
先日用事で愛南町へ行った時、40番札所観自在寺に寄って来た。入口は普通だが、本殿は鉄筋コンクリート作りの立派なというか、貧しい物だった。どうして木ではないのか?きっと30年~40年前に建て替えたのだと思うのだが、住職が、きっとメンテナンスが簡単で維持費も安いとか思って、安易にこんな選択をしたのだろう。遍路さんも、横の木造の建物の前でお経をあげていた。私だってそうする。いかに立派であろうと、安っぽいコンクリート建築の前では、拝む気にもならない。手入れされ、大工の想いが感じられる建築の前では、自然と手を合わすだろう。

幾らボロボロになっても木の建築には何か心に響く物がある。年月とともに変化する素材は、汚くは感じない。物の経年変化は素材が生まれ、土になる過程の一つ。まだしばらくは木のお寺の方が良いと、つくずく感じた参拝だった。公共のみんなが使う施設は地産地商、自然の身近な素材を使うべきだ。掃除が大変でも、維持費が少々高くとも。それが文化だ