さて、今回は何の話しをしようか…とか考えてました。
と、言うより『どう話を纏めようか』という感じでしょうか。
毎度、申し上げておりますが、あくまで問題提起の一つであります。
ここで私が話す事は『問題提起』です。
皆さんも一緒に考えてみませんか?
その様な趣旨です。
人間というものは、何気ない一言で深く考えさせられたりするものです。
今回はそんな話しをしようかと思いますが…
実は、2、3日考えさせられました。
頭の中ではぶつ切りになった状態でした。
しかし、周囲の人と話す事でやっと、点が線になりました。
私自身、全く意識もせぬ言葉をぶつけられ深く考える事態となりました。
しかし自分自身も陥りやすい、しかし世に当たり前に氾濫した『常識』を考えるキッカケともなりました。
…とは、何だ
世の中には、様々な人がいます。
例えば体にハンデを抱える方。
車椅子や義手や義足を使う方々。
或いは精神的疾病を抱えた方々。
子供にお年寄り、男に女。
様々な人が、この日本のみならず世界に沢山いますね。
例えば、私の友人にも『うつ病』を抱えた者や、事故で片腕を無くした者や、事故で片足に障碍を持った者などいます。
また、街を歩いていても車椅子の人、白丈を持つ人や盲導犬を連れている人。
さて、この様な人を何と言うのでしょうか?
社会的弱者
その様に呼ばれることが多々あります。
例えば、イジメ
これは、とある方との話しに出て来たのですが…
イジメについての話しです。
その方は
「テレビのコメンテーターや専門家みたいな人が話す事は、基本的に間違っているんじゃないか?」
その様な趣旨でした。
「イジメににあった子供達が、自殺を選んでしまうのは、イジメにあってどうにも解決出来ない惨めさや情けなさからではないか」
つまり、イジメにあっても自分では解決出来ず、周りの助けもない。
イジメをする連中に対抗も出来ず、言いなりになる。
その自らの哀れさ、惨めさ。
そして周囲は自分に対し「イジメられてる子」とか「イジメにあってるかわいそうな人」と言う目。
イジメにあってる弱い子
そんなレッテルを貼られてしまっている事への悲観的な状況を打開出来ず。
打開する方法が自らを殺すことになってしまうのでは?
その様な見解でした。
私は思わずハッとしました。
私の中で、点と点が繋がる瞬間でもありました。
では、イジメた側は強い子なのか?
ならば強い子でなければ自殺までしてしまうのか?
そうなれば皆が強い子にならなければイジメによる自殺は防ぐことは出来ない、そういう事になってしまいます。
この場合『強い子』はイジメを行なった子供達で、つまりはイジメを行なう側にならねば死んでしまうと言う事になります。
イジメは良くない!イジメを止めろ!と言いながら、実はイジメを行なう側にならなければ自殺してしまう…こんな論理が成り立つのです。
全く違和感しかありません。
イジメられた子供は決して弱い子などではありません。
イジメはある種、人間としての尊厳を傷付けるものです。
暴力や誹謗中傷、更に金品を巻き上げる。
これは、犯罪行為です。
しかし『イジメ』と言う言葉で括ってしまい、その犯罪行為を誤魔化しているのです。
犯罪は人間としての尊厳を奪うものです。
イジメにあっている子供は決して弱い子ではないのです。
イジメた子供達から人間としての尊厳を奪われたのです。
だから、自殺を選んでしまったのです。
人は人としての尊厳を奪われては生きていけません。
イジメは強いとか弱いの問題ではないのです。
人間の尊厳と言う問題なのではないでしょうか?
電通問題
先頃、電通の新入社員の女性が無理な勤務を強いられ自殺をしました。
これを労災認定されました。
無理な勤務を強いた電通は、これは勿論大問題です。無茶苦茶な話しです。
しかし、考え方を変えればこの自殺した女性も、その状況から逃げる事も出来たはず。
しかし、彼女はこの状況から抜け出す事が出来ずに自殺を選択しました。
これに労災認定をしたのです。
労災は労働災害です。
例えば職務中に、足場から落ちた。
或いは、通勤中に事故にあった。
これは労働災害です。
しかし、彼女の場合はこれらに当てはまるのか?
むしろ、この様な状況の彼女を『弱い立場の人』と、世間は見てはいないか?
そこに実は見落としがあるのではないか?
私はそう考えます。
労使間は本来、対等でなければならないはずです。
労働者は使用者に労働を売るのです。
それを立場の強い弱いと考えてしまっているのではないでしょうか?
つまり、資本家が労働者から搾取するような行動を取り労働者に対し強い立場を取る為に労働者は拒否し難い状況になる。
本来労働者の権利は徹底的に守らねばなりません。
無理な労働を強要され、それに従うなど労使関係ではなく主従関係です。
これも、人間としての尊厳の問題です。
人は誰の所有物ではありません。
労働者は労働を売ることで対価を得るだけであって、宮仕えではありません。
つまり、この自殺した女性は『労働災害』でもなく『弱い人』でもないのです。
人間の尊厳を傷付けられた人ないのです。
弱者とは?
では弱者とはなんでしょうか?
例えば先に述べたように、身体的にハンデを持つ人を世は『社会的弱者』と括ります。
車椅子で生活する人。
片足の無い人。
片腕の無い人。
精神的疾患を抱える人。
それは弱者なのでしょうか?
では両手両足があり、車椅子にも乗っていない私は強者なのでしょうか?
私にはその様な括りは違和感しかありません。
友人には片腕が動かぬ者や、事故で足が不自由な者や、或いは精神的疾患を持つ者がいます。
しかし、私は彼らを弱者などと見たことはありません。
私自身も様々な疾患を抱えています。
正直、私は難聴です。
会話が出来ない程ではないが、時に人と話すのがツライ。
更に、どうしても声が大きくなってしまう。
他にも体質的なものもあります。
つまり、これらは私自身、一生付き合って行かねばならない症状です。
私からすれば、いわゆる障碍を抱えた友人も私も同じで何がしかの症状を抱えた人と言う事で、同じ人間同士と言う事です。
つまりは持病のある者と言うだけのことだと考えます。
果たして『弱者』とはなんなのでしょうか?
しかし現在は障碍や既往症など抱える人を『社会的弱者』としています。
交通弱者
【交通弱者】と言う言葉をご存知でしょうか?
何らかの運転免許をお持ちの方ならば、知っている言葉ですね。
私自身、運転免許を取得する祭にこの言葉を散々聞かされました。
車を運転する者にとって、歩行者、自転車、子供やお年寄りを交通弱者と言うのです。
これら交通弱者を守る運転を心掛けよ!
そういうことです。
一見マトモな主張の様に感じます。
しかしここにも違和感を感じます。
子供やお年寄りや歩行者、自転車は弱者なのか?
その様な疑問を持つのです。
確かに、それらの人に注意し運転しなければなりません。
しかし、運転をする者は『強者』なのでしょうか?
ならば、先に述べた身体にハンデを持つ方々の中にも車を運転する者もいます。
例えば私の知人にも、右腕がないけども車を運転する人がいます。
車椅子で生活する人にも車を運転する人がいます。
この様な人は、社会的弱者とされていますが、運転すれは『強者』になってしまうのでしょうか?
私は『弱者』だから守るのではないと思います。
それは人間だから守るべきだと考えます。
つまりらは命を守る運転をしろ!と言うことではないでしょうか?
弱者だから守るのではない、大切な命だから守る
そういうことなのではないでしょうか?
それを『弱者』と括ってしまうことに違和感を感じざるを得ません。
私はかわいそうな人ではない
オウム真理教による一連の事件の中で、ある弁護士一家が拉致され殺害された事件がありました。
その時、その被害者家族である母上が意を決してマスメディアに顔も実名も公表し、今後この様な悲惨な事件が起きぬ事を願い記者会見を行いました。
すると、当然マスメディアは大きく報じました。
実はこれがキッカケとなり、その母上は日常生活が困難な程になってしまいました。
毎日の買い物や、或いは諸用を行う事もままならなくなりました。
外を歩けば好奇の目に晒され、「ほら、あの人が…」とか「ツライと思いますが頑張って」等と言われる毎日。
その母上は後に何がしかの手記で話されていました。
「私は犯罪被害者の家族です。そして普通の主婦です。毎日買い物に行き家族の世話をしています。私はかわいそうな人でも、弱い人でもありません。家族を犯罪に巻き込まれ失くした母です」
その様な趣旨を話されていた様に記憶しています。
そう、この母上は決してかわいそうな人ではありません。
また『弱者』でもありません。
犯罪被害者家族で、一人の母で、主婦です。
普通に何処にでもいる女性の一人です。
勿論、この一人一人の人間に違う人生はあります、が特別取り上げなければいけない人ではなかったはずです。
ただ家族を犯罪に巻き込まれ失くした。
それをまるで腫れ物に触るように扱い、マスメディアも含めて我々社会がかわいそうな人とか社会的弱者と言うようなレッテルを貼ったのです。
ですから、逆に「何だ弱者なら弱者らしい生活をしろ!」と言うような心ない言葉まで受けていたのです。
一体何なのでしょう
我々は簡単に弱者と言う言葉を使っています。
しかし、弱者とは何なのでしょうか?
例えば体にハンデを持つ人を『弱者』とするならば、その方々にあなたは弱者ですと言うのでしょうか?
私は友人に「君は弱者だ」と言わねばならんのでしょうか?
ある方は「弱者です」とハッキリ言い切ります。
私には全く違和感しかありません。
では、その方は身体的にハンデを抱える方に「あなたは弱者ですよ」と言っているのでしょうか。
私は弱者と言う言葉の中にかわいそうな人と言う意味が含まれているのではないかと感じます。
或いは我々とは違う人と言う意味が含まれているのではないかと感じます。
無意識に使う言葉に、その様な意味を内包していて、実はその表現が間違いかもしれないと気付きもせず使っているのではないか?
その様に考えます。
例えば私の友人などは自分自身を『弱者』などとは考えていません。
私もその様に考えていませんから、ぶつかる時は本気でぶつかるし、冗談も言えます。
それは共に同じ人間として付き合っているからです。
例えば体にハンデを抱える人を『弱者』とすれば、弱者の振る舞いを強いられてしまうと友人は話します。
だから自らを社会的弱者等とは決して口にはしません。
それは自らを弱者と言い、補助金を不正に受給したりする連中もいて、そんな連中と一緒にされては堪らないという思いもあると話します。
車椅子に乗っていようと、義足を付けていようと犯罪を犯すものもいて、それらの人間も『弱者』と呼ばねばならん事になってはしまいませんか?
犯罪者は犯罪者であって弱者ではありません。
パラリンピックに出るアスリートを見てあなたは『社会的弱者』だと感じるでしょうか?
私は車椅子に乗るテニスプレイヤーや片腕のスイマー、義足のランナーを見て社会的弱者などとは思いません。
パラリンピックの選手はアスリートであって弱者ではないのではありませんか?
弱者が競技をしていると見れば、もうアスリートではないのではないか?
車椅子に乗ったアスリート、片腕のアスリート、義足のアスリート。
ただそれだけです。
例えば沖縄の基地外連中は自らを『権力に虐げられた弱者」であると主張しているのです。
私は弱者と言う括りに違和感しか感じない。
弱者とはなんだ?
子供だろうと、年寄りだろうと、女だろうと、男だろうと。
車椅子に乗ってようと、白杖をついていようと、盲導犬を連れていようと、精神的疾患があろうと。
弱者ではなく一人の人間であり、一個人です。
先の弁護士の母上の話しを借りるならば、例えば拉致被害者やその家族は『かわいそうな人』でも『弱者』でもありません。
同じ日本に住む我々の同胞で、守るべき命。
それは人間であって『弱者』ではない。
天皇陛下は我々国民の統合された象徴です。
これは
我々日本国民は天皇陛下を中心とした統合された国民で、その象徴が天皇陛下である
その意味は、日本国民は一つの家族(統合)であり、その中心に天皇陛下を戴き一人一人が支えあって成る国だと言う事だと考えます。
その家族を弱者だとかかわいそうなどと思うのでしょうか…
弱者と言う言葉に内包された意味。
弱者と括れば当然ながら、それ以外の人と分けてしまうことにはなりませんか?
人間は人間として人生を謳歌する権利があるのです。
ならば、車椅子に乗っている人も、白杖をついている人も人間として人生を謳歌する権利があります。
我々は弱者だから、これらの人を『弱者』だから守るのではなく、人間としての人生を謳歌する権利を徹底的に守るのが本来なのではないでしょうか?
車椅子の方が出掛けるとき、車椅子が通行出来ない障害があれば、それは車椅子の方の人間としての権利を阻害する事になる。
だから、車椅子がすんなり通れる道を整備する。
車椅子に乗ってようと、行きたいところに出掛け、見たい物を見て、好きな人と会話ん楽しむ。買い物を楽しむ。
それは人間としての当然の権利です。
我々は弱者だから車椅子の方の通行を守るのではありません。
人間としての当然の権利を守るのです。
それは車椅子に乗らない私の権利をも守ることになるのです。
社会的弱者なるレッテルを貼りを皆さんも一度考えてみませんか?
と、言うより『どう話を纏めようか』という感じでしょうか。
毎度、申し上げておりますが、あくまで問題提起の一つであります。
ここで私が話す事は『問題提起』です。
皆さんも一緒に考えてみませんか?
その様な趣旨です。
人間というものは、何気ない一言で深く考えさせられたりするものです。
今回はそんな話しをしようかと思いますが…
実は、2、3日考えさせられました。
頭の中ではぶつ切りになった状態でした。
しかし、周囲の人と話す事でやっと、点が線になりました。
私自身、全く意識もせぬ言葉をぶつけられ深く考える事態となりました。
しかし自分自身も陥りやすい、しかし世に当たり前に氾濫した『常識』を考えるキッカケともなりました。
…とは、何だ
世の中には、様々な人がいます。
例えば体にハンデを抱える方。
車椅子や義手や義足を使う方々。
或いは精神的疾病を抱えた方々。
子供にお年寄り、男に女。
様々な人が、この日本のみならず世界に沢山いますね。
例えば、私の友人にも『うつ病』を抱えた者や、事故で片腕を無くした者や、事故で片足に障碍を持った者などいます。
また、街を歩いていても車椅子の人、白丈を持つ人や盲導犬を連れている人。
さて、この様な人を何と言うのでしょうか?
社会的弱者
その様に呼ばれることが多々あります。
例えば、イジメ
これは、とある方との話しに出て来たのですが…
イジメについての話しです。
その方は
「テレビのコメンテーターや専門家みたいな人が話す事は、基本的に間違っているんじゃないか?」
その様な趣旨でした。
「イジメににあった子供達が、自殺を選んでしまうのは、イジメにあってどうにも解決出来ない惨めさや情けなさからではないか」
つまり、イジメにあっても自分では解決出来ず、周りの助けもない。
イジメをする連中に対抗も出来ず、言いなりになる。
その自らの哀れさ、惨めさ。
そして周囲は自分に対し「イジメられてる子」とか「イジメにあってるかわいそうな人」と言う目。
イジメにあってる弱い子
そんなレッテルを貼られてしまっている事への悲観的な状況を打開出来ず。
打開する方法が自らを殺すことになってしまうのでは?
その様な見解でした。
私は思わずハッとしました。
私の中で、点と点が繋がる瞬間でもありました。
では、イジメた側は強い子なのか?
ならば強い子でなければ自殺までしてしまうのか?
そうなれば皆が強い子にならなければイジメによる自殺は防ぐことは出来ない、そういう事になってしまいます。
この場合『強い子』はイジメを行なった子供達で、つまりはイジメを行なう側にならねば死んでしまうと言う事になります。
イジメは良くない!イジメを止めろ!と言いながら、実はイジメを行なう側にならなければ自殺してしまう…こんな論理が成り立つのです。
全く違和感しかありません。
イジメられた子供は決して弱い子などではありません。
イジメはある種、人間としての尊厳を傷付けるものです。
暴力や誹謗中傷、更に金品を巻き上げる。
これは、犯罪行為です。
しかし『イジメ』と言う言葉で括ってしまい、その犯罪行為を誤魔化しているのです。
犯罪は人間としての尊厳を奪うものです。
イジメにあっている子供は決して弱い子ではないのです。
イジメた子供達から人間としての尊厳を奪われたのです。
だから、自殺を選んでしまったのです。
人は人としての尊厳を奪われては生きていけません。
イジメは強いとか弱いの問題ではないのです。
人間の尊厳と言う問題なのではないでしょうか?
電通問題
先頃、電通の新入社員の女性が無理な勤務を強いられ自殺をしました。
これを労災認定されました。
無理な勤務を強いた電通は、これは勿論大問題です。無茶苦茶な話しです。
しかし、考え方を変えればこの自殺した女性も、その状況から逃げる事も出来たはず。
しかし、彼女はこの状況から抜け出す事が出来ずに自殺を選択しました。
これに労災認定をしたのです。
労災は労働災害です。
例えば職務中に、足場から落ちた。
或いは、通勤中に事故にあった。
これは労働災害です。
しかし、彼女の場合はこれらに当てはまるのか?
むしろ、この様な状況の彼女を『弱い立場の人』と、世間は見てはいないか?
そこに実は見落としがあるのではないか?
私はそう考えます。
労使間は本来、対等でなければならないはずです。
労働者は使用者に労働を売るのです。
それを立場の強い弱いと考えてしまっているのではないでしょうか?
つまり、資本家が労働者から搾取するような行動を取り労働者に対し強い立場を取る為に労働者は拒否し難い状況になる。
本来労働者の権利は徹底的に守らねばなりません。
無理な労働を強要され、それに従うなど労使関係ではなく主従関係です。
これも、人間としての尊厳の問題です。
人は誰の所有物ではありません。
労働者は労働を売ることで対価を得るだけであって、宮仕えではありません。
つまり、この自殺した女性は『労働災害』でもなく『弱い人』でもないのです。
人間の尊厳を傷付けられた人ないのです。
弱者とは?
では弱者とはなんでしょうか?
例えば先に述べたように、身体的にハンデを持つ人を世は『社会的弱者』と括ります。
車椅子で生活する人。
片足の無い人。
片腕の無い人。
精神的疾患を抱える人。
それは弱者なのでしょうか?
では両手両足があり、車椅子にも乗っていない私は強者なのでしょうか?
私にはその様な括りは違和感しかありません。
友人には片腕が動かぬ者や、事故で足が不自由な者や、或いは精神的疾患を持つ者がいます。
しかし、私は彼らを弱者などと見たことはありません。
私自身も様々な疾患を抱えています。
正直、私は難聴です。
会話が出来ない程ではないが、時に人と話すのがツライ。
更に、どうしても声が大きくなってしまう。
他にも体質的なものもあります。
つまり、これらは私自身、一生付き合って行かねばならない症状です。
私からすれば、いわゆる障碍を抱えた友人も私も同じで何がしかの症状を抱えた人と言う事で、同じ人間同士と言う事です。
つまりは持病のある者と言うだけのことだと考えます。
果たして『弱者』とはなんなのでしょうか?
しかし現在は障碍や既往症など抱える人を『社会的弱者』としています。
交通弱者
【交通弱者】と言う言葉をご存知でしょうか?
何らかの運転免許をお持ちの方ならば、知っている言葉ですね。
私自身、運転免許を取得する祭にこの言葉を散々聞かされました。
車を運転する者にとって、歩行者、自転車、子供やお年寄りを交通弱者と言うのです。
これら交通弱者を守る運転を心掛けよ!
そういうことです。
一見マトモな主張の様に感じます。
しかしここにも違和感を感じます。
子供やお年寄りや歩行者、自転車は弱者なのか?
その様な疑問を持つのです。
確かに、それらの人に注意し運転しなければなりません。
しかし、運転をする者は『強者』なのでしょうか?
ならば、先に述べた身体にハンデを持つ方々の中にも車を運転する者もいます。
例えば私の知人にも、右腕がないけども車を運転する人がいます。
車椅子で生活する人にも車を運転する人がいます。
この様な人は、社会的弱者とされていますが、運転すれは『強者』になってしまうのでしょうか?
私は『弱者』だから守るのではないと思います。
それは人間だから守るべきだと考えます。
つまりらは命を守る運転をしろ!と言うことではないでしょうか?
弱者だから守るのではない、大切な命だから守る
そういうことなのではないでしょうか?
それを『弱者』と括ってしまうことに違和感を感じざるを得ません。
私はかわいそうな人ではない
オウム真理教による一連の事件の中で、ある弁護士一家が拉致され殺害された事件がありました。
その時、その被害者家族である母上が意を決してマスメディアに顔も実名も公表し、今後この様な悲惨な事件が起きぬ事を願い記者会見を行いました。
すると、当然マスメディアは大きく報じました。
実はこれがキッカケとなり、その母上は日常生活が困難な程になってしまいました。
毎日の買い物や、或いは諸用を行う事もままならなくなりました。
外を歩けば好奇の目に晒され、「ほら、あの人が…」とか「ツライと思いますが頑張って」等と言われる毎日。
その母上は後に何がしかの手記で話されていました。
「私は犯罪被害者の家族です。そして普通の主婦です。毎日買い物に行き家族の世話をしています。私はかわいそうな人でも、弱い人でもありません。家族を犯罪に巻き込まれ失くした母です」
その様な趣旨を話されていた様に記憶しています。
そう、この母上は決してかわいそうな人ではありません。
また『弱者』でもありません。
犯罪被害者家族で、一人の母で、主婦です。
普通に何処にでもいる女性の一人です。
勿論、この一人一人の人間に違う人生はあります、が特別取り上げなければいけない人ではなかったはずです。
ただ家族を犯罪に巻き込まれ失くした。
それをまるで腫れ物に触るように扱い、マスメディアも含めて我々社会がかわいそうな人とか社会的弱者と言うようなレッテルを貼ったのです。
ですから、逆に「何だ弱者なら弱者らしい生活をしろ!」と言うような心ない言葉まで受けていたのです。
一体何なのでしょう
我々は簡単に弱者と言う言葉を使っています。
しかし、弱者とは何なのでしょうか?
例えば体にハンデを持つ人を『弱者』とするならば、その方々にあなたは弱者ですと言うのでしょうか?
私は友人に「君は弱者だ」と言わねばならんのでしょうか?
ある方は「弱者です」とハッキリ言い切ります。
私には全く違和感しかありません。
では、その方は身体的にハンデを抱える方に「あなたは弱者ですよ」と言っているのでしょうか。
私は弱者と言う言葉の中にかわいそうな人と言う意味が含まれているのではないかと感じます。
或いは我々とは違う人と言う意味が含まれているのではないかと感じます。
無意識に使う言葉に、その様な意味を内包していて、実はその表現が間違いかもしれないと気付きもせず使っているのではないか?
その様に考えます。
例えば私の友人などは自分自身を『弱者』などとは考えていません。
私もその様に考えていませんから、ぶつかる時は本気でぶつかるし、冗談も言えます。
それは共に同じ人間として付き合っているからです。
例えば体にハンデを抱える人を『弱者』とすれば、弱者の振る舞いを強いられてしまうと友人は話します。
だから自らを社会的弱者等とは決して口にはしません。
それは自らを弱者と言い、補助金を不正に受給したりする連中もいて、そんな連中と一緒にされては堪らないという思いもあると話します。
車椅子に乗っていようと、義足を付けていようと犯罪を犯すものもいて、それらの人間も『弱者』と呼ばねばならん事になってはしまいませんか?
犯罪者は犯罪者であって弱者ではありません。
パラリンピックに出るアスリートを見てあなたは『社会的弱者』だと感じるでしょうか?
私は車椅子に乗るテニスプレイヤーや片腕のスイマー、義足のランナーを見て社会的弱者などとは思いません。
パラリンピックの選手はアスリートであって弱者ではないのではありませんか?
弱者が競技をしていると見れば、もうアスリートではないのではないか?
車椅子に乗ったアスリート、片腕のアスリート、義足のアスリート。
ただそれだけです。
例えば沖縄の基地外連中は自らを『権力に虐げられた弱者」であると主張しているのです。
私は弱者と言う括りに違和感しか感じない。
弱者とはなんだ?
子供だろうと、年寄りだろうと、女だろうと、男だろうと。
車椅子に乗ってようと、白杖をついていようと、盲導犬を連れていようと、精神的疾患があろうと。
弱者ではなく一人の人間であり、一個人です。
先の弁護士の母上の話しを借りるならば、例えば拉致被害者やその家族は『かわいそうな人』でも『弱者』でもありません。
同じ日本に住む我々の同胞で、守るべき命。
それは人間であって『弱者』ではない。
天皇陛下は我々国民の統合された象徴です。
これは
我々日本国民は天皇陛下を中心とした統合された国民で、その象徴が天皇陛下である
その意味は、日本国民は一つの家族(統合)であり、その中心に天皇陛下を戴き一人一人が支えあって成る国だと言う事だと考えます。
その家族を弱者だとかかわいそうなどと思うのでしょうか…
弱者と言う言葉に内包された意味。
弱者と括れば当然ながら、それ以外の人と分けてしまうことにはなりませんか?
人間は人間として人生を謳歌する権利があるのです。
ならば、車椅子に乗っている人も、白杖をついている人も人間として人生を謳歌する権利があります。
我々は弱者だから、これらの人を『弱者』だから守るのではなく、人間としての人生を謳歌する権利を徹底的に守るのが本来なのではないでしょうか?
車椅子の方が出掛けるとき、車椅子が通行出来ない障害があれば、それは車椅子の方の人間としての権利を阻害する事になる。
だから、車椅子がすんなり通れる道を整備する。
車椅子に乗ってようと、行きたいところに出掛け、見たい物を見て、好きな人と会話ん楽しむ。買い物を楽しむ。
それは人間としての当然の権利です。
我々は弱者だから車椅子の方の通行を守るのではありません。
人間としての当然の権利を守るのです。
それは車椅子に乗らない私の権利をも守ることになるのです。
社会的弱者なるレッテルを貼りを皆さんも一度考えてみませんか?