昨今LGBTや、特定の国、或いは趣味趣向に至るまで『多様性』と言うものを求める様になって来たと感じます。
もちろん多様性と言うのは大事なものです。
しかしそこにも基本的なルールというものがなくてはなりません。
元来日本という国は『多様性』の国で、民族的にもそうなのです。
よく『日本は同調圧力が強い』と言われます。
確かにそう言う側面はあります。
しかし何故同調性を求めるのか?
ここを考えなければ多様性や価値観と言うものの本来の意味を理解する事は難しいのではないでしょうか。
あくまでも私による問題提起として示して行く、毎度の姿勢で考えてみたいと思います。
多様性とは何ぞや?
幅広く性質が異なる群が存在すること。
などと考えるそうです。
生物多様性、種の多様性などがありますが『いろいろある事』とは違うのです。
多様性があると言う事は大変重要な事で、生物多様性などは様々な環境で様々な生き物が存在することは地球の営みには欠かせません。
人間にしても様々な人種、様々な思想がある事は人類にとって必要であり、種の保存と言う観点からも必要不可欠です。
だからこそお互いを尊重し生存の確立を上げているのだと思います。
この地味ブログでも以前に示しましたが、我々日本民族と言うのはいまから約3万年前に日本列島にたどり着いたのですが、大陸から朝鮮半島を辿った訳ではありません。
今から3万年前は氷河期で、氷に覆われていないのは赤道付近です。
大陸や半島は氷に覆われていました。
そんな厳しい環境をわざわざ通るバカはいません。
何故ならば食料調達が難しいからです。
私見ではありますが、氷に覆われた地域に住んでいた人々は、普通に考えれば食料調達が難しい。
ならば生き延びる為には自ら食料調達すると共に他人から奪う事もしなければなりません。
利己的でなければ生き延びれません。
しかし食料調達が比較的楽ならば奪う必要がありません。
むしろ分け合ったり協力することの方が生存の確立を上げるのではないでしょうか?
この辺りが世界、特に大陸や半島と日本との民族性の違いではないかと思います。
そう考えると半島の事大主義は生き延びる為に必要だったのでしょう。
ともかく、我々日本人は生き延びる為に協力して来たとすれば様々な個性を認め合わねばなりません。
多様性の尊重
正にこれでしょう。
日本には『百姓』と言う言葉がありますが、これは農民を指しているのではありません。
百の姓があると言う意味で『姓』とは、この場合職業を指しています。
つまり数多ある職業をまとめて『百姓』と言っているのです。
我々日本人の神についても神話に遡っても『八百万の神々』と言っています。
これも多種多様な神様がご存在すると言う事。
天照大御神から貧乏の神様、果ては便所にまで神様はいるのです。
この様に我が国はそもそも多様性を重んじる国民性であると言う事です。
神々の個性や我々日本人の個性や価値観は様々で多様なものです。
だからと言って多様性だけを殊更に強調するならば、民族はバラバラに好き勝手にやりたい放題で社会は無茶苦茶になってしまいます。
ですから我々は先ず『何が正しいのか?』を考え、決めなければなりません。
例えば出産について。
現在でも出産子育ては価値観の違いで産むか産まないかは多様性の問題などとアホな人は言います。
こんなもんは価値観の多様性という問題ではありません。
毎度申し上げておりますが『産むが正しい』のです。
我々は有性生殖動物です。
男と女がいて交配し子孫を残して行く。
これが大前提で、それは地球や宇宙の営みに非常に重要で且つ必要だからです。
必要なければ人類はとっくに絶滅しています。
これは生物多様性ともマッチした話しです。
これを否定するのは自ら『生物ではない』と言っているのと同じです。
産む産まないは別に個人の自由でしょうが、何が正しいかを決めるならば価値観の多様性ではないのです。
『私は宇宙の営みに逆らうが産まない』と言う事です。
価値観の多様性を持ち出し産まないと言う事は、その方は生物ではないので、例えばタンスや靴と同じです。
タンスや靴なら壊しても器物損壊ていどの話しで人でないなら殺人にはなりません。
多様性だの価値観だのを主張して『自由』を謳うなどは正に病です。
多様性・価値観と言う言葉に依存して『私のやることを価値観の多様性を認めなさい』と言って好き勝手にやると言うのは精神的にも未熟で不勉強なだけ。
ただその言葉に依存して好き勝手にやりたい放題の依存症かバカです。
またその多様性依存症の人々は自らを特別な存在と勘違いする方が多いこと。
何も特別な人間ではなく
多様性依存症と言うバカ
ただそれだけ。
で、こういう活動的なバカが増えると世の中無茶苦茶になるので正しいことを考えて決めるのです。
多様性や価値観の違いを理解し認めた上で、我々の社会に必要な事、正しい事を合議する。
これが我々の日本人のオリジナルの民主主義で、それは十七条の憲法にも示されています。
これは対立する意見には一致点を見出せと言う事です。
五箇条のご誓文にもあります。
広く合議をしなさいと。
神話に遡っても八百万の神々だって合議をしているのです。
太陽神である天照大御神から便所の神様まで、個性極まりない神々がいるのです。
好き勝手にやりたい放題では世は乱れ国は成り立ちません。
だから合議をして八百万の神々は天照大御神に奏上するわけです。
そうやって合議をして決めたルールは最低限守りなさいと言う事です。
その合議から外れる事や外れる者を嫌うのが日本民族と言う事ではないでしょうか?
だからこそルールに従えと『同調圧力』なるものがあるのではないか?と思います。
恵まれた環境の中で、多様性を認め協力し分け合う事で生存率を上げて来た民族。
それが日本人でしょう。
逆に収奪してでも生きなければ生存率が低い民族も存在するのです。
多様性や価値観の違いを認めるならば、民族と民族、国と国ならその境目は犯すべからずです。
共産主義思想には『人類は進化し、共産主義となれば国家なる概念は不要で国境など必要ない』とか言うのがあるそうで。
これは多様性や価値観の違いを全く認めないものです。
周りにこの様な事を言う人がいたら、直ぐに公安に通報しましょう!
民主主義国家で共産主義思想は必要ありません。
多様性依存症
あなたの近くにもいませんか?
もちろん多様性と言うのは大事なものです。
しかしそこにも基本的なルールというものがなくてはなりません。
元来日本という国は『多様性』の国で、民族的にもそうなのです。
よく『日本は同調圧力が強い』と言われます。
確かにそう言う側面はあります。
しかし何故同調性を求めるのか?
ここを考えなければ多様性や価値観と言うものの本来の意味を理解する事は難しいのではないでしょうか。
あくまでも私による問題提起として示して行く、毎度の姿勢で考えてみたいと思います。
多様性
多様性とは何ぞや?
幅広く性質が異なる群が存在すること。
などと考えるそうです。
生物多様性、種の多様性などがありますが『いろいろある事』とは違うのです。
多様性があると言う事は大変重要な事で、生物多様性などは様々な環境で様々な生き物が存在することは地球の営みには欠かせません。
人間にしても様々な人種、様々な思想がある事は人類にとって必要であり、種の保存と言う観点からも必要不可欠です。
だからこそお互いを尊重し生存の確立を上げているのだと思います。
この地味ブログでも以前に示しましたが、我々日本民族と言うのはいまから約3万年前に日本列島にたどり着いたのですが、大陸から朝鮮半島を辿った訳ではありません。
今から3万年前は氷河期で、氷に覆われていないのは赤道付近です。
大陸や半島は氷に覆われていました。
そんな厳しい環境をわざわざ通るバカはいません。
何故ならば食料調達が難しいからです。
私見ではありますが、氷に覆われた地域に住んでいた人々は、普通に考えれば食料調達が難しい。
ならば生き延びる為には自ら食料調達すると共に他人から奪う事もしなければなりません。
利己的でなければ生き延びれません。
しかし食料調達が比較的楽ならば奪う必要がありません。
むしろ分け合ったり協力することの方が生存の確立を上げるのではないでしょうか?
この辺りが世界、特に大陸や半島と日本との民族性の違いではないかと思います。
そう考えると半島の事大主義は生き延びる為に必要だったのでしょう。
ともかく、我々日本人は生き延びる為に協力して来たとすれば様々な個性を認め合わねばなりません。
多様性の尊重
正にこれでしょう。
日本には『百姓』と言う言葉がありますが、これは農民を指しているのではありません。
百の姓があると言う意味で『姓』とは、この場合職業を指しています。
つまり数多ある職業をまとめて『百姓』と言っているのです。
我々日本人の神についても神話に遡っても『八百万の神々』と言っています。
これも多種多様な神様がご存在すると言う事。
天照大御神から貧乏の神様、果ては便所にまで神様はいるのです。
この様に我が国はそもそも多様性を重んじる国民性であると言う事です。
何が正しいか
神々の個性や我々日本人の個性や価値観は様々で多様なものです。
だからと言って多様性だけを殊更に強調するならば、民族はバラバラに好き勝手にやりたい放題で社会は無茶苦茶になってしまいます。
ですから我々は先ず『何が正しいのか?』を考え、決めなければなりません。
例えば出産について。
現在でも出産子育ては価値観の違いで産むか産まないかは多様性の問題などとアホな人は言います。
こんなもんは価値観の多様性という問題ではありません。
毎度申し上げておりますが『産むが正しい』のです。
我々は有性生殖動物です。
男と女がいて交配し子孫を残して行く。
これが大前提で、それは地球や宇宙の営みに非常に重要で且つ必要だからです。
必要なければ人類はとっくに絶滅しています。
これは生物多様性ともマッチした話しです。
これを否定するのは自ら『生物ではない』と言っているのと同じです。
産む産まないは別に個人の自由でしょうが、何が正しいかを決めるならば価値観の多様性ではないのです。
『私は宇宙の営みに逆らうが産まない』と言う事です。
価値観の多様性を持ち出し産まないと言う事は、その方は生物ではないので、例えばタンスや靴と同じです。
タンスや靴なら壊しても器物損壊ていどの話しで人でないなら殺人にはなりません。
多様性だの価値観だのを主張して『自由』を謳うなどは正に病です。
多様性・価値観と言う言葉に依存して『私のやることを価値観の多様性を認めなさい』と言って好き勝手にやると言うのは精神的にも未熟で不勉強なだけ。
ただその言葉に依存して好き勝手にやりたい放題の依存症かバカです。
またその多様性依存症の人々は自らを特別な存在と勘違いする方が多いこと。
何も特別な人間ではなく
多様性依存症と言うバカ
ただそれだけ。
で、こういう活動的なバカが増えると世の中無茶苦茶になるので正しいことを考えて決めるのです。
多様性や価値観の違いを理解し認めた上で、我々の社会に必要な事、正しい事を合議する。
これが我々の日本人のオリジナルの民主主義で、それは十七条の憲法にも示されています。
和を以って尊しと為す
これは対立する意見には一致点を見出せと言う事です。
五箇条のご誓文にもあります。
広く合議をしなさいと。
神話に遡っても八百万の神々だって合議をしているのです。
太陽神である天照大御神から便所の神様まで、個性極まりない神々がいるのです。
好き勝手にやりたい放題では世は乱れ国は成り立ちません。
だから合議をして八百万の神々は天照大御神に奏上するわけです。
そうやって合議をして決めたルールは最低限守りなさいと言う事です。
その合議から外れる事や外れる者を嫌うのが日本民族と言う事ではないでしょうか?
だからこそルールに従えと『同調圧力』なるものがあるのではないか?と思います。
恵まれた環境の中で、多様性を認め協力し分け合う事で生存率を上げて来た民族。
それが日本人でしょう。
逆に収奪してでも生きなければ生存率が低い民族も存在するのです。
多様性や価値観の違いを認めるならば、民族と民族、国と国ならその境目は犯すべからずです。
共産主義思想には『人類は進化し、共産主義となれば国家なる概念は不要で国境など必要ない』とか言うのがあるそうで。
これは多様性や価値観の違いを全く認めないものです。
周りにこの様な事を言う人がいたら、直ぐに公安に通報しましょう!
民主主義国家で共産主義思想は必要ありません。
多様性依存症
あなたの近くにもいませんか?