145. ドイツ統一の真の功労者 (塩野七生記 文芸春秋2017年8月号 日本人へ・百七一)
私は、東西ドイツが統一されたのは、ベルリンの壁が崩されたからだと単純に考えてました。一九八九年にベルリンの壁が壊された時、私は五〇歳になろうとしてましたが、新聞やテレビでは、ベルリンの壁が壊される場面が何度も放送され、そして間もなく東西ドイツは統一されました。
何かを破壊しただけで、何かが生まれると考えた、私は何と浅はかなことかと、塩野七生のこの論文を読んで反省させられました。特に私が驚いたことは、東西ドイツの統一前のレートは、10:1くらいであったのですが、コール元首相は、政治判断で、1:1のレートで交換したことでした。では読んでいきましょう。
『 六月一七日、ヨーロッパ各国のテレビはいっせいに、ドイツの元首相ヘルムート・コールの死を報じた。それを聴きながら、日本の元首相小泉純一郎が言ったという「政治家とは使い捨てにされるもの」を思い出していた。
そして、今私が書いている古代ギリシャのリーダーたちも、使い捨てにされたことでは同じなのだと思った。「使い捨て」にされるには、まずは使ってもらわなくてはならない。
民主政の国ならば選挙で絶対多数を与え、まあやってみなはれ、という感じで押し出してやらねばならない。
大統領選に勝ったマクロンは議会選挙でも絶対多数を獲得したが、それをイタリア人は、ガソリンを満タンにしてやって、さあ行け、というフランス国民の意思の表れだと言っていた。
途中で給油所に立ち寄らなくてもよい状態で、つまり政局不安の心配もない状態にしてあげて、やってみなはれ、というわけだ。これは国民が、国政の最高責任者に権力の行使を託したということである。
この面ではコールは恵まれていた。一九八二年から一九九八年までの一六年間、首相の地位にありつづけたからである。そしてこの人が最高に「使われる」、一九九〇年が近づいてくる。
その前年、ベルリンの壁が崩壊した。これをコールは、ドイツ人の秘かな願望であった東西ドイツの統一を実現できる、好機と見たのだろう。壁の崩壊は、東ドイツの崩壊。その東独を上手く崩せれば、東西ドイツの統一はなる、と。
だがあの時期、ドイツ以外のヨーロッパ諸国は、ドイツ統一に賛成ではなかったのだ。第一次、第二次と二度もの大戦によるトラウマで、強大化する可能性大のドイツの統一を喜ぶヨーロッパ人はいなかったのである。
英国のサッチャーもフランスのミッテランもNO.イタリアの首相だったアンドレオッティは、例の調子で、「ドイツを心底愛するわたしとしては、愛する相手が一人でなく二人のほうが嬉しいですね」と言う始末。
西ドイツ内でも、東と西では経済力の差がありすぎるという理由で、経済界が反対。労働界も、東独からの安い労働力が入ってくれば西独の労働市場が破壊されるという理由で反対。
国民投票にかけていたならば、反対多数でポシャっていただろう。あの当時の情況をリアルタイムで追っていた私には、西ドイツ首相のコールは孤立無援に見えた。
だがここから、後年になって「外交の傑作」と言われることになる。「目的のためには手段を選ばず」と言ってもよい手腕が発揮される。
まず、強大なドイツへの恐怖心までは持っていなかったらしい、米国大統領ブッシュ・シニアの支持を取りつけた。
次いでは、仏大統領ミッテランの支持を獲得。ミッテランには、統一後といえどもヨーロッパあってのドイツであり、ヨーロッパ無しのドイツは存在しえないと強調することで、説得に努めたようである。
英国首相だったサッチャーも、この時期には敵ではなくなっていた。同時に、ゴルバチョフの懐柔をはじめる。同じ時期、宿敵であった東ドイツのホネカーとも接触していた。
東ドイツの崩壊を、穏やかに終える策であるのはもちろんだ。ドラスティックに瓦解した後では、統一の困難さはさらに増すからである。国内では、経済界の反対にも、労働界の強硬な反対にも、耳を傾けなかった。
ドイツ連銀に至っては、反コール一色になった。コールが、強い西ドイツマルクと弱い東ドイツマルクを1対1で、つまり同等の価値での交換を公表したからである。たしかにこれは、経済を無視した政策であった。
しかし、コールは、東西ドイツの統一を、経済ではなく政治の問題であると確信していたのにちがいない。もう一つ彼が信じていたのは、ドイツ人が胸中に抱きつづけてきた祖国の統一への熱い想いであったろう。
こうして、あの当時はほとんどの人が不可能と思い込んでいた東西ドイツの統一が、実現したのである。壁の崩壊から一年しか過ぎていない、一九九〇年の十月であった。
次の選挙では、コールは大勝する。だがこの直後からコールを、統一のマイナス面が一挙に襲う。経済力の低下、大量の失業者の発生、等々。
改革とは新しいことに手をつけることだから、それによるプラスは、始めの頃は出てこない。反対にマイナスは、すぐに現れる。
だから時間と忍耐が必要なのだが、それを理解してくれる人は少ない。次の選挙では、コール率いるキリスト教民主同盟は野に下った。
そのコールを政治の世界から追放したのは、政治資金スキャンダルである。だが彼は、自分の党に流れたとされた資金の、使途を明かさなかった。私の想像では、ゴルバチョフとその一派に流れた、と思うのだが。
「目的のために手段を選ばず」であった。だが、あの時期を逃していたら、東西ドイツの統一は永遠に実現しなかったろう。コールは、ベルリンの壁の崩壊に、不可能を可能にする勝機を見いだしたのだ。
そしてそこに、思いきってくさびを打ち込んだのである。今ではそのコールを、「ドイツ統一の真の功労者」と讃えるように変わっている。
「使い捨て」にはされた。だか、使った後で捨てられたのだから、これこそ政治家、政治屋ではない政治家、の生き方ではないだろうか。 』 (第144回)