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布マスク」とかけまして「森友学園や桜を見る会」と解きます。その心は?… >>>

2020年04月29日 21時45分02秒 | 社会のことなど
新型コロナウイルスの感染拡大を受け、安倍晋三首相が「最大級」と強調した108兆円の緊急経済対策は期待外れだった。目玉の現金給付は、自分の財布からお金を出すように「30万円」をPRしたが、全世帯に給付されるわけではない


▼対象は世帯主の月収が今年2~6月のいずれかで減り、年間ベースで住民税が非課税などに限られる。対象も狭く不公平感もあり、申請手続きを考えれば迅速で確実な支援とは思えない
▼臨時休校などの影響で収入減が見込まれる一人親世帯への支援も急務だ。母子家庭の支援団体は子ども1人につき3万円の支給を求めていたが、ふたを開ければ児童手当に1人当たり1万円の上乗せだった


▼一方、「アベノマスク」とやゆされている布マスク2枚の全世帯配布は、1枚200円相当で配達費用も含めて数百億円かかるという。費用対効果が疑問視される中、もっと必要なところに税金を回す手もあったはずだ


▼県内でなぞかけ名人として知られるケーシーさんに、コロナ対策についてお題を出すとこんな内容が返ってきた。「布マスク」とかけまして「森友学園や桜を見る会」と解きます。その心は「口封じに使います」▼緊急時に試されるのは、国民の命と暮らしを守る責任と覚悟。さまざまな問題を抱えた政府に、切迫した庶民の声は聞こえているだろうか。(吉川毅)




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パンツを売って下さい」 福岡市中央区の路上で男が女性に

2020年04月29日 20時01分11秒 | 事件と事故
パンツを売って下さい」 福岡市中央区の路上で男が女性に
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 福岡中央署は24日、福岡市中央区清川3丁目5番付近の路上で23日午後2時半ごろ、徒歩通行中の女性が見知らぬ男から「パンツを売って下さい」などと声をかけられたとして、メールで注意を喚起した。署によると、男は30歳くらいで身長約170センチ。黒色短髪、黒色ジャージ上下、白色マスクを着用していた。

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韓国は3歳児」と罵倒する“毒舌の美人妹”金与正の正体《金正恩死亡なら後継者に?》

2020年04月29日 19時55分06秒 | 国際情勢のことなど
金正恩が死亡したら、誰が権力を引き継ぐのか――。北朝鮮の金正恩・朝鮮労働党委員長の安否についての情報が錯綜する中、関心が集まっているのが、正恩の妹、金与正(キム・ヨジョン、31)朝鮮労働党第1副部長だ。

【画像】金正恩の妹・与正と握手した文在寅大統領が見せた表情とは?

 すでに事実上のナンバー2として君臨し、「正恩氏が万一、死亡した場合、全ての権限を与正氏に集中するという内部決定が最近行われた」(読売新聞4月14日)との報道もある。

「金与正」という女性は何者なのか。現地ジャーナリストが緊急寄稿した。

◆◆◆ 「男だったら後継者にした」と父・金正日が嘆いた
 
「彼女に口ひげがあったなら、与正を後継者にしていただろう」

 金与正について、そう語ったと報じられているのが、生前の金正日総書記だ。

 高容姫夫人との間に生まれた3人兄弟、正哲(ジョンチョル)、正恩、与正のなかで、金正日が最も高く評価していたのが、この愛娘だった。長男の正哲に対しては「女の子みたい」と評していたという。男尊女卑が根強い北朝鮮で、この評価の“逆転”は異例中の異例といっていい。

 しかし与正の素顔については、2人の兄以上に謎に包まれている。

 与正は1988年生まれで、今年31歳。彼女の若き日の経歴ではっきりしているのは、96年4月から2000年末まで、兄の金正恩とともにスイス・ベルンに留学していたことだ。

 現地では中流住宅街の3階建てアパートで兄と生活し、公立学校に通った。留学中は、少しでも体調が悪いとすぐに病院に連れて行かれるような過保護な環境で過ごしたとされる与正。バレエのレッスンを受けていたこと、アニメのイラストを描くことが趣味だったことも報じられている。当然ながら現地では金正日の娘だということは伏せられ、「チョン・スン」という仮名を名乗って暮らしていた。

 興味深いのは、スイス留学時代の兄妹の生活は、対照的だったということだ。

  与正は、兄・正恩より成績がよく、現地の学校にも馴染んでいたという。兄よりも4歳若く留学しているため、入学時に学力差が広がっておらず、人種差別もあまり受けずに済んだのがよかったのだろう。


ちなみに、ベルン時代の2人の面倒を見ていたのが、当時の駐ジュネーヴ代表団公使で、金正恩体制で外相などを務めた李洙ヨン (リ・スヨン)前党副委員長だ。李洙ヨンはこの経歴のおかげだろうが、金正恩が権力を継承した後、出世街道を行くことになる。  正恩のヘアスタイルもコーディネート
 
 スイスから北朝鮮に戻った与正を待ち受けていたのは、金正日体制の下、“お姫様教育”だった。

 北朝鮮最高峰の大学・金日成総合大学に入学したのは、2007年ごろ。物理学を専攻したというが、一般的な4年の学部課程ではない。与正のために新設された6カ月間の「速成課程」への入学だった。いわば、与正に箔をつけるための教育課程なのだ。

 そして2011年12月、父・金正日の葬儀の場に姿を現す。これが、与正が公の場に出た最初の場面だ。

 金正恩体制になると、2012年に国防委員会の行事課長に就任。「行事課」とは、兄の金正恩の現地視察や行事などの日程すべてを密着しながら管理する部署だ。与正のアドバイスは日程だけに止まらず、なにかと話題となる正恩のヘアスタイルから、眼鏡のフレームまでコーディネートしていると言われている。

 このように韓国においても、与正の幼少期の「子どもらしい」エピソードはほとんど伝わってこない。

  数少ない報道の一つが、与正が3歳くらいだった1991年5月、母親である高容姫や兄・正恩とともに東京ディズニーランドを訪れていたというものだ。2012年には、正恩の指示で結成された「モランボン楽団」が、洋楽にあわせてミッキーやミニーを思わせる着ぐるみが登場する“ディズニーもどき”の公演を行っている。これも、2人の兄妹の思い出から発案されたものなのかもしれない。
笑顔の“外交デビュー”となった平昌五輪
 
 彼女の“外交デビュー”は2年前の2018年2月、平昌五輪の開会式のための韓国訪問だった。

 当時、長距離ミサイル問題などでアメリカと激しく対立していた北朝鮮。この重要な局面で、与正は平昌五輪の開会式に出席する代表団の特使として韓国に現れたのだ。肩書きは「党中央委員会第1副部長」だ。

 到着してまもなく、象徴的なシーンがあった。舞台は、韓国側の関係者が待ち構えていた仁川空港の貴賓室。

 専用機を降りて、貴賓室に北朝鮮訪問団の一行が入ってくると、北朝鮮の憲法上の国のトップである金永南(キム・ヨンナム)最高人民会議常任委員長が中央の上席を与正に譲って、先に座るように勧めたのだ。2人の年齢差は60歳以上。与正が「北のナンバー2」であることを内外に示したのである。

  金一族で初めてソウルと大統領府を訪れることになった与正は、文大統領への表敬訪問の席でも、ナンバー2の振る舞いが続いた。文大統領に金正恩からの「親書」を伝達したのも、金永南ではなく与正だった。さらには、彼女の口から文大統領に「大統領と早期に会う用意があります。都合の良いときに来てください」と訪朝を要請した。


2泊3日の短い日程の間、韓国国内の全てのメディアは彼女の一挙手一投足に注目。五輪の開会式では、ペンス米副大統領、安倍首相とともに貴賓席に招待され、韓米日首脳のすぐ後ろの席から北朝鮮選手団に笑顔で手を振る様子が各国メディアに取り上げられた。

 報道陣の前ではほとんど発言はしなかったものの、文在寅大統領との会話のいくつかは明らかになっている。

 開会式翌日に文大統領と会談した際には、文大統領から「寒くなかったですか?」と尋ねられ、「文大統領に気を遣っていただき、不自由なく過ごしました」と答えたという。さらに滞在中の昼食会でも、与正は笑顔で「大統領が統一の新しい幕を開く主役になって後世に記憶される姿を打ち立てられることを願います」と終始、文大統領をおだてるかのようだった。

 これに気を良くしたのか、文大統領は2カ月後の南北首脳会談の席上で、金正恩と与正に向かって、このように与正を持ち上げた。

「金与正副部長は南ではスターです。ファンクラブもできたかもしれません」

 確かに、文大統領ほどではないにせよ、多くの韓国国民が、清楚なイメージで笑顔を振りまく与正の姿を好意的に受け止めた。

 ちなみに、彼女の訪韓にはこんな逸話が残っている。

 彼女はソウルの「グランド・ウォーカーヒル・ホテル」に宿泊したとされるが、退出後の部屋には彼女の髪の毛1本落ちていなかった、というのだ。DNA鑑定に使われることで、兄の正恩氏の体質や病気などが推察されるのを避けたのではないかとされている。 知られざる与正の「金正恩叱責事件」
 
 しかし、「お姫さまの与正」「笑顔の与正」は表の顔でしかない。

 注目すべきエピソードがある。彼女の夫は、対外的に元首格とされる最高人民会議常任委員長、崔竜海(チェ・リョンヘ)朝鮮労働党副委員長の次男であると言われている。ところが、その崔竜海をめぐって事件が起こっているのだ。

 2015年10月30日、金正恩が主催した労働党中央委員会政治局委員会議に出席した崔竜海は、その後のパーティーで酒に酔った金正恩から中国との外交問題や発電所の事故などについて、他の幹部の目の前で「党の責任者として良心があるのか!」と強く叱責されたという。崔竜海はストレスと怒りのあまり、帰宅途中の車中で脳溢血を起こしてしまった。

 この直後、金正恩のもとを訪れた与正は、こう言い放ったという。

「あなたは相手が倒れるまで懲らしめなければ、自分の苛立ちを抑えることが出来ないのか」

 兄に対して強く抗議し、遠慮なしに物を言う与正は、その後「舅の看病」を理由にしばらく党の業務をボイコットしたという。

  2016年から北朝鮮の党中央委員に選ばれた彼女は、その立場をはっきりとさせてきた。ハノイまでの列車での移動中、ホームでタバコを吸う金正恩の隣には灰皿を持った与正が寄り添った。平壌で行われる軍事パレードでも、前日に彼女が兄の動線を確認し、正恩に近づく者にはボールペン一本持たせなかったという。

 北朝鮮消息筋はこう語る。

「金与正は、『白頭山血統』と呼ばれるロイヤルファミリー・金一族の血統を継ぐ一方、積極性や判断力、処世術などの高い政治的センスを兼ね備えた存在だ。いまでは、金正恩も信頼を置いている。これまでの2回の南北会談に加え、シンガポールとベトナムで行われた米朝会談にもすべて同席しているのだから。どの会談でも、金正恩は口調を整えるとき、言い淀むときには、いつも与正を見る。妹が横にいることで、彼は精神的に安定するのだろう」

 今年に入って、さらに存在感が増しつつある。3月には、北朝鮮のミサイル発射実験に対して深い憂慮を表明し、発射中止を求めた韓国大統領府に対して、金与正名義の談話を発表した。談話には、次のような言葉が並んだ。

「低能な考えで驚愕する」
「よその軍事訓練に口出しするとは居直りの極致だ」
「言葉ひとつひとつが完璧にバカだ」
「3歳児と大して違うようにはみえない」

 首脳会談で笑顔を振りまく清楚な姿からは想像もつかない、汚い言葉遣い。韓国に対しても融和的な人物と評価されていた彼女が、韓国を批判する声明を出したのは初めてのこと。韓国国内でも、与正をどのように評価して良いのかと、動揺が広がっている。 彼女のライバルはあの男?
 
 金正恩委員長の健康状態は依然として明らかになっていないが、金正恩に代わる人物は、現時点ではその血筋、能力からいって金与正しかいない。

 しかし、党や軍部の幹部らは、30歳を超えたばかりの女性である与正を後継者として受け入れるのだろうか。

 元駐英北朝鮮大使館公使だった太永浩(テ・ヨンホ)氏は、「現在の北朝鮮体制を支える60、70代の勢力にとって、金与正は若造だ」として、金平一(キム・ピョンイル)の存在を指摘している。

 金平一氏は、金正日の腹違いの弟で66歳。金正恩氏の叔父にあたる。彼は金正日総書記との権力争いの結果、1979年以降ハンガリー・ブルガリアなど海外公館を転々とさせられていたが、昨年、チェコ大使勤務を最後に40年ぶりに平壌に召還された。

 金正恩が北朝鮮国内で、彼を管理するために呼び寄せたものとみられ、いまは軟禁状態にあるとされる。

  今後、軍部などが金与正を排除し、可能性は低いとはいえ金平一を擁立するような事態になるのか。逆に、そのような動きを察知した金与正が金平一の排除に動くことになるのか。北朝鮮の内部情勢は、今後も予断を許さない。


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としまえん閉園。デート、子守り、アルバイト…それぞれの想い

2020年04月29日 17時30分40秒 | 日々の出来事



西武グループが運営する「としまえん」が閉園することになった。跡地には新たに映画『ハリー・ポッター』のテーマパークが2023年春をめどにオープンすることになり、今年以降段階的に、プール・庭の湯・遊園地などが閉鎖予定である。 
としまえんのあじさい号(Photo by photolibrary)



 100周年を手前に発表されたとしまえんの閉園。練馬区民のみならず、東京都を代表するテーマパークだけにショックを受けた人も多いだろう。家族や恋人と、友達と。また、小さい頃の思い出として、このニュースを感慨深く捉えている人もいるはずだ。そこで、としまえんでのエピソードと閉園に対する気持ちを聞いた。 
元スタッフが回顧する意外な仕事内容「ラブラブのカップルに…」

  練馬区にある氷川台からずーっと続く石神井川沿いの綺麗な桜並木。それを眺めながら自転車を漕いでいたらとしまえんに着いた……としまえんとの出会いをこう話すのは、吉田恵子さん(仮名・32歳)。彼女は学生時代、スタッフとして働いていた経験がある。 「その景色が忘れられず、としまえんで働きたいと思いました。決めたら行動に移すのに躊躇しない性格なので、としまえんの中にある『庭の湯』というリラクゼーション施設に応募。学生時代はそこでアルバイトをしていました」  

庭の湯は、天然温泉をはじめ、サウナ、お食事処などが充実した施設だ。夏になるととしまえんのプール帰りに若者たちが庭の湯に流れてくることも多く、とにかく働くことが楽しかったという。 「私が特に印象に残っている仕事は、プールゾーンでラブラブしているカップルがいると、『過度な密着はご遠慮ください』と声をかけることでした(笑)」  デートスポットでも有名なとしまえん。アルバイトスタッフの意外な仕事内容に吉田さんは思い出し笑いする。  としまえんで働く人たちにとっても、閉園の衝撃は大きいはずだ。学生のアルバイトスタッフにとっては、青春の思い出エピソードとして心に刻まれているに違いない。 

初めて付き合った彼氏との初デートがとしまえんだった

夜のとしまえん(Photo by photolibrary)

 今から約30年前の高校2年生の春休み。初めて付き合った彼氏との初めてのデートがとしまえんだったと話してくれたのは、沢田はるかさん(仮名・40代)。  当時は、今のように携帯もスマホもない時代。としまえんの行き方をはじめ、下調べするところからデートはスタート。 「準備をするところからデートって感じでした。ホントに初々し過ぎて恥ずかしくなります。当日は、お互い最寄駅が違うから待ち合わせは電車の中でした」 

 しかし、そこで思いもよらない出来事が起きた。彼が電車に乗り遅れてしまい、行き違ってしまったのだ。もちろん、スマホなんてないから連絡も取れない状況に……。 

「でも、その時代は、そういう時代なりに危機管理はできているわけです。次の駅で降りて、乗ってくる電車を待って、なんとか無事に合流しました。そして、いざとしまえんに。ジェットコースターに乗って叫んだり、グルグルまわる円盤のような乗り物に乗って彼のメガネが落ちるというアクシデントに見舞われたり、見知らぬ小学生と歩いていくお化け屋敷で脅かし合ったり。マジックハウスの鏡に激突もしました」  その後、2人は夜景を見ながら……

という甘い展開にはならなかったというが、その時はただただ楽しくて、一緒にいる空間がキラキラしていたと話す沢田さん。そんな彼女は、今回のとしまえん閉園のニュースをどう感じているのだろうか。 「悲しいかどうかというと、正直特に何も感じていません。でも、今まで入ったどのお化け屋敷よりもとしまえんのライドタイプのお化け屋敷が1番怖くて楽しかった気がします。閉園しても、あの時の楽しかったこと、輝いていた時間は私の中でちゃんと残っていますから」  沢田さんにとっても、としまえんでデートをした経験のある人たちにとっても、永遠にまぶしい思い出として残り続けるはずだ。

夏休みにプールで爆弾焼きを食べるのが好き
  練馬区在住の片桐優さん(仮名・30代)は、小学生の娘がいる主婦。近所のとしまえんに家族で行くことが多いという。 「娘の学校の友達の親子数組でとしまえんのプールに行くのが毎年の恒例行事です。思い出といえば、それが1番ですね」  片桐さんは、閉園後はどこに行こうか悩んでしまうという。一方で、娘は今どんな気持ちなのだろうか。 「娘は、プールで食べる爆弾焼きが好きで、としまえんがなくなってしまうのは寂しいと言っています。今も昔も、子どもたちにとってプールではしゃぐことって楽しいですもんね。こんな近くに大きな施設があるので、親としても便利だったんですけどね……。閉園してしまうのは仕方がないですが、新しいテーマパークも楽しみにしていますよ」 

子どもたちの成長と共に…家族の思い出が詰まった場所

豊島園駅(Photo by photolibrary)

 としまえんが近所で、「子どもたちの成長を感じさせる場所」と話してくれたのは、2歳と4歳の父親である松尾翔さん(仮名・38歳)。 「月1くらいで園内ではフリマが開催されていて、子どもが好きなおもちゃを売っているおじさんがいます。毎回のように機関車トーマスのプラレールを買い、我が家にはトーマスプラレールの車両がたくさん集まっています」   

フリマが開催される日は、入園料が200円(通常は大人1000円/子ども500円)で入れるので、お得だという。松尾さんの子どもは1歳でとしまえんデビュー。年齢を重ねるごとに乗れる乗り物も増えた。以前は怖がっていたメリーゴーランドやコーヒーカップも最近では「楽しい」と喜んで乗っているそうだ。 「としまえんには絶叫系コースターもあり、悲鳴が聞こえるコースターを見て『僕も怖くないよ! 大人になったら乗るんだ!』と張り切っていた矢先の閉園というニュースに残念な思いでした」  

もうひとつのお気に入りが、「昆虫館」だったと話す松尾さん。世界中の珍しいカブトムシやクワガタがおり、「ふれあい館」では、“カブトムシの王様”と呼ばれるヘラクレスオオカブトなどを実際に手に取って触れることができるという。大人の松尾さんも興奮するほど親子で楽しめる空間だ。 「昆虫館でも子どもの成長を感じられました。幼い頃は怖くて触れなかったのに次第に触れるようになって、最近ではカブトムシに目を輝かせています。都内にいながら男の子らしい好奇心をくすぐる、子どもたちのお気に入りの場所でした」  

暑い真夏でも、凍えるような真冬でも、としまえんは子守りをするのに便利だった。目をキラキラと輝かせてはしゃぐ子どもたちを見ながら、その成長が実感できたという。  

――としまえんは長く続いたテーマパークだけに、時代が移り変わろうと、幅広い年齢層それぞれに思い出が残っていることが分かる。特に練馬区在住の人たちにとっては、身近で遊びに行ける場所として、すっかり日常生活の一部となっていたのだ。
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コロナ禍に迷走する政治家に重なる、責任回避した特攻立案者たちの姿

2020年04月29日 17時15分47秒 | 社会のことなど
コロナ禍に迷走する政治家に重なる、責任回避した特攻立案者たちの姿


75年前の戦争を体験した高齢の元軍人のなかにさえ、「戦争中よりも閉塞感と怖さを覚える」と言う人がいる、新型コロナ感染症拡大による「コロナ禍」。これまで500名を超える戦争体験者の声をじかに聞いてきた筆者は、見えない相手との出口の見えない戦いのなか、緊急事態宣言発出の記者会見での総理の一言に、大戦中、特攻隊の成立に深く関与した将官の言葉をふと重ね合わせた。昔もいまも変わらぬ「命じられる側」と「命じる側」の共通点、そして「一言の重み」とは――。
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【写真】ソ連兵の「性接待」を命じられた乙女たちの、70年後の告白
元零戦搭乗員で特攻隊員だった小野清紀さん。4月6日死去、享年99        
 


「日本の礎になる」と死を覚悟した若者たちの一方で
 
 筆者は、戦後50年を迎えた平成7(1995)年より、25年にわたって、旧海軍の元軍人、ご遺族をはじめとする戦争体験者の取材を続けてきた。その間に会った人は1000人、インタビューした人は500人をくだらないが、戦後75年のいま、多くがすでに故人である。たとえば、平成7年、約1100名をかぞえた零戦の元搭乗員は、四半世紀を経た現在、1割に満たない数十名が存命であるにすぎない。

 今年(令和2年)に入ってからも、毎月のように訃報が届くが、特にここ2ヵ月ばかりの間に、それ以前とは明らかに状況が変わったことがある。

 新型コロナウィルス感染症の拡大、政府の緊急事態宣言発出を受け、コロナで亡くなったわけではない人までも、葬儀を家族葬ですますようになったため、縁の深かった故人との最後の別れがままならなくなったのだ。

 なかでも、かつて谷田部海軍航空隊(谷田部空・茨城県)の特攻隊員だった小野清紀(きよみち)元中尉(「生きているハチ公を見た」97歳の元特攻隊員が語る東京の原風景https://gendai.ismedia.jp/articles/-/54986)が4月6日に99歳で、同じく谷田部空の特攻隊指揮官だった香川宏三・元中尉が4月19日に95歳で、それぞれ亡くなり、告別式への参列が叶わなかったことは、いわゆるお歳に不足はないとはいえ、そして、新型コロナウィルス感染予防の観点からもやむを得ないとはいえ、故人たちとの生前の親交を思えば、断腸の思いである。

 慶應義塾大学を卒業後、飛行専修予備学生として海軍に入り、24歳で終戦を迎えた小野清紀さんは、戦争体験を顧みて、

 「ぼくは”死”というものにものすごく恐怖を抱いていたし、本心では死にたくなかった。でも、卑怯者とは言われたくない。二度、特攻志願を募られて、二度とも志願書を提出しました。昭和20年6月、全搭乗員に特攻要員となることが下命されたときは、仕方ないと思っただけで、動揺はありませんでした。

 もはや勝つ見込みがまったくなくなった特攻以降の戦争は、戦果のためというより、終戦の条件を少しでもよくするための戦いであったような気がするんですよ。我々はそのための捨て石、将来の日本の礎になるんだ、と」

 と語っている。

 海軍のエリートコースである海軍兵学校を卒業し、20歳の若さで、小野さんたち年長者も多い部下を率いる特攻隊指揮官となった香川宏三さんは、

 「まだ若かったですから、生きるの死ぬのとはあまり考えない。それよりも、特攻隊を率いて飛ぶ指揮官として、部下に恥ずかしいふるまいをしてはいけない、ガッカリさせてはいけない、人に後ろ指を指されまい、その一心で一生懸命でした。いずれ敵は本土に上陸してくるだろう。そうなればせめて敵空母と刺し違えて一矢を報いたいと思うばかりで。生き残ってしまうとは想像もしませんでした」

 との言葉を遺している。

 「日本の礎になる」――これは当時、免れられない死に直面した若者たちにとって、自らの命に意味を見出す、精いっぱいの生き方だった。「人に後ろ指を指されまい」との思いもまた、この世代の多くの日本人にとって、ごく自然な道徳律であったのだ。

 コロナ禍で外出自粛の状況が続くなか、小野さん、香川さんの取材ノートを見返しながら、当時の若者たちの純真な心意気に思いを馳せる。

 ーーひるがえって、彼らに特攻を命じた、上層部の将官たちはどうだったか。

 昭和19(1944)年10月、第一航空艦隊司令長官としてフィリピンで最初の特攻隊を出撃させた大西瀧治郎中将(のち軍令部次長)は、昭和20(1945)年8月16日未明、特攻で死なせた部下や遺族に謝罪し、世界平和を若い世代に託す遺書を遺して自刃した。なるべく長く苦しんで死ぬようにと介錯を断っての最期だった。部下に「死」を命じたことを、大西は自らの命をもって償ったのだ。

  いっぽう、第五航空艦隊司令長官として、九州から沖縄方面への特攻作戦を指揮した宇垣纒中将は、8月15日、終戦を告げる玉音放送を聞いたのちに自ら特攻機を率いて出撃、部下を道連れにしたことで、遺族はもちろん、旧海軍関係者からも強い批判を浴びている。(これには、軍令部という官衙の次官だった大西中将と違い、実戦部隊の総指揮官だった宇垣中将を一人で死なせるのは部下の恥、と擁護する声もあるにはあった)

大失態を演じても栄転できる海軍の悪習
 
 ところが、第二航空艦隊司令長官として、大西中将に続きフィリピンで特攻隊を出撃させた福留繁中将、第三航空艦隊司令長官として関東からの特攻作戦を指揮し、昭和20年8月15日、終戦を知りながら玉音放送直前に特攻隊を出撃させた寺岡謹平中将は、いずれも戦後、目に見える形で自発的に責任をとることのないまま天寿を全うしている。

 福留は、聯合艦隊参謀長を務めていた昭和19年3月31日、搭乗した飛行機が悪天候で遭難、フィリピンで抗日ゲリラの捕虜となり、重要機密書類を敵に奪われるという失態を演じた(海軍乙事件)。

 本来なら、海軍の「俘虜査問会規定」により査問にふされ、さらに軍法会議にまわされて、最高刑を死刑とする「軍機保護法」で裁かれるべきところ、海軍は、「福留一行を捕えたのは敵の正規軍ではなくゲリラであるから、捕虜にはあたらない」との妙な理屈をつけ、福留を軍法会議にかけることも、予備役に編入することもしなかった。それどころか、聯合艦隊司令部の失態を糊塗するかのように、福留を第二航空艦隊司令長官の要職に栄転させた。

 フィリピンで、大西中将と福留中将に見送られて特攻出撃し、生還した元隊員のなかには、

 「大西中将は隊員の目をじっと見て、両手で握手をした。それがいかにも心がこもっていて、長官は自分も死ぬ気で命じていることが伝わってきたものです。福留中将は隊員と視線を合わさず、握手もおざなりな感じだった」

 と回想する人もいる。「死」を命じられる極限の状況であればこそ、「命じる側」の覚悟の持ちようが、握手ひとつからも感じとれたのだ。

 シンガポールで終戦を迎えた福留は、英軍戦犯として禁錮3年の刑に服し、帰国後は防衛庁顧問などをつとめ、昭和47(1972)年、80歳で亡くなった。

 寺岡は、大西中将の前任の第一航空艦隊司令長官でもあったが、フィリピン・ダバオで来るべき米軍侵攻に備えていた昭和19年9月、見張員が暁闇の白波を敵の上陸部隊と誤認したのを確かめもせず、玉砕戦になると早合点して通信機器や暗号書、重要書類を破却し、戦わずして司令部機能を失うという醜態をさらした。

 これは、平家の大軍が水鳥の羽ばたく音を源氏の軍勢と間違えて敗走した「富士川の戦い」を思わせることから、「ダバオ水鳥事件」と呼ばれる。

 さらに、幻の敵上陸部隊に備えて、フィリピン各基地に配備していた戦闘機をセブ島へ集結させたところに敵機動部隊艦上機の奇襲を受け、それまで蓄えた虎の子の航空兵力が壊滅してしまう(セブ事件)。

 そのため、寺岡は在任わずか3ヵ月で更迭され、後任として大西中将が第一航空艦隊司令長官として着任した。大西が特攻を命じざるを得なくなったのは、すでに正攻法で戦えるだけの航空兵力がフィリピンに残っていなかったからでもあり、いわば寺岡の失策の尻ぬぐいをさせられたのだとも言える。

 にもかかわらず、帰国した寺岡はその後、第三航空艦隊司令長官として、本土防衛の第一線に返り咲いた。

 現場の将兵はつねに死と隣り合わせだが、長官や幕僚クラスとなると、失敗を犯して味方を窮地に陥れても、中央の覚えがめでたければ復活の目がある。これは、陸軍と比べリベラルとも評される海軍において、大戦中、顕著に表れた悪習だった。

 寺岡は、潜水艦乗組だった長男・恭平中尉が昭和19年11月に戦死していて、そのことには同情を禁じ得ない。戦後は旧海軍関係者の長老的存在として、昭和59(1984)年、93歳で亡くなるまで長命を保った。横浜市鶴見区の総持寺に建立された大西瀧治郎中将の墓誌は、寺岡の筆によるものである。

 ――後世の目から見て、また「命じられる側」の視点で見ても、福留、寺岡両中将は、すぐれた指揮官として評価されるべき人物ではない。ただ、せめてもの救いは、両名とも最晩年まで戦没者慰霊に尽くし、毎年10月25日、東京・芝の寺に旧海軍の関係者が集って営まれた特攻隊戦没者慰霊法要に欠かさず参列するなど、特攻で死なせた旧部下への良心の呵責を垣間見せていたことである。

  自刃した大西中将のような身の処し方はできなかったが、責任を感じていたであろうことは、さまざまな痕跡からもうかがえる。だが、特攻作戦の中枢にありながら、そんな痕跡すら残していない将官もいる。

以下はリンクで>


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