チェロ弾きの哲学ノート

徒然に日々想い浮かんだ断片を書きます。

ブックハンター 「運とつきあう」

2020-10-31 13:49:17 | Weblog
197. 運とつきあう  マックス・ギュンター著 九内麻希訳 2012年4月
  How  To Get  Lucky 
 幸せとお金を呼び込む13の方法
 Techniques for  Discovering and  Taking  Advantage  Good Breaks  by Max Gunther
    Copyright©1986 Max Gunther

 『 第一部 支配的な要因
 ○ 運を否定しない
 ウイリアム・S・ホフマンは、ギャンブラーだが、成功できなかった。 彼は「ザ・ルーザー(負け犬)」という著書で、自分が成功できなかった理由を突き止めようとして、興味深い結論に到達した。失敗した原因は、人生における「運の役割」を否定しようとしたからだというのである。
 私たち人間は運を味方につけなければうまく生きられない。「成功」の定義がどのようなものでも、運は成功するために欠かせない要素なのだ。

 ○ 運を向上させる方法は運の存在を認めること。
 これが「幸運のポジション」に立つための大前提である。 』

  第二部 「幸運なポジション」に立つための方法

 『 第1の方法  「運」と「計画」を区別する。
 ポーラ・ウェルマンは、ブラックジャックのディーラーとして、ラスベガスやアトランティックシティのカジノで長年働いて来た。「何が勝者と敗者を分けるか知りたいと思って」と彼女は語った。 でも、長いこと数え切れないくらいの勝者と敗者を眺めてきて気づいたわ。性格が違うのよ」
 どこが違うのだろうか? 
 「一つ言えることは、負ける人は負ければ運が悪かったっていうのだけれど、勝と自分がうまくやったって言うのよ」
 どうやら運をコントロールするための最初の手掛かりが見つかったようだ。勝者になりたければ、運が自分の人生にどのような役割を果たしたかを注意深く見極めることだ。
 運よく思いどおりの結果になったときは素直にその事実を認めることだ、決して自分がうまくやったから成功したなどと勘違いしてはいけない。 』

 『 第二の方法  「人の流れ」に飛び込む
 女優のローレン・バコールに自叙伝「自分自身で」「バイ・マイセルフ」によると、ニューヨークでの最初の二、三年は不運の連続だった。
 彼女はいつも「人の流れに」飛び込んでいった。誰がスターの階段に導いてくれる? それは知りようがなかったが、結果的には、テイモシー・ブルックという無名の英国人作家との出会いがその後の彼女の運命を決めた。

 ある夜、二人はト二ーズというバーに出かけ、ブルックは、知り合いのニコラス・ガンズバーグに紹介した。その時は、何とも思わなかったが、この出会いが彼女の大ブレイクへと続くステップだった。
 ガンズバーグは女性誌「ハーパーズ・バザー」の編集者だった、彼は、バコールをファション担当の編集者ダイアナ・ヴィランドに引き合わせ、運よくモデルの仕事が決まった。
 後日、バルコールの印象的な写真が紙面一杯に掲載され、それがハリウッドのプロデューサー、ハワード・ホークスの目にとまることになる。そして映画女優としての人生が始まったのである。 』

 『 第三の方法  「スプーン一杯」のリスクをとる。
 人生の敗者になりたければ間違えのない方法が二つある。一つは無謀なリスクを負うこと、もう一つはリスクをまったく負わないことである。
 ジョン・D・ロックフェラーが築き上げた莫大な財産は、石油事業で伸るか反るかの大勝負に打って出た結果である。
 
 ロックフェラーは、学校を出ると、クリーブランドにある商品取引の会社の事務員になった。 と言っても、日雇いのようなもので、このまま真面目に働き続けても、今の状態から這い上がるには、リスクをとらなければいけないと考えるようになった。そして、その考えを行動に移した。
 ささやかな貯蓄に借入金を足して、次から次へと商品相場や儲け話につぎ込んでいった。
 数々の不運に見舞われもしたが、ときには幸運がめぐってきた。なかでも、飛び切りの幸運は、石油精製事業の専門家であるサミュエル・アンドリュースとの出会いだった。 その頃には、それなりの経験を積んだいっぱしの投機家になっていた。

 ロックフェラーは、アンドリュースの新規事業に大いなる魅力を感じた。すぐさま二人はクリーブランドに精油所を立ち上げたが、手堅い仕事をしている人たちの視線は冷ややかで「そんな馬鹿げた事業が成功するはずがない」と幾度となくからかわれた。ところが、やがてこの精油所がスタンダード・オイル社のドル箱となるのである。』

 『 第四の方法 「引き際をわきまえる」
 「調子に乗りすぎてはいけない」という教訓は古くからあるが、この言葉の本当の意味を理解しているのは運の良い人だけだ。 』

 『 第五の方法 「運を選ぶ」
 「損切りしろ」とウォール街では言う。きちんと実行できる人は少ないのだが、実に良いアドバイスである。株式投資に限らずあらゆる局面で役立つ。
 「運を選ぶ」ことが多くの人にとって難しいもう一つの理由は「自分が間違っていた」という辛い事実を認めなくてはならないことである。
 運の良い人は自分の判断がときには間違うことを前提にして生活している。これは「リスクを受け入れる」という習慣の一つである。
 「飛び込むにもリスクがともない、立去るにもリスクがともなう」とローバード・バルクは語った。「100パーセントを求めれば、身動きがとれなくなってしまう。これが最高にツイていた男の言葉である。 』

 『 第六の方法 「ジグザグに進む」
 レーガン政権のときオーストリア大使を務めたへレン・フォン・ダムは、一九八五年にニューヨークタイムズ紙のインタビューに「セレンディピティを生かせればと思って生きて来ました。」
 彼女は一九三八年オーストリアの貧しい家庭に生まれた。故郷の小さな村は第二次世界大戦後はソ連の占領下にあった。
 彼女は逃げ出す機会をうかがい、ほぼ無一文で西ドイツに脱出した。何とか仕事を見つけることができたが、アメリカ人の兵士と出会いプロポーズされると迷うことなく結婚を選び、デトロイトへ旅立った。

 しばらくすると彼女はもっと良い目標を求めるようになった。離婚し職を見つけて自立したころ、魅力的な秘書の仕事が目に留まったのでそこへと移った。
 今度の仕事は単なるデスクワークではなく、外に出ていろいろな人たちに会えるという点が気に入った。それは米国医師会の政治活動委員会に関する仕事だった。
 やがて、彼女は米国医師会の仕事を通じてある男性と知り合ったことがきっかけだった。
 映画俳優としてキャリアをスタートし、紆余曲折を経て政治の世界に転向した人物ーーロナルド・レーガンだった。ヘレンのエネルギシュで有能な仕事ぶりに感心したレーガンは、カルホルニア州知事選へ出馬の際に自分の秘書として手伝ってほしいと依頼した。彼女はすぐに同意した。
 ヘレンはレーガンの私設秘書となり、大統領選挙にも尽力し、ホワイトハウスに入った。そして1982年、かって着の身着のままで逃げ出した祖国オーストリア駐在大使に任命されることになった。運はどの方向から近づいて来るかわからない。気配を感じたらすぐに手を伸ばすのだ。 』

 『 第七の方法 「迷信」とつきあう。
 現実の人生も十分な情報もないままに決断を迫られ、リスクを負わなければならない時、自分を導いてくれるものであれば何でもいい。決断しないよりははるかにましである。必要な時に頼りにできる何かをもっていることが重要なのた。 』

 『 第八の方法 「最悪」を想定する。
 運をつかむためには最悪の事態への対処の仕方を学んでおかなければならない。「状況が悪い方向に進むこともある。最悪の結果は何か? それはいくつあって、自分を守るために何ができるか?」
 商品相場での投機でカリスマ投資家のマーティン・シュワルツは、「どうして成功したのですか?」と問われて彼はこう語った。「負け方を学んだんだよ」 』 

 『 第九の方法 沈黙を守る
 私たちは次に何が起こるか予測することは出来ない。それでも何かが起こることは間違いない。そうした不測の事態に対処するには、できるだけ柔軟に構えていることが重要である。
 生涯にわたって類い稀な強運に恵まれた第二九代大統領のカルビン・クーリッジは、不必要なおしゃべりが運を退けてしまうことを本能的に理解していたに違いない。
 1919年にボストンで起こった警察官のストライキで、当時クーリッジは、マサチューセッツ州知事だった。それまでに公務員の組合活動について意見を表明したことはほとんどなかった。
 突如としてストライキ突入の懸念が高まると、彼は組合の代表者に連絡し、警察官のストライキは許容できないと警告した。組合側は警告を無視したが、これが大きな誤算だった。
 相手がどんな行動に出るかと疑心暗鬼になっていた組合側を驚かせたのは、アメリカ労働総同盟のサミエル・コンバーズ会長に公開討論を申し入れ、問題を国民議論に発展させた。「社会の安全に反するストライキ権は、何人も、いかなる場合も有しない」とクーリッジは明言し、報道機関と大衆の支持を得た。この瞬間からカルビン・クーリッジは大統領への道を歩むことになった。 』

 『 第十の方法 教訓にならない教訓
 人生の経験のなかには教訓になりそうに見えるのに、そうならないものがある。運の良い人は「何も教訓の得られない経験」をきちんと見分けることができる。
 「歴史は繰り返す」という格言を妄信している人が少なくない。歴史は単純に繰り返すわけではない。なぜ? 歴史は何十憶人の人がそれぞれに行動し、考え、感じたことの結果であり、絶え間ない変化を続けている。予測など不可能だ。 』

 『 第十一の方法 不公平を受け入れる
 空軍の第十五師団に属していたボブ・バウマーは第二次大戦で欧州戦線へ赴いた。操縦していた戦闘機が二度も撃墜されたにもかかわらず、辛くも生還した。
 「オレより飛行回数が多いのに一度も撃墜されなかったパイロットは大勢いたんだ。また戦争に行って飛ぶことになっても、もう撃たれることなないだろうな」とボブは話していたという。
 やがて朝鮮戦争が勃発し、ボブは再び従軍した。1952年6月に、彼の操縦するB29が爆撃任務中に撃墜され、帰らぬ人となった。世の中は不公平にできている。』

 『 第十二の方法 いくつも同時にこなす
 運の良い人を思い浮かべ、次に運の悪い人を思い浮かべてみよう。際立った違いは何か? 運の良い人のほうが忙しいのだ。
 1933年、42歳のチャールズ・ダロウはペンシルバニア州ジャーマンタウンで、空調関係のエンジニアをしていた。当時は世界恐慌のさなかで、幸運な男といえども、不運の勢いに押され気味で三年ほど定職についていなかった。
 ダウロは、本職である空調エンジニアの仕事を探す傍らで、家電製品を修理する商売を立ち上げた。景気が悪く、どの家庭も新製品を購入する余裕がない時期だったため、思いのほかうまくいった。

 1933年の寒々とした冬のある日、ダウロは妻と食事をしながら、不動産王になれたらどんなに楽しいだろうと思いをめぐらした。やがてダウロは、こんなゲームがあれば興味をもつ人がいるのではないかと思いついた。
 皆が長引く不況でうんざりしているので、大金持ちになることを創造するゲームがあれば憂さ晴らしにもってこいではないかと考えたのだ。
 手先が器用で、ときおりジグゾーパズルなどのゲームを自作することもあったダウロは、どこからか厚手の防水布を見つけてきて街並みの絵柄を描いてみた。
 羽振りが良かったころ訪れたアトランティックシティに実在する名前をつけたりした。絵柄が決まると、近所の商店からペンキのサンプルをもらい色を塗った。
 木材置場から木材の切れっぱしをもらって、家の形のコマをこしらえ、廃物のボール紙をカットして、不動産の権利証書を模したカードを作った。

 ゲームの遊び方についてはぼんやりとしたアイデアしかなかったが、時間がたつにつれて、具体的ルールが固まってきた。サイコロ二つと子供から借りたおもちゃの紙幣と(各プレイヤーが駒として使う)ボタンを用意し、ダウロは、週末や夜の空き時間に妻や友人を誘ってゲームを進めてみた。
 回数を重ねるにつれて、新たなルールを導入したり、複雑な要素を加えながら洗練の度合いを高めていった。
 やがて完成したゲームはちょっとした芸術品に仕上がった。初めて参加した人もすぐに夢中になり、みんなが一晩中遊びたがるほど面白いゲームが誕生したのである。

 ダウロはこれを「モノポリー」と名づけたのである。
 もっとも、ダウロにとってこのゲームは、あくまでも片手間にすぎなかった。友人や隣人が欲しいと言えば1セットあたり1ドルで売ることにした。手作りなので、せいぜい一日に二セット作るのがやっとだったが、注文をこなすにはそれで間に合った。

 誰かがゲームを手に入れて知人を招いて遊ぶと、そのうちの誰かが新たに注文をするというふうに、評判はクチコミで広まり、いつの間にか販売数は百セットに達した。 ダウロにとってはそれで十分だった。
 ところがそんなダウロのもとに「運」が近寄ってくる。ある小さな印刷会社のオーナーがゲームに好奇心をそそられ、ダウロに会って、ボードとおもちゃの紙幣やカードなどを自分の所で印刷させてくれないかと申し出た。ダウロにとっても、手間のかかる日々の作業が軽減されるので喜ばしい話だった。
 加えて印刷会社のオーナーは、ささやかな広告と販売促進のキャンペーンも引き受けた。
 こうして二人は、一日に最大六セットのモノポリーを生産できるようになった。しばらく経つと、もう一つの幸運がめぐってくる。フィラデルフィア・デパートの職員が、ある雑貨屋の店先に陳列されてるのを見かけ、一セット買い求め自宅にもちかえった。ほどなくしてダウロたちは、デパートで販売するために大量の注文をうけることになった。フィラデルフィア・デパートでは発売まもなくして最初の注文分が売り切れたので、すぐに注文がきた。
 新しいゲームの噂はすぐにほかの店にも飛び火し、さらに別の都市にも広がって行った。注文も100セット、200セット、300セットと増え始めた。
 一度にそんなに多くのゲームを小さな印刷会社では作ることが難しくなった。ダウロの方も商品や請求書の発送、材料の仕入れなどの仕事に追われた。
 この状態から抜け出す方法は一つしかなかった。
 ダウロは1883年に創業されたテーブルゲームの大手パーカーブラザーズ社にライセンスを与えて、ロイヤリティー収入を得ようというものだった。

 パーカー社の担当者は、持ち込まれたアイデアが自社製品にふさわしいかどうか吟味した。この新しいゲームには、基本的な欠陥が52あり、提案は却下された。
 ダウロが自宅に戻るとクリスマスが近づいたため、店側はもっと多くの商品を作るように迫ってきた。
 印刷会社の製造ラインをフル稼働しても出荷と同時に完売し、何千もの追加注文が待っていた。
 こうした熱狂的なゲームの噂はパーカー社にも届いていた。ダウロの申し出を断った担当者は、自らの間違いをいさぎよく認めるしかなかった。ダウロは、条件を受け入れ契約書にサインすると、休暇を取ることにした。 』

 『 第十三の方法 「運命の相手」に出会う
 最終的には、出会いが運を左右するにしても、積極的に行動することによって、幸運と出会う可能性が高まる。
 この好例がマーガレット・ミチェルとハロルド・レイサムだ。もし二人が出会わなかったら、「風と共にさりぬ」が日の目をみることはなかったかもしれない。
 1918年、ミチェルは医者になりたくて大学に入学した。翌年、インフルエンザが大流行、ミチェルの母親がなくなった。母を失ったミチェルは、父の世話をするために一時的に帰郷することになった。
 しばらくして、彼女は大学に戻って、勉強を再開したが、いくつかの科目で落第しそうになり、ホームシックにかかり、結局、アトランタへ帰ることにした。
 その後、彼女は結婚して、離婚し、再婚した。二度目の相手は広告代理店の役員を勤めるジョン・マーシュだった。
 子供はおらず、まだ二十代だったこともあり、彼女はそのエネルギーを執筆活動に注ぎ込んだ、彼女の文章は魅力的で機智に富んでいた。
 やがて新聞社の記者として働くことになり、文芸関係者の集まりにもよく顔を出し、人気者になっていた。
 その後、偶然の出来事が違う方向からやってきた。交通事故である。彼女は生涯に三度の交通事故に巻き込まれることになるのだが、これが最初のものだった。

 結婚して、一年が過ぎた頃、26歳のとき、雨の中一人で運転していて、スリップ事故で、足首に重傷を負い、一年間、家から出ることができなかった。記者の仕事もあきらめざるをえなかった。

 自分で紅茶をいれるくらいの家事しかすることがなく、彼女は小説を書き始めた。
 スカーレット・オハラという女主人公が、南北戦争による度重なる困難に翻弄されながらも逞しく生きる物語だ。
 

 書き終わったのは、1929年の後半といわれれいる。おそろしいほど長大な小説で、積み上がった原稿用紙は2千枚を超えた、ところがこの作品は5年間書類綴じに押し込まれて放って置かれることになる。
 彼女は何人かの編集者に見せたが断られ諦めてしまったらしい。
 六年が過ぎる頃、一部は黄ばんできた、この小説が陽の目を見るには「運」の力が必要だった。

 幸運は、やがてマーガレットの「運命の相手」となるハロルド・レイサムという人物とともにやってきた。
 マクミラン社の副社長で編集部の責任者を務めていたレイサムは、ミッチェルが小説を書き始めてから九年後の1935年南部での出張の途中で、アトランタに立ち寄った。
 書籍の出版事業が拡大しつつあったので、南部の歴史小説を出すのにちょうどいい時期だと思っていた。
 あらかじめ何人かのスカウトを派遣して有望な作家を見つけておくように指示していたが、待っていたのは、がっかりするようなものばかりだった。
 レイサムは不機嫌になりながらホテルの部屋にもどり、仕方ないので伝手を頼って何人かに電話をかけてみた。ここでマーガレット・ミッチェルが「人の流れ」に身を置いたことで、彼女の知り合いが、レイサムの情報網に引っかったのだ。

 「彼女は何をかいているの?」 
 「何年も前に小説を書いたって話をしていたけど、よくわからないなあ‥‥」
 そこでレイサムはミッチェルにコンタクトをとり、面会を求めた。レイサムに小説のことを聞かれたミッチェルは、そんな原稿はないと答えた。それでも、お互いに気が合う相手だということに気づき、打明けて話をすることができた。
 レイサムは、小説を見せてほしいと執幼に迫った。ミッチェルは原稿の存在は認めたものの、まだ完成していなくて本にできる状態ではないと言った。

 レイサムは仕方がないので、早めにベットに入って、翌朝の列車でニューヨークに帰ろうと思っていた。そのとき部屋の電話が鳴った。マーガレットからだった。「気が変わったの」と言った彼女はホテルのロビーまで原稿を持ってきていた。

 ミッチェルとレイサムは二人して膨大な量の原稿に手をいれて、人々の心をつかんで離さない魅力的な物語に仕上げた。
 小説「風と共に去りぬ」は1936年に、千頁を超える分厚い本で、価格は三ドルだった。 』 (第196回)