犬神スケキヨ~さざれ石

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新年度に思う事 脱却

2024-04-05 15:20:00 | 草莽崛起
先の大戦から79年を経過して『勝った者が正しい』と言う時代は変わってしまいました。

かつての勝った者が正しかった時代には『力』を好きな様に使って世界を我が物顔で跋扈してきた米国ですら、911の同時多発テロを経験し内向きな政策に転じてしまい、明らかに良くも悪くも戦争を利用する事が出来なくなり、その国力に翳りが見えて来ました。

それまでは『奪い合う、独占する』と言う時代から『共有』すれば良いじゃないかと言った時代へと変わり始めました。

もう現代の若者は、前時代の人間を見て『何故あれ程独占したがるのか』理解出来ないのです。

物は一つあれば良い、それをシェアすれば良いじゃないかと考えるのです。
そうなれば、一人に一つ『物』が必要ではないので、ある種の『デフレ』に突入するのです。
食えぬ時代を経て、皆が食える様になった、食える様になれば豊かになりたいと思う。
『貧しさ』こそが成長の為の資源であった時代は終わり、次世代には資源が残されていないのかもしれません。
中心と言うものを持たずに、水平の繋がりだけの世界になるのかもしれません。
水平の繋がりと言う時代に一体どう豊かになるのか?

そうなると、前時代的なリーダーシップなるものや、競争に勝った勝ち組なるものもありません。

水平な繋がりで、中心を持たず競争にも興味はない。
ただただ共有し合う事に重きを置く時代になれば、今ある人間関係だけが重要で、それを壊したいとは思いません。
人間関係が壊れるぐらいなら、恋人も必要ないし、結婚などしたいと思いません。
脱組織、脱結婚でありそれは『脱家族』と言う事でもあるのです。

そう言う時代に於いて豊かになる為には、その水平の繋がりからより多くの『賞賛』を得るしかありません。
何より『貧しさ』と言う資源がないのですから、代わりになる資源を探さなければならなくなって、それは何だとなれば『賞賛』される事で他者と差をつけるしかないのです。
賞賛なれば、今ある人間関係を破壊する事も少ないからです。
他者と軋轢を生まず『金を儲ける』には賞賛される事です。

例えば、YouTuberなどはその一つかもしれません。
自らが考えたコンテンツが賞賛されれば閲覧数が伸びて金を稼ぐ事が出来ます。
或いは、クラウドファンディングなどもそうかもしれません。
自分の企画がより多くの人々のニーズに刺されば、銀行など当てにせずとも商売の資金を集める事が出来ます。

強烈なエリートを育ててリーダーを作り、従順に黙々と働く事で稼ぐ程に、今は資源がないのです。

今何が必要か?どんなニーズがあるのか?
それを見極め『賞賛』されるアイデアを提供する事で金を儲け、それを上手く社会に還元出来れば、また人は『賞賛』と言う資源を与えてくれるのです。
ですから、今の若者は自分達より上の世代を見れば『何故そうも罵合って、奪い合いを繰り返し独占したがるのか』と考えているのです。

その上の世代と呼ばれる人間は更に上の世代に対して『何故あれ程従順なのか、個性がないのか』と考えます。

これは良し悪しではなく、そう言う教育を受けて来た世代による違いなだけで、どれかが正解と言う話しでもないのです。

例えば、アメリカなどは日本に原爆を使用しました。
アメリカ人にとって原爆は『正義』であり『正当な行為』であるのです。
そして先の大戦、対日戦、欧州戦に於いてもいわゆる第二次世界大戦だけが『良い戦争』であり、たがら原爆も正義と考えるのです。
第一次大戦などは、後のナチスの台頭を考えれば全くの失敗であり第二次世界大戦以降のアメリカの戦争もまた全く正義もなければ正解すらしていない戦争であったわけです。

その良い戦争から時代を経て、新しい世代は良い戦争などと言う意識は薄れ『原爆は悪』だと考え始めました。
戦争に勝ったと言う熱に浮かれた世代とは全く価値観が違うのです。
歴史を冷静に見直して『アレは良くない』と対日戦そのものをも否定する若者も現れているのです。

勝った者が正しいと教育された世代が21世紀を目の前にして、勝ったと言うだけでは抗い切れず苦しんで日米貿易摩擦まで引き起こしてみたけれど、時代の変化を戻せはできず。

新しい世代は、日本のアニメや漫画やゲームに夢中になり、知らぬ間に『日本的』なものが染み付いて『あの戦争』を評価し始めているのです。
古い世代は日本人など、簡単に屈服させる事が出来ると信じていても、子供達は日本のサブカルチャーや伝統文化に夢中になっている。
アメリカの次世代も親の世代を見て『何を言っているんだ』と考えるのです。
自国の歴史と文化の浅さに辟易としたりもします。
ガザを原爆で攻撃し『広島、長崎の様にすれば良い』などと発言する米国下院議員がいたりしますが、アレも前時代の化石の様なものでしょう。

同じ様ですが、日本は悪かった、日本は末代まで世界に侘びなければならないと教育されて来た世代が年を取り、その子供達は『日本はそれほど悪いのか?』と疑問に思い、自らネットを使って調べ出す。
『日本はそんなに悪くないじゃないか』と考え始める。
するとあの戦争は何だったのかと、次世代が総括を始めるのです。

勝った者が正しいと思い込んでいる世代は、今だに力と力のガチンコ勝負をやりたがります。余りにも知性のない振る舞いです。

力は知性を超えはしません。

腕力に頼って勝敗を決め、勝者こそ正しいと考えるなら、共産主義革命も、クーデターも勝てば正しいと言う事になります。

そうなれば、我々が謳歌してきた『民主主義』の敗北です。

例えば、我が国で天皇陛下始め時の為政者を皆殺しに、政権奪取なる行為をする者が現れたなら腕力勝負の勝者として正当性を認めるのか?
と、言う話しです。

日本国国民こそが正当で最高の権力者で、それ以外は認められません。
そう定めてあるのです。
それを腕力で奪取した者が正しいなどと言い出すのは民主主義の放棄に他ならないのです。

己れの考えが世に伝わらないからと『法の限界』などと言いだしたり『遵法の限界』などと宣うのは、知性の低さ知能の低さ、知識の無さを自ら吐露する愚かなアホです。

天皇陛下すら絶対に破らない『遵法』を、下品な平民如きが超えて良いなど一体何の根拠で宣うているのか、一体どの様な養育をされたのか、知能レベルの低きも低さを感じざるを得ないもんです。
法を破って得たものなどに何らの正当性もありません。

奪って得た事で建国した国が如何に苦しんでいるかなど火を見るより明らかです。

インディアンを殺しに殺して奪った土地に建国したアメリカなども、その血塗られた歴史からは逃れられません。

革命によって出来た国は、国民を殺しに殺して僅か70年で壮大なな社会実験に失敗しました。

内戦に勝利した国は、文化大革命の名の下に国民を虐殺し、鍋で煮て人肉を宴にしていた。

自らの手で王朝を倒して、国民が政治を手にした国が、今や王朝が途絶えた事を後悔し行き過ぎたリベラルにより宗教までも否定しようとする。

こんなバカな事を繰り返して来た世代を冷ややかな眼差しで見ているのが次世代なのでしょう。

我が国には幸いにして、血で建国したわけでもない。
奪って建国したわけでもない。
我が国の中心におられる御存在は『ただ祈る人』で、神話に遡っても『知る』を旨とする世界に唯一の御存在です。
その御存在が今も続いているのです。

時代が変化しフェーズが変わって行く世界だからこそ『変わらない、変えてはならない』ものを、しっかりと見据えてそれを言語化し定義化することが必要なのではないでしょうか?
例えば、各々の家や各々の地域によって勝手に解釈されてしまい散逸されかかっていたものをしっかりと精査し、編纂し言語化し再定義されたものが『古事記』であると私は考えます。
その古事記を1300年以上も我々は日本の根っことして使い続け、使い倒している事実を見れば定義化することの重要性が如何に肝要であるか容易に理解出来るのではないでしょうか。

不安定な世界情勢や、流行病、経済的負担などの理由から過度に社会不安を感じてしまいかねない現代だからこそ皆でしっかりと考えなければなりません。
社会不安から来る『モヤモヤ』した気持ちを見つめて、本質を考え見抜く力をつけなければ精神を病んでしまいます。

或いは『何とかしなければ』と考え、自分がなんとかしなければ世の中が狂ってしまう!転じて『自分が出来る』と考えだす輩も現れます。こんな人間も病んでいます。
単なる無知蒙昧から来る自意識過剰を勘違いし、余計な事をやり出すのです。
いわゆる『活動的なバカ』で、最も始末の悪い奴です。身近にいれば直ぐに付き合いをやめる事をお勧めいたします。

人間一人に社会を変える力など殆どありません。『自分が動いたから、世の中がこうなった』と真顔で言い出す奴はヤベー奴でしかありません。

確かに小さなコミュニティなら影響を与える事は出来るかもしれませんが、あくまで限定的な話しです。

見ず知らずの人の死が、殆ど自分に影響を及ぼす事がないのを見れば理解出来るはず。

例えば、政治家など本人の能力が高くとも個人の力など大した事はありません。
政治家の力の源泉は民主主義の手続きを経て獲得した『票』にあるのです。

つまりは、賛同者を集めて大きな世論のうねりとなり、そのうねりが票と言う『力』を与えているのです。
正に『評価』経済の様な話しです。

フェーズ(場面)の変化、時代の変化を素早く掴み、問題提起をし、必要な権力を行使して問題を解決する。
憲法にも示された当たり前の行動です。

例えば、デモでも街宣でも憲法に記された権利を行使して問題提起し、それが世論喚起となったなら必要な権力を行使していかなければ、世の中は変化しません。

右だろうが左だろうが、バカ騒ぎの様なデモをやる、そのデモにカウンターをかける等と言うものでは権力を行使出来ていません。
あくまで『問題提起』でしかありません。
せっかく問題提起出来たのに解決する手段として、またデモ活動をやる。
何がしたいのかさっぱりわかりません。
権利を行使したら、次は解決の手段です。

例えば、岸内閣での日米安保改定に反対を唱える人々が100万人近く国会周辺に集まり抗議活動をやっていましたが、全く何の効果もなく安保は改定されました。
簡単な話しです。権力を行使していないからです。

我々の権力は、投票と言う行動で代理人を決め立法府へ送る事と共に、その代理人に代理人たる仕事をさせる事です。
先の岸内閣での安保改定に反対なら、代理人を突き上げて仕事をさせるか、自ら代理人となって国会の場で改定を阻止する事です。
安保改定後、自由民主党は選挙で大勝しています。安保改定に『是』と言う答えを国民は出したのです。
これこそ民主主義で正しい権力の行使です。

あいつが悪い、国が悪い、政府が悪い、国会議員が悪いと、とにかく悪者を決めて文句を言って己れの溜飲を下げるだけでは何も変わりはしません。
テレビに向かって文句言っていたらいつの間にか世の中良くなって来たとか言う話しを聞いた事はありません。

そんな事をやっている間に権力の使い方を知っている者にあなたの金を取られたりしているのです。
己れの溜飲を下げると言うくだらない事に興じている間にも、あなたの懐に手を入れ、あなたが血を流して稼いだ金を掴み金よろしく奪っているのです。

あなたが何もしないでいれば『安定財源』と宣うてあなたの金を懐からせっせと抜いていくのです。

年明けの国会では年度末で、来年度の予算審議があります。
その予算審議でアホの野党は悪者を見つけては上げへつらい吊るし上げをやって、国民の溜飲を下げると言うだけのくだらない事を繰り返し、サラッと与党の予算案がほぼ満額で通過してしまい、よくよく見ると増税なんて事になっている。

権力を行使する者にとって、バカで従順な消費者こそありがたい存在です。

自己顕示欲や独善に駆られたバカの口車に乗って、ギャーギャー騒いでいる間に不利益を被っても後の祭りです。

例えば、経団連などの連中は『権力』をどう行使したら良いか知っている。
だから、移民も消費増税もやろうとしているのです。
春闘満額回答で溜飲を下げられている間に粛々と増税も移民も決められてしまいます。

賢い消費者でなければならない。

事の本質を見極め、自ら一応の結論を導き出し問題提起をし、仲間を増やして権力を行使しなければ、あなたは懐から金を奪われ続け、拉致被害者は取り返せず、奪われた国土は奪われたまま。
我が国の、我々の資源を他者に盗られ続けても何も出来ず。
ただ空に向かって文句を言う愚民です。















祈りの力

2024-01-30 17:16:00 | 草莽崛起
間もなく、今や『建国記念日』と言われる二月十一日がやって来ます。

ある意味『建国記念日』でも間違いとは言えないのかもわかりませんが正確には『紀元節』です。

我々日本人には大切なオリジナルのカレンダーがあります。
それは西暦より660年も前に紀元を持つオリジナルのカレンダーです。

西暦はキリストが生まれた年を起点としているのに対して、我々の暦は初代神武天皇が大和の地で即位した日を紀元としているのです。

西暦がキリストの誕生であるのに、我々は即位された年であると言う事が日本人の根っこを表しているのと同時に、我々日本人の宗教観、そして神々を表す大切な事柄であるのです。
元旦の能登半島地震を始め、我が国は災害の多い国です。
その荒々しい自然と付き合って生きて来た日本人の根幹は何か?
そこに思いを致す為にも非常に重要な日であるのが『紀元節』です。
このオリジナルカレンダーを『皇紀』と呼ぶ事は賢明な皆さんならご存知のはず。

つまり我々は西暦より660年長い皇紀を持ち、間もなく2684年を迎えようとしているのです。

我々の神々は、西洋の神とは違います。
つまりGODは我々の神々ではありません。
我々の神々はspiritなのです。
だから、神武天皇が誕生した日を紀元とせず即位された日を紀元としているのです。

その神武天皇は神話と地続きの系譜を持ち、神の末裔であっても人です。
現人神とは神々の性質を持った人と言う事です。
そしてその現人神は何をするかと言えば、大御宝である我々日本国民の安寧と幸福を一身に祈る人です。


これを天皇の御本務と言います。
天皇と言う存在は我々が暮らす祖国日本と日本国民の為に四方神々に祈るのです。

この祈りのパワーは絶大なもので、祈ることで『日本』と言う国は2000年を超えて存在しているのです。
一つの王朝がこれほど長く続く国は、我が祖国をおいて他に存在しません。

それ程、祈りのパワーは絶大だと言う証拠です!

そして、天皇だけではなく我々日本人も祈ることで過去から現在まで、この日本と言う国を発展させて来たのです。



『いただきます』と言って手を合わせる事。
『お願い』と言って手を合わせる事。
『ごめんなさい』と言って手を合わせる事。

全て祈りです。

大切な人の無事を祈る。
我が子の成長を祈る。

全て祈りです。

この絶大な祈りのパワーを世界は恐れているのです。

最も恐れたのは、米国であったのかもしれません。
だからこそ、占領統治政策で皇統が途絶える様な政策を押し付け、神道と言うspiritを排除しようとしたのではないでしょうか。

祈りによる、国民と天皇との強い結び付きを引き剥がし、戦後教育で我々日本人から『祈り』を奪ったのです。

祈ることを忘れた日本人は、例えば初詣などの本来の意味を忘れ、更に我々の大切なオリジナルカレンダーも忘れてしまった。
そうなってしまった日本はどうなってしまったか。

親が子を殺し、子が親を殺し、同じ学舎の仲間を自殺に追い込み。
人を蹴落しても自分が得をすれば良いと利己的に生きる。
拝金主義よろしく、金持ちを『勝ち組』と賞賛する始末。

本来、慎ましやかだが他者の為に祈る人を『良い人』と考えて来た日本人はどこに行ってしまったのでしょうか。

先の大戦を見ても『殆どは病気と飢餓で死んだ、犬死にだ』と言う始末。
こんな考えは全く物事の本質が見えていないバカの論理です。
そこには後世への『祈り』があったのです。

戦地から生き延びた人は『食う物が無くなる程酷い状態だから戦争になったのだ。それぐらい物がなかった。戦争しなければ子供達は飢えて死んだ。』と仰る方もいる。

戦後の僅か数十年を生きた程度のアホが不勉強に祖国が何故これ程長きに渡り続いているかなど理解すらしない。
いや、理解する能力すらない。

そんな知能の低い、下品極まりない連中が『祈り』の力など理解できるはずがない。
だから皇統を否定し、皇紀を否定するのです。

仁徳天皇『民の竈』に代表する、我々と天皇と言う御存在との結びつき。

そこには『祈る』と言う行為があるのです。

今般の能登半島地震に被災した日本人に対しても『早く日常を取り戻し、この苦境から立ち直り癒される』ことを一心に祈ること。

政治、経済、安全保障や教育を考える事も大切ではありますが、先ずは我々の祖国と我々民族が何故、世界にも稀な長い歴史を紡いでいるのかを知ることです。

我々日本人が忘れた『祈り』の力を取り戻さねば民族は途絶えてしまうのではないでしょうか?



国民と言う主権者の主たる権利

2023-11-29 17:07:00 | 草莽崛起
さて本年令和5年、西暦2023年、皇紀2683年も終わりを迎え様としています。
本年中の解散も無くなり、選挙はありません。
年始は通常国会にて予算審議があり、その後臨時国会開催で冒頭解散か、或いは岸田下ろしの末に総裁選があり、後に解散か。
政治は生ものですから、どうなるか刮目せねばなりません。

相変わらず若年層の政治離れが問題視されています。投票率の低さは若年層で顕著に現れているのは事実です。
その為に政治の主体が投票率の高い高齢者層に対して偏っていたりして、高齢化する我が国の負担が若年層や現役世代に対して皺寄せされると言う状態を招いています。

若い世代が投票と言う意思表示をしない事には、このスパイラルから脱する事は難しいのです。
投票と言う意思表示が如何に大切かと言う事を表す話しがあります。

ルバング島で終戦後も一人戦い続けた小野田寛郎さんのお話しです。
小野田さんは晩年、知の巨匠渡部昇一教授のインタビューでこう述べています。

『私は帰国して皆さんから、軍国主義だの人殺しだのと罵られました。しかし私が戦争に行ったのは二十歳です。行けと命令されたなら軍人ですから従います。しかし同時二十歳だった私に選挙権はありません。選挙権がある国民が選んだ政治家が戦争を選択し、我々に命令したのです。私は投票していない』

言葉は違いますが、この様な趣旨の話しをされていました。
同時、投票する権利もなかった若者に戦地へ赴けと命令したのは投票する権利のあった者達であると言う事です。

小野田さんのエピソードが、投票と言う意思表示の大切さを物語っているのではないでしょうか?
時は戦前ですし、旧憲法下であった事を考慮してもこれは大切な話しだと思います。

確かに若者が政治に無関心であったとしても、そうそう命の危険があるわけではないのかもしれません。そうであるならば政治に関心も持たず投票に行かなくても良い程に我が国は素晴らしいと言う見方も出来ます。

しかし、先の小野田さんのエピソードにもあるように自分が知らないところで知らない間に様々な事が決まってしまうと言う事態が起きてしまいます。
決まった事に文句を言っても後の祭りです。
そもそも、後の祭りで大騒ぎするのは民主主義の基本にも反します。
だから、皆さましっかりと意思表示をしましょう!と様々な分野の方々が、様々なメディアを通じたりして訴えているわけです。

他方で、この様な意見もあります。
『投票を義務化すれば良い』
と言う様な意見です。

投票を義務化すれば確実に投票率は上がります。間違いなく皆、意思表示をせねばならなくなります。
間違いなく国民の意思は示されるでしょう。

一見、正論にも感じますが...
果たしてどうなんでしょうか?

確かに、投票を義務化し更には投票しなければ罰金を課すと言う国家も存在します。
しかしその様な国家とはどの様な国政をやる国なのでしょうか。


意外と多いとは思いますが。
さてこれらの国では民主主義が完備なのか?と考えます。

そもそも選挙とは予め多数意見を決める民主主義の大切な手続きです。
多数意見を獲得した者が、これに基づき国民の代理人として政(まつりごと)を行うのです。少数意見者の代理人は如何に多数意見に少数意見を盛り込むか。
これが議会であり政治です。

例えば、今般補正予算で政権与党はガソリンのトリガー凍結解除を上げました。
野党である国民民主党はこれに賛成に回りました。
国民民主党は野党ですから少数意見です。
この政党が2年前からトリガー凍結解除を掲げていました。
その少数意見を多数意見が受け入れたのですから『賛成』に回るのは当たり前の話しです。
これを『岸田政権を利する行為だ』と批判する立憲民主党は政治の基本がわかっていないと言えるでしょう。

そして多数意見、少数意見どちらにしてもそれらを選び決めるのが国民たる主権者です。
それが投票行動です。

そして生存権や幸福追求権などの自然権を除けば主権者にとって最も重要な権利であるわけです。

そしてこの『権利』であると言う事が、我が国の民主主義に於いて最も重要な事です。

投票行動を義務化するならば、主権者にとって最も重要な『権利』をお上に渡すと言う事です。
我々の権利は憲法で保証されています。

この投票行動が権利であると言う事が民主主義に於いて最も重要であると考えるからです。

この権利を行使するか否かは、あなたの自由なのです。
誰に投票するかはあなたの自由なのです。

自由主義、民主主義、法の支配は近代国家に於いて最も重要な主義です。

その自由な権利を易々と国家に渡すなど私は大反対です。

例えば、投票を義務化すれば国民は政に関心を持たざるを得ないでしょう。
当然、投票率も上がる。
その事により政治は変わるかもしれません。
しかし、そう仰る方々の前提は何なのか?

恐らくは、今現在の日本である事を前提としているからでしょう。

義務化された時点で、その大前提は崩れてしまうのではないでしょうか。

必ず投票しなければいけないとなると、国民の政治への関心が高まるのか?
恐らくはたいして変わらないでしょう。
関心を持たない国民の投票行動はポピュリズムに走る政治家に人気が集中するでしょう。

誰に入れたらよいかわからない人、或いは関心のない国民は義務だから仕方ないとなり酷い場合は一票を『金』に代える人も出るでしょう。
あからさまに『金』で票を買う候補者も出ることになります。当然です、利害が一致するからです。

また、プーチンや習近平或いはヒトラーやムッソリーニの様な独裁者も出るかもしれません。恐怖や抑圧で有権者を縛り付けても一票は一票です。

はたまた、認知症など患って老人ホームにおられる高齢者の投票はどうするのでしょうか?

意思疎通も図れない方々にも義務を課すならば、どの様に投票行動を取らせるのでしょうか?
誰かが代筆するのでしょうか?代筆者が勝手に候補者の名前を書き込めばどうなるでしょう。
また、その様な高齢者を投票から排除するならば、これは国家による『選別』で人権侵害極まりない民主主義の冒涜です。

この投票行動が『権利』であると言う事が重要な事だと少し考えれば理解できるはずです。

認知症を患っておられる高齢者も、体にハンデキャップがあり実際の投票行動が中々に難しい方々も選別や排除をしない。
これが『権利』である事の重要性です。

投票したいと思う候補者がおらず棄権する事も『権利』です。

多数意見に従うと白紙委任を選択する事も『権利』です。

この人なら!と一票投じることも全て憲法に保証された、あなたの権利です。

その権利を自ら放棄するのでしょうか?

投票率が上がれば、確かに国は変わるでしょう。

平成21年(2009年)、衆議院選挙にて近年にはない投票率69.28%と言う高い投票率でした。
民主党政権誕生の時です。

確かに政権交代が起き、国は変わりました。
悪夢の3年3か月の始まりです。
その政権時に起きたのが、東日本大震災です。
自民党にお灸を据えるとポピュリズムに走った国民の選択は悪夢の始まりでした。

義務化すれば国民の政治への関心が高まるのか?殆ど影響はないでしょう。

いい歳した人間が、親の収入や年金をアテにして『働いたら負け』とばかりに一切勤労する事なく、ニート等と横文字で呼ばれるアホがいますが、労働が義務付けられているのに働いて収入を得ると言う事に関心はありません。

ならば義務化したところで政治への関心が高まる等と言うのは幻想ではないでしょうか。

むしろ投票が義務化され、罰則まで設けられたなら、とにかく投票行動を取らせる国民は誰かに1票を投じなければならなくなります。
そうなれば誰に投票すれば良いかわかりません。そこを突いてどうしようもないアホで無能だが知名度は高く、投票迷子の人々の票が取れる人間を候補者に立てるでしょう。

そんな無能が議会に行けば、益々政治は混迷を極めます。

そんな状態が続いていけば、国民は投票には行くが『白票』を投じる事になる。
もうカオス状態です。

そして遂には投票そのものを忌避する様になり、誰か代表で投票すればよい等と考え出すでしょう。
そうなれば、最早民主主義は瓦解します。
独裁を目論む連中の思う壺。
外国勢力が我が国の政治に入り放題。
沖縄知事選挙を見れば理解出来るでしょう。

また『権利』であるが故に、その裏表として責任の所在も示しているのです。
政治の最終的な責任者は主権者たる国民です。

自らの自由な意思で決める事が出来るのが『権利』であり、意思表明として『行使』しているのです。だから最終責任者でもある。
間違った選択をしたなら、その責任者として自由な意思により修正する。

重い税や社会保障費、儘ならぬ政府の経済政策に耐えて、日本国民として義務を果たして日々皆苦しみ生きています。

その中で、これ以上生殺与奪の権利を国にくれてやるつもりは毛頭ありません。

それほどに『投票』の『権利』は重要なのです。

生殺与奪権を他人に預けない!委ねない!他者に奪われない為にしっかりと自らの権利を行使する事で、課せられた義務を果たす。

義務と権利の当たり前の見方です。

義務を果たしたから権利が与えられるのではありません。

我々は義務を果たす為に権利を行使しているのです!

人類の長い歩みの中で、我々は自ら『権利』を獲得したのです。

さあ我々の権利を行使して、代理人に国民の為に働け!お前は国民に対して職責としての義務を果たせと迫ろうではありませんか!








戦争を選択する世界の常識

2023-09-11 13:06:00 | 草莽崛起
前回のこの地味ブログでも問題提起しましたが、国際紛争を解決する手段として戦争を選択する事に何らの問題はありません。
むしろ戦争を選択肢から除外する事の危険性についても問題提起したつもりです。

世界を見渡せば、戦争を選択する国が沢山あります。
それは抵抗もせず白旗を上げる事の危険性をよく知っているからです。

我々日本人もよく知る、チベットやウイグルの悲劇を見れば明らかではあります。

我が国も対米戦争に敗北し、占領政策を受けて来ました。
米国による占領政策では、日本人が長らく大切にして来た文化や伝統を蔑ろにする酷い占領政策であったにも関わらず、現代日本人はその事をあまり考えなくなりました。

何より、いずれ皇統が先細る事を考え沢山あった宮家を廃止させたのですから。
しかし現代日本人はそんな事を知りません。

また宮中祭祀や暦、伝統に根差した祝祭日の名称まで変えさせたのです。

それでも國體は断絶する事なく、我々は占領されたにもかかわらずアメリカ人にはなっていません、我々は今も日本人です。

それは米国による日本の占領政策が世界の基準とは違ったからです。
東西冷戦を考えれば容易に理解できるでしょう。
世界は民主主義と非民主主義との対立にすぐさま以降した事もあり、米国としても日本の独立や対共産主義の最前線としての日本が必要であった事もあります。

『米国の占領政策は稀に見る優しいものであった』と言う人もいます。
確かにそうであったかもしれません。

戦前の白人による植民地・占領政策と言えば、それは酷いものです。
被占領国民に人権などなく、まともな教育はなく優秀な若者は将来自分達に刃向かわぬ様に、手首を切り落としたり、幽閉したりと凄まじいものでした。

現在のチベットでも、人権無視の政策を受けており、ウィグル等でもウイグル人は臓器を抜かれたり酷いものです。

占領政策とはそれ程に凄まじいものなのです。

例えば、ポーランドやフィンランドなどもその歴史を見れば常に『戦争』を選択して来ました。

ポーランドもドイツやソ連に侵略を受け続ける歴史であったわけです。
それでも、ソ連に対して『戦争』と言う手段を選択して来ました。
それは何故かと考えれば、ポーランド人はこう言うのです。

『占領政策の酷さを考えれば、戦争する方が随分と良い』

世界の真実がこの言葉から理解できます。

凄まじいまでの占領政策に比べれば、戦争を選択して国民に犠牲者が出る方がマシだと言う事です。
だから負けても負けても戦争を選択するのです。徹底的に抵抗するのです。
負けて占領されても、国家民族としての火を絶やさなければ必ずや再起出来るからです。

ポーランドにしてもフィンランドにしても戦争には弱い。
フィンランドなど先の大戦では、枢軸国側として敗戦しています。
しかし、戦争に強くないからこそ負けた時どうするべきかをよく心得ているのです。
ですから、敗戦後は自分達で敗戦の裁判をサッサとやってしまい、当時の戦争主導者を自分達でサッと裁いてしまいました。
だから我々が受けた『東京裁判』やドイツに対する『ニュルンベルク裁判』の様な仕返しを受けていません。

それは後の占領政策が酷いと知っているからです。

我々、日本人が受けた占領政策は世界的に見ても珍しいのです。
その珍しい占領政策が世界の占領政策だと間違った思い込みをしているのです。

本来の占領政策は『自決権』を奪われ、人権もなく、民族は浄化されてしまうのです。
とは言え、我々もジワジワと首を絞められる占領政策を受けてはいます。
だからこそ現在の皇統に対して女系だ男系だと、訳のわからない話しが出て来ていたりするのですが...

ともかく、たった7年の占領政策、沖縄にしても平和裏に返還された事は非常に珍しい事ですが、それには沢山の日本人が後の日本の為に血を流したからである事は理解出来るはずです。
先述の通り、占領政策よりマシな戦争と言う選択を考えれば僅か7年で占領を解くほか米国に選択はなかったのではないかと思います。

そしてよく考えておかなければならない事は、何も米国の占領政策が優しかった等と言う話しではなく広島・長崎に落とした原爆以上に酷い占領など存在しないと言うだけの話しであって、何も優しい訳ではなく、東京裁判で石原莞爾が証言した通りに戦後僅かの時間で米国自身が自らの振る舞いに苦しみ出したと言うだけの話しです。

世界の占領政策や植民地支配とはそれ程凄まじいものだと、現代日本人の我々が全く理解出来ていないと言う現実。

何故、ウクライナがアレ程の抵抗をするのかと言うのはポーランドやフィンランドが言う様に『占領政策』より『戦争』の方がマシだと知っているからです。

かつてウクライナはソ連の政策により、数百万人の餓死者を出すと言う経験をしているのですから当然と言えば当然です。

台湾にしても、世界の歴史を知っているのですから今現在最も効果的であろう手段で、支那からの侵略に抵抗するのは辺り前です。

我が国も、例えば沖縄県など支那から侵略されたなら漏れなく凄まじい占領政策を受ける事は間違いありません。
殺すより殺されようとか、酒飲んで話し合うなんて言う生優しい話しではありません。

それが同じ民族同士でも虐殺し、鍋で人肉を煮て食う連中なのですから。

国際紛争を解決する手段として戦争を選択肢から除外することの危険性について、我々日本人は真剣に考えなければならない時代にフェーズが変わった!

その様に理解すべきです。



間抜けな平和と利益ある戦争

2023-09-02 17:09:00 | 草莽崛起
さて前回は拙著NOTEでの記事と、この地味ブログでいつもの様に考えてみました。
今回はそれら2本の記事を踏まえて、更に平和や戦争、そして我々人類はどうなるのかを考えてみたいと思います。

全く結論を導き出そうと言う趣旨ではありません。あくまで『問題提起』です。
ご一読頂いた皆様にも、ご自身の頭で考えて頂きたい話しです。

平和を維持する為に何を考えるか - 犬神スケキヨ~さざれ石

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先の8月15日にNOTEにて拙著記事を掲載致しました。『終戦の日』に問題提起として考えてみました。今回はその続きと、更に掘り下げて考えてみたいと思います。8月15日に考え...

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先ずは上記拙著記事を一読頂ければ幸いです。

拙著記事中でも紹介いたしましたが、今や戦争をやっても大した利益を得る事が出来ません。よって20世紀には人類の5%が、戦争紛争で死んでいましたが21世紀には1%にまで減少しました。

これは生き延びる為に資源を確保する必要があるからです。なんとか資源を独占する事がそのまま安全保障に繋がっていたからです。
ですから、領土を拡張し資源を得る為にせんそを仕掛けます。
国の政策として『戦争』を常に考えて国政を行なって来たのが20世紀の世界です。

現在は資源ではなく、技術や知識が財産のベースにある為、それらを得る手段としていわゆる戦争なるものを選択しても余り意味がないのです。
ですからドンパチする様な戦争ではなく、サイバー空間でやっていてサイバー空間では既に第三次世界大戦と言える状況です。

サイバー空間で行われているうちは、国民は直ぐに死人が出ないので今が戦時であると全く自覚出来ないものです。
しかし、ある日いきなり経済がストップしたり、インフラが機能しなくなったりして結局は死人が出る結果を招きます。

花畑に暮らす平和主義者は、爆弾や鉄砲の弾が飛んで来ていないので『いや〜平和だねぇ』と真顔でボケた事を言い出します。
そして何があっても『戦争反対』と言うわけです。戦争がなければ平和で、平和は最高だと考えるからです。戦争がない事が『平和』な状況だと信じているからです。
全く無知蒙昧甚だしい限りです。知能が低すぎて心配になるレベルですね。

例えば、この『平和主義者達』は最悪の平和と言う様な考えには至りません。
この平和主義者の論理に立って考えるならば
毎年三万人を超える自殺者を出していても、戦争がないので平和であると考えているからです。
我が国の自殺者は経済の見通しが悪くなると増えます。自殺者と失業率の相関関係は証明されています。
第二次安倍政権になり、失業率が減ると自殺者も減った事実を見れば明らかです。
経済的に困窮すれば自死を選択するのが我が国の事実です。
それは現代においての特殊な事情ではなく、先の戦争の理由にもなっていて、あのダグラス・マッカーサーも戦後に『日本の失業者は最高で1200万人を超えたであろう』と証言しています。実に労働者の15%以上が失業する事になるのですから、自殺者数はどうなる事か容易に想像できます。

たかが失業率4%弱で毎年三万人を超える自殺者が出ているのですから恐ろしい話しです。

連合国に対して『戦争』と言う選択をしなければどうなっていたか?
歴史にifはないと言うけれど、それらを全く考えないのは、やはり『敗戦』と言う決定的な間違いであり故に現代我々は危機的状況にあるのではないかと思います。

例えば、兵士が10万人程度死ぬぐらいならば『戦争』と言うものを選択する事もあり得るのではないかと思います。

30年も毎年三万人の自殺者を出す経済状況でしかし戦争はないと言う『最悪の平和』を続ける事に耐えられるのか?
いや、それなら兵士を10万人失うが一年で終結し、その後数十年経済が疲弊する事なく、それが理由で自死を選ぶ者がいない事が良いと考える事もあり得るわけです。

しかし『いや!ダメだ!何があっても戦争と言う手段は避けろ』と考え、自殺者を許容し最悪でも平和が優先だ!と考える人もいるはずです。

これはどちらも正しい事で、全く結論を得る様な話しではないのです。

戦争になれば兵士は死にます。兵士は自国民です。兵士だから死んで良いと言う話しではありません。しかし上記拙著記事にも掲載しましたが『戦争』をしているうちは自国の民間人が死ぬ事はありません。
兵士の死と言うギリギリ最低の死で多数を生かす選択もある訳です。

私個人は紛争を解決する手段として戦争を選択する事に賛成です。
全く戦争と言う手段を『悪』であるとは考えていません。
しかし憲法を蔑ろにしてまで戦争を選択する理由はないと考えています。
右翼全体主義者には実に受け入れ難い爆弾発言かもしれませんが。

世に改憲派か護憲派かと言われますが『お前の立場はどっちだ?』と聞かれたならば『護憲派』であるのは間違いありません。
現憲法が、米国からの押し付けだろうが現代日本人の知らぬ所で制定されていようが私個人にとっては、どうでも良い話しです。

むしろ憲法を蔑ろにしても戦争と言う選択をする方が危険極まりないのです。
我々は民主主義国で自由主義国です。
それを担保するのが、憲法であり法です。
それが法の支配と言う事であり法治国家と言う事です。

十人十色と言われる様に各々考えが違うのが人間なのです。
その個々人の考えを抽象的に概念としたものが憲法であるからです。
ですからある意味『国民より上位』にあるのが憲法なのです。
その様な物を人間より上位に置く事を我々は既に数百年前に決めて来ました。大宝律令の様に律令を重んじる国家を作ってきましたし、西洋では其れら人間の概念を宗教に拠り人間の上位としてきました。
我が国の天皇陛下でも憲法を守っているのですから明らかなものです。

民主主義も自由主義もこの概念がベースとなっているのです。

ですから、アメ公が作った憲法だろうがなんだろうが我が国が憲法と言うものを持っていて何人ともこの憲法条文を最優先に考えて法律も国家も形成するのだと決めているからです。アメ公が作ったから守らなくても良いとか、正当性がないなどは実は関係ないのです。
例えば、大日本帝国憲法こそが正当憲法だ!と主張する方もおられますが、その明治の憲法など現代日本人は全く知らず、預かり知らない所で作られて、今やそんなもんは存在していません。

自由主義国、民主主義国の一員として考えるならば拙い所や矛盾があるなら変えよう!と言う事が正しい事なのです。


今の時代、一番紛争や戦争で死ぬ人が少ないにも関わらず現憲法制定時より最も『戦争』についてリアルに考えなければならない時代であるのは間違いありません。

戦争を回避する為には現実として、相対的な軍事力と強固な同盟が必要であるのは国際関係論でも明らかにされています。
我が国には周辺国に中華人民共和国・北朝鮮・ロシアと言う民主主義度の低い独裁国家があり核を保有しています。
ロシアのウクライナ侵攻を見れば、非論理的思考で人間の愚かさを丸出しにした状況です。この愚かさを蔑ろにすれば我々は虐殺されてしまいます。
そうなりたくなければ、この愚かな連中と手を組めば随分と楽になるのはずです。
しかしこんな国と手を組めるはずもないのです。

その為に米国と同盟を結んでいるのです。
しかし米国とて我々の絶対的な味方などではありません。米国にも米国の国益があり、都合があるからです。
そんなものは先の戦争を見れば明らかで、日本とソ連は不可侵条約を結んでいたにも関わらず、一方的に破棄された。
こんな経験をしながらも危機感を抱かない他方の花畑も存在するから恐ろしい話しです。

我々はこれ程危険な時代にいながら、何も講じていない事に危機感を持つべきです。

民主主義国に於いて、法や憲法の解釈を変える事は何ら問題ありません。
例えば、平和安全法制などは典型例です。
人間が立場や状況を踏まえて『手心』を加えるのは構いません。

しかし、憲法を大きく逸脱する事は決してやってはいけないのです。

基本的に平和安全法制は与党が選挙で勝ち、憲法の解釈変更を行って可決されたのですから、現憲法を逸脱していません。
つまりこれを変更したいなら、変更したい勢力が選挙で勝ち、与党となって解釈変更を行なって法案を出し可決すれば良いのです。
それが『法と憲法に合致しているからです。

法治国家ではやるべき事が決まっているにも関わらず、アホみたいに国会前や各所で思想問わずデモやパレードをやっているのです。
それは悪い事ではないけれど、それだけで世の中や法や世の理が変わるはずはありません。思想問わず、手段と目的を履き違え本来の民主主義の絶大なパワーを蔑ろにするアホな行為です。

敗戦後、我が国は最悪な平和のみ選択し続けてきました。

だから国民に対して経済的困窮から自死を選択させ国民を死地に追い込み、最悪な平和しか選択する事しか出来ないから、三流国家に愛する家族を拉致されても取り返しも出来ないのです。

最悪な平和しか選択の余地がない事は、結局は不幸にしかなりません。

そして

間抜けな平和、最悪の戦争
最悪な平和、利益ある戦争を決めるのが政治の役割なのです。

この選択をやるのが政治です。

政治の本質はここにあるのです。

ハッキリ言ってしまえば、それ以外はどうでも良い程にこの選択にかかっているのです。

我々国民の日々の生活も間抜けな平和か最悪の戦争か、最悪の平和か利益ある戦争かが決めるのです。
間抜けな平和、最悪の平和しか選択出来ない現状こそ最も危険極まりないのです。