ある日、困り果てて僕のところへやってきた。

 「先生、ある荷物を3箱ほど韓国の釜山に送らなければいけないんだけど、日系の輸送会社に依頼したらことごとく断られちゃったんですよ」それは1箱10キロほどの、何の変哲もない荷物だった。

 「なんで断られたんや?」 「3日以内に届けることをギャランティ(保証)してほしいと言ったら、1週間や10日ならできるけど、3日以内なんて責任もてませんって……」

 今から20数年前の話だ。ビーバートンから釜山まで荷物を運ぶには、まずロサンゼルスまでトラックで運び、そこからソウル行の飛行機に載せ、ソウルに着いたら、再びトラックで釜山へ運ぶのが最短ルート。たしかに3日はかなり短い。

 しかもこの間に、荷物が紛失してしまうなんてことも、当時は珍しくなかった。日系の輸送会社の駐在員たちは、自らの首を危うくしかねないこんなリスキーな仕事には、関わらないほうが得策だと判断したようだった。

 ちなみに箱の中身は、ただの風船みたいな空気のクッションなので、危険性はないとのこと、それ以上の情報はもらえなかった。なんてことはない。今まで扱ってきた生鮮食品と同じに考えればいいのだ。

 早速、スティーブに話を持っていくと、これがもう大反対。できない理由を延々と並べまくり、勢いづいて空手の師匠(僕)に向かって、「こんな仕事を請け負うなんて無責任だ」とまで言い放つ始末。

 「あのなあ、ワシが聞きたいのはひとつだけや。箱を送れる方法を一つでいいから教えてくれ」 「不可能です。そんな方法ありません」 予想通りの反応。こちらの答えはもう出ていた。

 「ほなおまえ、今からコリアン航空のチケットを買うてこいや」 スティーブは、きょとんとした顔をしている。「箱3つ、お前が釜山まで持って行くんや!」 「そんなやり方プロじゃない!」

 「アホか、プロかアマかなんて関係あらへん。3日以内に箱を持って行くことがすべてなんや! そのかわり、釜山のNIKEの事務所に着いたらな、お前が手持ちで持ってきたことがばれないように、3つ箱を置いたらすぐに逃げてこい。誰にも見つかったらあかんで」

 時間はすでに限られている。チケットを買うとスティーブは翌日、ブツブツ言いながら3つの箱とともに旅立った。さらにその翌日、NIKEの本社から連絡が入った。「先生、箱が無事に届いたようです! だけど一体、どうやって送ったんですか?」

 まさかOIAの社長が、直々持って行ったなんて言えるわけがない。 「企業秘密や。そんなん教えてしもたら、大変やがな!」 実を言うと、この荷物がNIKE大躍進のきっかけとなったシューズのクッション、「エアソール」だった。

 NIKEのシューズは秘密兵器であったエアソールのみビーバートンの工場で製造して、それ以外の部分は韓国で製造していたのだ。この一件を機に、OIAはNIKEのエアーソル輸送を独占することになった。 』


 『 チャンスを逃す人というのは、言い換えればチャンスをチャンスと気づけない人である。宝石の原石をただの石ころと思って捨ててしまうか、磨けば光る石だと気づけるか。分かれ道はそこにある。

 ソースのビジネスも、偶然が偶然を呼んで巡ってきたチャンスだった。遅ればせながらではあるが、僕がソース会社を興した経緯をお話ししよう。

 ある日オレゴン州のビーバートンで空手道場を開いていた仲間が急死して、弟子たちに請われる形で僕はシアトルからビーバートンに移り、その道場を引き継ぐことになった。

 ビーバートンではやがて大学や警察学校でも指導するようになり、弟子たちが手取り足取り動いてくれたおかげで、元市庁舎という好物件を買って、新しい道場を持つことができた。道場経営はかなり順調だった。

 しかし3人目の子どもが生れようとしていた矢先に不況が起こり、道場の生徒数はみるみる減少、ピーク時の3分の1になってしまった。そんな不況の最中、忘れもしない1981年のクリスマスのこと。

 例年のように、生徒たちからたくさんのクリスマスプレゼントをもらった僕は、恥ずかしいことにお返しをする余裕さえなかった。困り果てて頭を抱えていたときに、ふと思いついたのが、母の作るバーベキューソースだった。

 日本を離れる前、母は焼肉屋をやっていた。そこで手作りしていたソース、つまりは焼肉のタレの味を懐かしさとともに思い出したのだ。

 バーベキューソースは多々あれど、醤油ベースはアメリカでは珍しかった。しかもあの甘辛い味つけは、アメリカ人にもきっとウケるにちがいない! 早速、母に電話をしてレシピを聞き出し、準備に取りかかった。

 8時間じっくり煮込んだソースを牛乳ビンくらいの小ビンに詰め、リンダがリボンをつけてくれた。生徒たちに配ったところ、これがなんと大好評。「先生、この前のソース、また作ってくれませんか?」

 「アホか! クリスマスのプレゼントなんやから来年まで待てい!」 「じゃあ、お金を払うからまた作ってくれませんか?」 ——冗談かと思ったが、生徒はどうやら本気のようだ。乗せられるままに何度か作ると、さらにリピートする生徒まで出てきた。

 これは、商売になるんとちゃうか⁈ 道場の下の階に樽を置き、本格的にソース作りをはじめることになった。あのとき生徒の他愛ない申し出を聞き流していたら、「ヨシダソース」はクリスマスプレゼントに恒例のソースにとどまっていただろう。

 クリスマスの手作りソースという原石は、磨いてみたらとんでもない輝きを放つ宝石に変身したのだから。 』


 『 チャンスをつかむために本当に必要なのは、トークのうまさでも、見てくれのよさでもトリックでもない。自分をいかにして相手に売り込むかである。

 僕は自分を売ることでソースを売り、チャンスをつかんできたという事実に、あるときふと気がついた。ソースで商売をすると決めてすぐ、販売場所の確保という問題が立ちはだかった。

 せっかく作っても、店頭に置いてもらえなければ意味がない。そこで地元のグローサリー(食料雑貨店)を片っ端から回って、デモ(実演販売)をやらせてもらえないかと交渉をはじめた。

 アメリカではデモなんてまず見かけなかったが、子どものときに地元、京都の商店街で総菜の実演販売をよく見ていた僕は、あれなら自分にもできると真っ先に思いついたのだ。

 デモはとにかく目立ってなんぼ。そう思った僕は、テンガロンハットに着物、下駄という、けったいな戦闘服で出陣した。 「さあ、寄ってらしゃい、みてらっしゃい!」 グローサリーの一角で、料理をしながら大声を張り上げる。

 買い物客が何事かとこちらを見た。バーベキュープレートの上では、ソースに絡んだチキンが香ばしいにおいを立てている。

 「なんで僕がこんなアホな格好でソースを売っているかちゅうと、実は子供たちが腹を空かしてお父ちゃんの帰りを待っておりまして……。子どもの数は、驚いたらあきませんで。なんと12人!」

 口から出まかせだったが、主婦の間からクスクスと笑い声が漏れた。そしたらもう、こっちのもんや! 試食してくれたお客さんは、7割方買ってくれた。

 おかげでソースは飛ぶように売れ、最初はデモをすることも渋っていたグローサリーから逆に頼まれるようになり、自分で持ち込んでいたチキンも肉屋から提供してもらえることになった。

 あのとき僕は、買い物にきていた主婦の人たちに信頼してもらいたい一心だった。最初はみんな警戒して、遠巻きに眺めている。もちろんサンプルを味見する人なんか誰もいない。

 だけど必死な姿を見せて、こちらから心を開いてみたら、彼女たちのガードがふと緩んだ。その変化を目の当たりにして、「これや!」と思った。 自分をオープンにして、「あ、この人、面白いな」と思ってもらえたときに、初めて相手はチャンスをくれる。 』


 『 ヨシダソースの社屋は、ポートランド国際空港にほど近い場所にある。もともとこの辺りの土地はエアポートの所有物だったのだが、土地をリースしていたとある企業がその権利を手放すことになった。

 それを知った僕は、その土地を手に入れてクラスAオフィスを建設しようと目論んだ。アメリカのオフィス物件はクラス分けされていて、クラスAは最も基準の高い物件になる。

 それを貸しオフィスにしようと思ったのだ。僕の計画に、銀行や周りのスタッフは大反対した。クラスAオフィスを使うのは、資金の潤沢な大手企業と相場が決まっている。

 ポートランドでは、クラスAオフィスがダウンタウンに集中していたため、エアポート周辺の閑散としたエリアにオフィスを構えたがる企業なんてないだろう、と反対されたのだ。

 しかしサンフランシスコもシアトルも、クラスAオフィスがエアポート周辺にたくさんある。ポートランドだってきっとうまくいくはずだ。そう信じて僕は周りを説得し、自分の意見を押し通した。

 当時の副社長が僕の主張を後押ししてくれたおかげで、結果的にプロジェクトは実行された。そしてオフィスができて早々にTOYOTAが入居を決め、TSA(アメリカ運輸保安庁)も入ることになった。

 今ではポートランドにもエアポート周辺に、大きなクラスAオフィスが数カ所存在する。この例は、自分の心に忠実に動いた結果、チャンスを手にしたパターンだが、同時に失敗例も掃いて捨てるほどある。

 それでも自分の信念に対して正直に動いた結果だから、後悔していることはひとつもない。やりたかったのに諦めてしまったら、よっぽど後悔するはずだ。 』


 『 自分は会社からアクノレッジされていない、と不平を漏らす人がときどきいる。「acknowledge」とは、「認める、承認する」という意味だ。アクノレッジの問題について考えるとき、僕はジョン・F・ケネディの大統領就任演説の一部を思い出す。

 「国が何をしてくれるかではなく、あなたが国のために何ができるかを考えてみてください (Ask not what your country can do for you, ask what you can do for your country. )」

 初めてこの言葉を聞いたとき、激しく感動したのを覚えている。国という言葉は、「会社」に置き換えることもできるだろう。文句を言うだけなら誰にでもできる。しかし、自分は会社のために必要な存在であると、胸を張っていえるだろうか。

 一生懸命働いている人は、そもそもそんなことでケチをつけたりしない。評価は自然についてくることを知っているのだ。 』


 『 ビジネスにおいて最も危険なのは、上がり調子のとき。傍目にはうまくいっているように見えるし、自分もすっかり舞い上がってしまている。上ばかり向いて歩いているせいで、落し穴が見えなくなっているのだ。それはちょうど、ローラーコースターに似ている。

 ソースのビジネスをはじめて、2年ほど経った頃のことだ。売り上げが伸びてきて、手狭になった工場を移転して設備を拡張し、僕はすっかり成功者の気分に酔っていた。

 僕はメルセデスベンツを買い、当時高かった携帯電話を持ち、ついでに地元のラジオで、コマーシャルも流しはじめた。そんなとき、ローラーコースターは、カタカタと不気味な音を鳴らしながら頂上に辿り着こうとしていたのに、その音に気づくことができなかった。

 やがて売り上げが順調に伸びていたにもかかわらず、出費がそれを追い越してしまった。成功の証だったベンツだけでなく、リンダにプレゼントした車まで売り払い、創業時にソースを運ぶために買ったオンボロのバンだけが、手元に残った。

 情けないことに、僕は酒に逃げた。深夜に帰宅してガレージでそのまま酔いつぶれていたら、リンダがやてきた。彼女は手に何かを持っていた。フライパンか何かで殴られるかな、とどんよりとした頭で考えた。

 殴られても、しゃあないやろな……。倒産やからな。「ハニー、好きなだけ飲みなさい。そしたら明日、この家を売って、安いアパートをさがしましょう」

 そのときの僕は、どんな顔をしていたのだろう。情けなさと恥ずかしさ、そしてリンダに対する愛情で涙が止まらなかった。 』


 『 ビジネスにおいても、怒りや悔しさから生まれるエネルギーは、時が経ち、いろんなことがうまく回りはじめると、薄れてしまうことがある。しかし、窮地に追い込まれて誰かに助けてもらい「いつか必ずこの恩を返したい」と思うときのエネルギーは、決して絶えることがない。

 結婚した翌年の1974年、長女クリスティーナが誕生した。これまで感じたどんな喜びとも異なる、人生最高の喜びを味わっていた。ただひとつ、リンダの産後の肥立ちが悪く、熱が下がらないことが気になっていた。

 クリスティーナが生まれて4日目。自宅に戻り、リンダの様子が心配だった僕は、ファミリードクターに電話で相談していた。「ところで、娘さんの調子はどうだい?」

 「一日中泣いているし、ミルクを飲むとすぐに吐き出すんですけど、生まれてすぐの赤ん坊なんてこんなもんでしょ、先生?」 軽い受け答えに、先生の声色が変わるのが電話越しにわかった。

 「肌の色はどうなっている?」 「僕みたいな色しとるから、どれかって言ったら黄色かなあ」 「すぐに大きな病院へ連れて行きなさい!」 なんとクリスティーナは極度の黄疸にかかっていた。

 命が助かるかどうかも五分五分という最悪の事態に、目の前が真っ暗になった。「神様、どうか娘の命をお助けください。クリスティーナが助かるなら、僕の命を差し上げます」 病院の礼拝堂で神にすがった。

 5人の専門医が、24時間体制で5日間にわたりつき添ってくれたおかげで、クリスティーナはなんとか快方に向かっていった。祈りは神に届いたのだ! 現実に戻された僕に一抹の不安がよぎった。

 これほど手厚く看病してもらったのだから、治療費は相当な額になっているはずだ。保険にも入っていない僕たちに、払うことができるだろうか……。そう思い、恐る恐る請求書を開くと、「250ドル」という額が書かれている。自分の目を疑った。

 「この金額は間違いちゃいますやろうか?」 受付の人に思わず確認した。 「間違いでないけど、今すぐ払えないようなら分割でも構いませんよ」 「そうじゃなくて、こんなに安いはずがない」

 「困ったときはお互い様。私たちはあなた方のような人のために、チャリティーでお金を集めているのです。それよりも娘さんが助かって何よりですね」 ——僕は涙が止まらなかった。 』


 『 もうひとつの出来事は先の章でも書いたが、僕の見栄からベンツを買ったり、採算が合わないのにコマーシャルを作ったりして、破産の危機に見舞われたときのことだ。

 リンダの冷静なひとことで我に返った直後、義父のブーマーからお呼びがかかった。「リンダを返せと言われるんかいな……」 もともと彼は僕らの結婚に大反対だった。19歳のひとり娘を奪ったのだから、(3人の娘の父親になった今ならなおさら)その気持ちは理解できる。

 翌朝、緊張しながら訪ねると、義父はひとりでリビングに座っていた。 「会社のほうはどうだ?」 「もうあかん……つぶすしかありません(ほんまはもうつぶれとるんやけど)」

 すると彼は、一枚の紙切れをすっと目の前に差し出した。 「マイ・サン、これをつかいなさい」 それは16万ドルという、とんでもない金額の書かれた小切手だった。 「余裕ができたから、退職に向けて積み立てていた金をひきだしたのさ」 

 義父はユナイテッド航空一筋で30年間コツコツと働いてきた技術者だった。余裕ができたなんて、嘘だということはすぐにわかった。そしてこのとき初めて僕のことを「息子」(マイサン)と呼んだ。 』


 『 恩返しというものは、単純にお金を返せば成立するものではもちろんない。娘を救ってくれた病院にしろ、何も言わずに全財産を差し出してくれた義父にしろ、崖っぷちにいた自分を救ってくれた命の恩人なのだ。

 彼らに恩返しをしたいという思いは、ビジネスをはじめる際や、その後のさまざまな問題に直面した際もモチベーションとなりつづけた。

 僕はこれまで、仕事で起こったいいことも悪いことも、すべてリンダとシェアしてきた。彼女の尊敬すべきところは、何が起こってもヒステリックになったり、僕を責め立てたり、口出しをしたりせず、何も言わずにそばにいてくれたことだ。

 思えば僕のおふくろも、家族のためにすべてを捧げてくれた人だった。浮世離れしたアーティスト肌の父親には頼れないからと、7人の子どもを養うために、アイスキャンディ屋、靴屋、洋服屋、マージャン店、お好み焼き屋、焼肉屋、喫茶店など、服を着替えるように次々と商売を替えていった。

 あの頃のおふくろの必死さが、今ならよくわかる。家族を守るという使命は、仕事に対する最大のモチベーションとなり、社会に対する恩返しとなる。 』


 長くなりましたが、最後に本書の目次を紹介いたします。

 CONTENTS  :  the seven laws-make your dreams come true

 chapter 1  LOWS  OF  ENERGY  〔自分の中に熱を持て〕

 chapter 2   LOWS  OF  PASSION  〔情熱をかたむける〕

 chapter 3   LOWS  OF  CHANCE   〔チャンスをつかむ〕

 chapter 4   LOWS  OF  ATTRACTION   〔他人を巻き込む〕

  chapter 5   LOWS  OF  GROWTH   〔成長をつづける〕

 chapter 6   LOWS  OF  PAYBACK   〔恩返しの力〕

 chapter 7   LOWS  OF  SUCCESS   〔成功の方程式〕   (第118回)