123. 坂の上の坂 (藤原和博著 2011年11月)
『 校長時代、私は中学生に学問だけを教えるのではなく、世の中の成り立ちや学問と世の中のつながりについて教えていく[よのなか]科という授業を提唱し、実践してきました。
そのなかで私は、人の言うことを簡単に信じてはいけない、もっと疑え、と教えていました。いわゆる「クリティカル・シンキング(複眼思考)」の技術を伝授したのです。
しかし、私自身は、いったん「クリティカル・シンキング」で自分の意見や進むべき方向を定めたら、その実現段階では、世の中を信じ切って進めるところがあります。行動を起こすときには、信じて動いたほうが勝負には有利だからです。
[よのなか]科で十年以上実践している「クリティカル・シンキング」を、義務教育に導入することと、地域が学校を支援する仕組みを全国に広めていくこと。そうして、学校を核に学習コミュニティを再生することがメインの仕事です。 』
『 ロンドンに一年一ヵ月、そしてパリに一年三ヵ月。家族を連れた私のヨーロッパ赴任は二年半に及びました。私はここで、「成熟社会」の本質を垣間見ることになります。
日本の高度成長期のように「みんな一緒」の社会ではなく、一億総中流社会と呼ばれた塊が「それぞれ一人一人」に分かれていく社会です。上下にも、左右にも、前後にも、タテ・ヨコ・ナナメにも。
そこには、生活を楽しもうとする、人生を豊かに生きようとする真摯な人々の姿がありました。例えば、パリの人々に教えられた”Art de vivre”(アール・ド・ヴィーヴル)。
これは、国よりも、産業社会よりも、自分自身の人生と人々との関わりを大事にするフランス人の生活信条です。フランス語で”Art”は「術」、”de”は英語の”of”、”vivre”は「生活」という意味。
直訳すれば、「生活術」になりますが、実体験した私の感覚では、「人間と人間の間を取り持つコミュニケーション手段としての芸術的生活術」というのが適切かなと思います。
しかも、人々の間には「アール・ド・ヴィーヴルとはつまりこれだ」という一般解はありません。一人一人自由に考え、選択し、味わっているのです。夫婦でも考え方が別々だったりする。まさに、これこそが成熟社会の生き方だと感じました。
この生活信条をイメージするのにわかりやすい事例として、リクルート社が当時行ったフランスの若者へのインタビューを紹介したいと思います。
「何よりも生きることを楽しみ、日常の平凡さから抜け出す知恵です。ご婦人に道を譲りながら、その服装や髪型を褒めることや、料理を楽しむために美しいテーブルクロスを選ぶことも入ります」
「それは機会を利用して楽しむ術。昨日の繰り返しを続けないことです。ゆとりある時間の中で生れる楽しみ。”義務感へのアンチテーゼ”ではないでしょうか」
「電車を一台やり過ごし、次の電車で座っていくことから始まります。時間をとって行動に余裕をもてば、人は胸いっぱいに人生を呼吸できます」
これを語っているのが二十代前半の若者、というのがミソではないかと思います。「アール・ド・ヴィーヴル」は日常の中に息づき、完全に人々に浸透している。当たり前のように人々は実践しているのです。
日常の中にちょっとした喜びを発見し、コミュニケーションし、それを楽しんでいる。実際、彼らは食事を大事にし、会話を大事にし、そこで幸福を共有する時間をきわめて大事にしています。
日常のささいな事象の中にこそ幸せの本質があると考える彼らの生き方に、私は様々な場面で感動させられることになりました。対して日本人の人生観の中心的価値は何か。
私はパリでくらしている間に考え込むことになりました。結局、出てきた結論は「上手に生きる」ことなのではないか、という仮説でした。 』
『 私は、日本に「それぞれ一人一人」の兆候が本格的に出現し始めてから、すでに一五年が経っていると見ています。そして、ここにきて多くの人が「心の拠り所」を強く求めるようになっているように思えます。
その現れが「ケータイ」メールの大ブームです。普段の生活の中で、人々はほとんどがケータイをいじっている国など、世界の中で日本だけではないでしょうか。
それだけ現代の日本人は寂しく、不安なのです。一人になってしまう恐怖心から、誰かとつながっていようとする。もうひとつ、日本人の異常なブランド信仰もわかりやすい例です。
「エルメス」を持っている。「グッチ」を手にしている。それが、特定の価値を共有した仲間、つまりコミュニティへの参加権になる。ちなみに私は、ブランドのことを「制服」と呼んでいます。
それがあれば、同じ仲間だと認めてもらえる、わかりやすいアイコンだから。ヨーロッパでは、そうした孤独に対する不安は、別の社会的機能がやわらげてくれていました。その社会的機能が、宗教です。
宗教が、心の拠り所を作ってくれている。産業社会とは別に、教会を中心としたコミュニティが地域社会の隅々で機能しています。それが、個人と社会をつなぐ中間集団になっている。
でも、宗教べったりなのかというと、そうでもありません。うまく宗教を使って、癒しや免罪や、背中を押してもらう行動をとるための道具にしている。フランス人の友人はこんなことを言っていました。
「フランス人の多くはクリスチャンだけど、大人になるにつれて教会から足が遠のく。行くのは結婚式とか、葬式くらいかな。でも子どもができると、また毎週のように通うようになるんだ。彼らには家庭や学校以外の場が必要だからね。」
よくできた仕組みだと思いました。日本では、宗教が本来果たす役割をケータイやブランドのコミュニティが受け持っているように思えます。もちろん、私はそれを否定するつもりはありません。
ただし、自覚を持っておくことが大切です。ケータイもブランドも宗教も、わかってやっている、と認識しておくこと。自分の人生を切り拓くために、宗教的なものもツールとして使う。
そんな感覚が、成熟社会には必要なのです。何しろ、孤独に加えて、老いもやって来るのですから。 』
『 新聞やテレビは、日本のシステムの歪みや腐敗をさかんに取り上げますが、私にはどうにも納得がいきませんでした。
だって、当時のヨーロッパの失業率の高さや福祉の厳しさ、企業の競争力不安や地域紛争、若者の兵役義務など、むしろ「日本はなんて平和でいい国なんだろう」と思うことのほうが多かったからです。
では、どうしたら日本人は真に豊かになれるのか?何が必要なのでしょうか?やがて私は、いくつかの結論に思い至ります。
一つ目は、住宅問題。土地が安くなって住まいの値段が売買賃貸とともに値頃になり、地主と店子の新しい関係作りが進めば、日本人の幸福感の一役買うと考えました。
二つ目は、広い意味でのサラリーマンの比率がもっと下がることです。会社にしがみつかなければいけないことが、人々を苦しめているのではないか。
さらにいえば、子どもたちを前時代的な「標準化」の罠に引き込んでいるのも、こうした雇用形態が関係しているのではないか。フェロー(個人と会社が対等な契約を結ぶ)のような、企業と個人の新しい関係作りのためのさまざまなチャレンジがなされていいと思いました。
三つ目は、日本流の個人主義が徐々に浸透しながら、同時に公共心が育っていくことです。個人と個人、個人と社会の新しい関係が求められている。そのためには、産業社会、企業の側も発想をシフトチェンジしていく必要があると感じました。
さらに四つ目が、高齢化社会を迎え、生きていくということにどう立ち向かっていくか。身体的、あるいは精神的な対策が必要ではないか。
こうして私は、自らの四十代、五十代でやるべきテーマを四つ、はっきりと自覚するに至りました。住宅、介護を中心とした医療、教育、そして組織の壁を越えて個人と個人を柔らかくつなぐネットワークです。 』
『 会社と個人との関係を、私は次の三つの言葉で表してます。「企業人」、「起業人」、「寄業人」です。「企業人」は一般的な会社員のこと。入社した会社に忠誠を尽くし、異動したり、昇進したりしながら、一部は経営陣に加わることもあります。
「起業人」は自ら新しい組織を作る人のことです。会社で培ったノウハウや人脈を生かして、まったく新しい事業を立ち上げます。しかし、大きなリスクも抱えるので、全体から見れば数は少ない。
「寄業人」は、組織とパートナーシップを保ちながら仕事をする個人を指します。「自営業者」に近い感覚です。士業をはじめ、新聞記者たテレビのディレクターなども寄業人的資質があります。
あえて組織を離れず、組織にいながら個人の力を発揮することができる仕事のやり方です。会社の中で個人が力を発揮していくためには、会社と個人が互いに合意できる方向性が重要になります。
いくら個人が力を発揮したくても、それを会社が求めていないのであれば、力を発揮することは難しいでしょう。だから、寄業人=企業内自営業者を目指すときに重要なことは、会社と自分の「ベクトルの和」を最大にしよう、と心がけておくことです。 』
『 欲しい時計が見つからなかった私は、ではどんな時計が欲しいのか、自分で絵を描いてみることにしました。そんなことをしていると意外な出会いはあるもので、企業や大学で作るオリジナル時計の制作を請け負っている、という人物に出会うことができました。
もともと時計メーカーにいらした清水新六さんです。諏訪市にある時計企画室コスタンテという会社を経営しておられました。時計のOEM(Original Equipment Manufacturing)製造メーカーです。
私は単刀直入に聞いてみました。「清水さん、たった一個をOEMで作る、なんてことはありえますか?」こういう無茶な質問にどう答えてもらえるかで、私はその人と付き合うかどうかを決めます。
「条件付きでありえます」 条件がついていようがなんだろうか、「ある」とおしゃる。こういう人が、私は好きです。「Yes, but ……」の思考をする達人です。やらない理由をあれこれ挙げて、責任回避するタイプの人とは根っこから違う。
私は普段から、世の中を幸せに生きていくコツは、「そうですか、ちょっとやってみますか」という思考を持った人と付き合うことだと考えています。オモシロいと思ったことは、実現する過程で条件をつけていけばいいだけのことですから。
さらに私は、日本人として世界で恥ずかしくない時計にしたくて、あれこれとアイディアを出しました。例えば、漆は世界が認める日本文化の一つで、英語で「japan」と呼ばれるほどですが、これを使ってみてはどうか、と考えました。
やがて、清水さんはこうおしゃいました。「もうちょっと物語があれば、これは製品として作れるかもしれない」 和田中の校長時代、ゲストティーチャーでいろいろな人たちが来てもらっていたのですが、その常連に、根本特殊化学という夜光塗料で世界一の会社の社長がいました。
連絡すると、門外不出の橙色の夜光塗料を出してくれるといいます。ただ、大量に生産する場合、品質が安定しないとも。そういうチャレンジもできるのが、オリジナル時計づくりの面白いところです。
結果的にこの時計は、私のラフスケッチを参考にして「ネオジャパネスク」をコンセプトに専門の時計デザイナーに細部のデザインをしてもらうことになりました。
こうして、ゴールド系とシルバー系の二種類が、二十万円前後、五十個限定でコスタンテから売り出されることになります。私がデザイン画を持ち込んでから、九ヵ月後のことでした。
日本の職人の技と愛情を結集して作り込んでもらったこの時計は、ネット上だけの販売だったのですが、一か月で完売。こうして私は本当に欲しい時計を手に入れました。
世界に五十個しかない時計。時計に目を留めてくれる人がいたら、私はこの物語を話します。 』
『 不動産の相場感覚を身に付けると、いいことがあります。言われた通りにするのではなく、自分の意見を持つ。自分のマンションに値付けしてみる。そんな分析はなかなかできないと思うなら、「自分の土地勘」のあるところだけに投資すればいいのです。
私が今住んでいる家の土地も、「土地勘」があったからこそ出会いました。今のエリアはもう二十年以上暮らしており、このあたりのことはとてもよくわかっています。
実は今の家が建っているのは、かって住んでいた家から駅に向かう途中にあった土地でした。かっての家は建て売りで求めたものでした。
ヨーロッパから戻ってきて、ずっと自分の家を建てたいと思っていた私は、かっての家から駅までの間に徹底的に土地を探したのです。
土地が出そうなところ(例えば、駐車場になっているところとか、古家が建っていて誰も住んでいなそうなところ)の情報は、市場に出ない物件も含めて、ほとんど当たっていました。
そんなふうに集中して情報を集めてるうちに、七十五坪ほどの綺麗な敷地にで出会いました。(普通は、三分割されて建売業者に分譲されてしまいます) 』
『 私の家には同い年の画家、杉山邦さんの絵が飾ってあります。彼は自分の絵を売ったり、描いた絵をシルクスクリーンにして売ったりするときに画商を使うのですが、私は画商から買いませんでした。
彼に描いてほしいテーマを伝えて、オリジナル作品を描いてもらったのです。画家の絵は一般的に、画商が買った瞬間に三倍くらいになります。ということは、消費者が持ち帰った瞬間、価値は三分の一以下になってしまうということです。
ならば直接、画家に頼んだほうが安い。これも、画家への思い入れがあってこそ、できることでしょう。やり方はいくらでもあります。例えばマンションの玄関に飾る小さな絵がほしいとする。
どこかから絵を買ってきてしまえば、ただの消費者です。しかし、展覧会で見た画家に依頼して描いてもらったら、それはただの消費者では終わりません。
例えばクルマ好きな人なら、カーデザイナーから車をデザインした際のデザイン画を買ってもいいと思います。誰かが勝手に価値を算定したモノをその値段で買うのではなく、自分が価値を与えて、新しいソフトを創出する。
自分が付加価値のつくり手になる。これこそが本当の投資だと思います。室町時代から江戸時代にかけて、ある程度暮らしの豊かだった人々はそうやって「投資する」行為を楽しんでいたように思えます。 』
『 私は、二〇〇八年から、橋本徹大阪府知事のもと、大阪府教育委員会特別顧問を務めていました。私は橋本さんのことをよく知らなかったのですが、東京の教育界での仕事が知られるようになった私に、橋本さんが白羽の矢が立ったのです。
橋本さんについていろいろ調べてみると、彼はどうにも孤軍奮闘しているようでした。メディアからもずいぶん叩かれていましたが、私から見れば言っていることは正論だと思いました。そこで、私も一肌脱ごうと考えました。
実際に会ってみると、これなら大丈夫、と感じたので、「教育については七つやりたいことがありますが、やれますか」と単刀直入に聞いてみました。
すると、「ぜひお願いしたいです。でも、こんなことまでしてもらったら、いったいいくら払えばいいんでしょうか」と不安顔で聞くのです。私は、お金をもらわず、タダで引きうけたい、と伝えました。
橋本さんは驚いておられましたが、これには明快な理由があったのです。私が杉並区立和田中学校で行った改革は、言ってみれば”点”の改革でした。
和田中ではできたけれども、他の中学校ではそう簡単にはできないだろう、と多くの人が考えてました。ましてや東京ではなくて文化の異なる大阪です。[よのなか]科という発想が合うか合わないかも含め、不安要素のある大勝負になります。
しかし、もし大阪で再度ムーブメントを起こすことができれば、今度は”点”でなく、”面”の改革が展開できる。こんな機会は滅多にありません。ぜひチャレンジしてみたい、という気持ちのほうがお金の問題よりもはるかに大きかったわけです。
そしてもうひとつ、例えば特別顧問で給料をもらってしまったとすると、その瞬間に私は橋本知事の部下になります。私はそれが嫌でした。申し訳ないのですが、私は知事の部下にはなれません、と宣言し、それでいいのならやります。と申し上げました。
返答は「ぜひお願いします」でした。最初の四十日くらい大阪に詰め、二十五市町村で五十五の小中学校を回りました。これを手引きしてくれたのが、大阪教育大学の監事を務めている野口克海さん。
現場を知っている人に教育委員に入ってほしいということで来たもらったのが蔭山英男さんです。いろいろな人にサポートしていただき、半年後には全国学力調査で小学校の算数の学力から上がっていくという実績を残すことができました。
現場では一部に府知事への反発もありましたが、私は橋本さんの部下でもなければ給料ももらっていません。どうも藤原は橋本さんに命じられてやっているのではない、と気づいてもらえたことで、スムースなコミュニケーションが図れたのです。
お金が発生しないことをするなんて、そんな余裕はない、忙しい、と感じる人もいるかもしれません。しかし、忙しいと思ってやらない人は、一生、忙しいままです。
自分にとって、何か新たなチャレンジをすることなく終わってしまう可能性もあります。それでは、あまりにも残念な人生ではないでしょうか。 』
『 そんな思いをもっていたとき、ひとつの出会いがありました。仙台のNPOが集まる会議に参加していたときのこと、飛び込みでやって来た中年の男性がいました。
彼は自分の家も、水産品の加工工場も、カキやヤホやホタテの養殖のための筏もすべて流されてしまった漁師だったのですが、一人の父親として、雄勝の中学校を救ってほしいという。(宮城県石巻市の雄勝町)
その申し出はなんともささやかなものでした。硯の産地なのだが、書道の道具が流されてしまった。だから、書道のセットがほしい。子どもたちを元気づけるためにも音楽の授業が大切になるのだが、リコーダーがない。リコーダーを手配してもらえないか。
「 書道のセットとリコーダーを五十一セット」という、実に具体的でつつましい要望が、私の心を打ちました。あとで聞いてみると、彼は雄勝中学校のPTA会長だったのです。
自分の家もホタテの養殖場も筏も何もかも流されていまったのに、現地に踏みとどまり、子どもたちのために学校を再興しようとしている。
私は、この出会いをチャンスとして、「チーム立花」の面々とともに、雄勝に絞って支援活動を展開することになります。雄勝中学校を、さらには雄勝の町を復興させるために自分に何ができるのか。ささやかな取り組みを始めたのです。
オリジナルの復興時計を作って、その収益金を支援に充てる、というのもその一つでしたが、他にもいろいろな取り組みをすすめています。
和田中時代にお世話になった方々をはじめ、文化戦略会議(エンジン01)でご一緒している著名人が、相次いで雄勝中での〔よのなか〕科特別授業を引き受けてくださいました。
夏には、雄勝中学校の校長、ソフトテニス部の部員と顧問の先生をお呼びして、仙台近郊でテニス合宿を開きました。子どもたちは大会を控えていたのですが、練習場所にも困っていました。
そこで、東京から合宿に参加してくれる仲間を募り、少し多めに費用を払ってもらって、子どもたちが無料で合宿に参加できるようにしました。いわば、スポンサー付き合宿です。
中学生たちが声を張り上げ、噴き出す汗を拭きながら必死で練習しているすぐ隣で、テニスをする。こんな経験は、オジサンたちにはなかなかできることではありません。
これだけでも都会からの参加者には新鮮な感動がある。おかげで、あっという間に参加者が集まり、夏合宿を成功させることができました。 』
題名の「坂の上の坂」は、司馬遼太郎の「坂の上の雲」からのパロデーです。「坂の上の雲」は明治維新から日露戦争の時代の日本人の心意気を見事に描いた作品です。
日露戦争を戦った百年前に比べ、平均寿命が大きく伸び、雲を夢見て懸命に生きた、先にすぐ死がありましたが、現代では、さらに坂を登った先に、天国があるという意味だそうです。 (第122回)