今回は昭和天皇が実際に仰られた言葉から、我々が戴く皇統、天皇、皇室を見てみようと思います。
これは何も、天皇崇拝でもありません。
天皇教でもありません。
権力も権利も持たない我々の皇帝の生き方とは?
我々日本人にとって天皇陛下とは?
あなたは、この天皇陛下のお言葉をどう感じるでしょうか?
司令官でも時と場合によっては第一線に立つだろう。今日の大雨に青年達は朝から濡れているのだから、どうして自分だけが天幕の中に立っていられるか。
1928年11月10日
昭和天皇は御所で即位の大礼を行い、12月15日に皇居二重橋で8万人の学生や在郷軍人による分列式を親閲なさりました。
この日は朝から大雨でした。
天幕が用意されたのですが陛下は自らそれを除去させました。
これを知らされた参加者達も自ら雨具を脱ぎました。
陛下は冷たい雨に濡れながら敬礼する青年達に挙手の礼を返すのです。
ナポレオンもビスマルクも、戦略家で攻撃的であったがあの二人は国際法を破るという事はなかった
日中戦争の勃発以来、昭和天皇は戦時下であっても国際法を遵守することに気を使っていました。
この為、中支那方面軍は南京攻略にあたり軍紀風紀を特に厳粛にする事を命じた『南京攻略要領』を通達しています。
たとえ連合国が天皇統治を認めてきても、人民が離反したのではどうしようもない。
人民の自由意思によって決めてもらって少しも差し支えない。
連合国によるポツダム宣言の内容について、政府首脳の間で激しい議論となりました。
それは天皇の地位についての部分でした。
しかし連合国からな通達に『日本政府の形態は日本国民の自由意思により決められるべき』との文言があった事を受けて、昭和天皇は皇族会議においてこの様に述べました。
そしてポツダム宣言受諾をしたのです。
戦争責任者を連合国に引き渡すは、真に苦痛にして忍び難きところなるが、私一人が引き受け退位でもして納めるわけにはいかないだろうか
終戦後、8月29日にマッカーサー率いる占領軍が到着しました。
まだこの段階では昭和天皇と戦争責任者の処遇など連合国の占領方針の詳細は全くわかっていませんでした。
日本の指導者、国民にとって不安な状況でした。
天皇陛下は全ての責任を引き受ける意思を示し、側近である木戸幸一内大臣にこのように漏らしておられたのです。
貴下は私について思うままになされてよい
貴下は私を絞首刑にしてもよい
しかし、私の民を飢えさせないでほしい
占領軍の到着から1カ月、9月27日。
昭和天皇はアメリカ大使館にいる占領軍総司令官マッカーサー元帥のもとを訪問。
会見は35分間で、一人の通訳以外には立ち会わせず実質一対一の対話でした。
自らの身柄より、国民のことを案じ昭和天皇はこのように語りました。
この事に感銘を受けたマッカーサーは日本国民に寛大な措置をとる方針を決めるのでした。
彼(東條英機)ほど、朕の意見を直ちに実行に移した者はいない
要するに彼は、近衛の聞き上手で実行しないのに反して、聞き下手ですぐ議論をやるから人から嫌われるのだろう
昭和天皇による、二人のリーダーシップについての評価はこの様なものであったようです。
戦時中、首相を務めた東條英機と近衛文麿、どちらも戦後に戦犯に指定されました。
このうち軍人の東條英機関して昭和天皇はあまり批判的な事は述べていないようです。
しかし公家出身の近衛文麿に関しては、態度がはっきりしない点などを非難していました。
皆に会うのがうれしいので疲れも覚えない
子供達の元気で無邪気な顔を見ると楽しい気がする
身体の調子もかえっていいくらいだから安心してほしい
1946年2月から昭和天皇は全国への巡幸をはじめ、戦後の復興に勤しむ国民を労いました。
1947年8月には宮城、岩手、青森、秋田、山形、福島の各県を視察しました。
占領軍は天皇の神格化否定を進め、当初は国民の天皇に対する反発も懸念されていたが、戦前までとな異なり国民に直接に接する天皇陛下は多くの訪問地で暖かく迎えられました。
強行スケジュールの為に健康面を心配された天皇陛下はこう答えたのでした。
マッカーサー司令官との話しと言うものは、マッカーサー司令官とはっきり、これはどこにも言わないと
約束を交わしたことですから、男子の一言のごときは守らなければならないと思います
終戦後の1945年9月に昭和天皇とマッカーサー元帥が会見した時の会話内容については、マッカーサー元帥の回顧などで断片的に語られているが、昭和天皇自らその詳細を明かした事はありません。
その理由について、天皇陛下自身はこう語り約束を破ることは世界の信用を失う事になると述べています。
これは何も、天皇崇拝でもありません。
天皇教でもありません。
権力も権利も持たない我々の皇帝の生き方とは?
我々日本人にとって天皇陛下とは?
あなたは、この天皇陛下のお言葉をどう感じるでしょうか?
天皇の言葉
司令官でも時と場合によっては第一線に立つだろう。今日の大雨に青年達は朝から濡れているのだから、どうして自分だけが天幕の中に立っていられるか。
1928年11月10日
昭和天皇は御所で即位の大礼を行い、12月15日に皇居二重橋で8万人の学生や在郷軍人による分列式を親閲なさりました。
この日は朝から大雨でした。
天幕が用意されたのですが陛下は自らそれを除去させました。
これを知らされた参加者達も自ら雨具を脱ぎました。
陛下は冷たい雨に濡れながら敬礼する青年達に挙手の礼を返すのです。
ナポレオンもビスマルクも、戦略家で攻撃的であったがあの二人は国際法を破るという事はなかった
日中戦争の勃発以来、昭和天皇は戦時下であっても国際法を遵守することに気を使っていました。
この為、中支那方面軍は南京攻略にあたり軍紀風紀を特に厳粛にする事を命じた『南京攻略要領』を通達しています。
たとえ連合国が天皇統治を認めてきても、人民が離反したのではどうしようもない。
人民の自由意思によって決めてもらって少しも差し支えない。
連合国によるポツダム宣言の内容について、政府首脳の間で激しい議論となりました。
それは天皇の地位についての部分でした。
しかし連合国からな通達に『日本政府の形態は日本国民の自由意思により決められるべき』との文言があった事を受けて、昭和天皇は皇族会議においてこの様に述べました。
そしてポツダム宣言受諾をしたのです。
戦争責任者を連合国に引き渡すは、真に苦痛にして忍び難きところなるが、私一人が引き受け退位でもして納めるわけにはいかないだろうか
終戦後、8月29日にマッカーサー率いる占領軍が到着しました。
まだこの段階では昭和天皇と戦争責任者の処遇など連合国の占領方針の詳細は全くわかっていませんでした。
日本の指導者、国民にとって不安な状況でした。
天皇陛下は全ての責任を引き受ける意思を示し、側近である木戸幸一内大臣にこのように漏らしておられたのです。
貴下は私について思うままになされてよい
貴下は私を絞首刑にしてもよい
しかし、私の民を飢えさせないでほしい
占領軍の到着から1カ月、9月27日。
昭和天皇はアメリカ大使館にいる占領軍総司令官マッカーサー元帥のもとを訪問。
会見は35分間で、一人の通訳以外には立ち会わせず実質一対一の対話でした。
自らの身柄より、国民のことを案じ昭和天皇はこのように語りました。
この事に感銘を受けたマッカーサーは日本国民に寛大な措置をとる方針を決めるのでした。
彼(東條英機)ほど、朕の意見を直ちに実行に移した者はいない
要するに彼は、近衛の聞き上手で実行しないのに反して、聞き下手ですぐ議論をやるから人から嫌われるのだろう
昭和天皇による、二人のリーダーシップについての評価はこの様なものであったようです。
戦時中、首相を務めた東條英機と近衛文麿、どちらも戦後に戦犯に指定されました。
このうち軍人の東條英機関して昭和天皇はあまり批判的な事は述べていないようです。
しかし公家出身の近衛文麿に関しては、態度がはっきりしない点などを非難していました。
皆に会うのがうれしいので疲れも覚えない
子供達の元気で無邪気な顔を見ると楽しい気がする
身体の調子もかえっていいくらいだから安心してほしい
1946年2月から昭和天皇は全国への巡幸をはじめ、戦後の復興に勤しむ国民を労いました。
1947年8月には宮城、岩手、青森、秋田、山形、福島の各県を視察しました。
占領軍は天皇の神格化否定を進め、当初は国民の天皇に対する反発も懸念されていたが、戦前までとな異なり国民に直接に接する天皇陛下は多くの訪問地で暖かく迎えられました。
強行スケジュールの為に健康面を心配された天皇陛下はこう答えたのでした。
マッカーサー司令官との話しと言うものは、マッカーサー司令官とはっきり、これはどこにも言わないと
約束を交わしたことですから、男子の一言のごときは守らなければならないと思います
終戦後の1945年9月に昭和天皇とマッカーサー元帥が会見した時の会話内容については、マッカーサー元帥の回顧などで断片的に語られているが、昭和天皇自らその詳細を明かした事はありません。
その理由について、天皇陛下自身はこう語り約束を破ることは世界の信用を失う事になると述べています。