犬神スケキヨ~さざれ石

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考えを巡らせてみて

2016-08-16 15:30:36 | 草莽崛起
8月15日が過ぎましたね。

8月15日はご存知「終戦記念日」です。

まあ、敗戦の調印をした日を終戦記念日だと言う方もおられ、その方の主張も理解出来ます。

しかし、記念日とはその国にとって重要だと考える日を制定するのですから我が国にとっては『玉音放送』のあった日が記念日です。

終戦を広く国民が認識した日が8月15日と言う事なんでしょう。

しかし、私はこの『終戦記念日』という表現には違和感があります。

私は8月15日を『敗戦の日』と認識しています。

終戦というなら、何故「大東亜戦争」だけを記念日とするのでしょうか?

日清や日露の戦争だって終戦していますが、何故それらは『記念日』がないのですかね?

更に、何故71年を経過して今だに『記念日』に式典をやり、鎮魂の黙祷を捧げているのでしょう?

もちろん国の為に亡くなった英霊の方々や、例えば広島や長崎の原爆の犠牲者や沖縄の少女達に、祈りを捧げることは、日本人として当然の事です。

しかし、日清や日露の英霊を慰めるような国を挙げた式典などありません。

戦争を語る時、先の大東亜戦争の話ししか語りません。

これは一体どういう事でしょうか?

直ぐに戦後71年と言って『大東亜戦争』だけを持ち出し話していますが。
戦後と呼べるのはいつ迄でしょうか?
71年経ってもまだ戦後と呼ばねばならんのか?

日清戦後何年とか、日露戦後何年とかは言いませんね。
戊辰戦争から71年後にはいわゆる日中戦争をやってましたよ。

それを今だに戦後何年とか、戦後何年目の首相談話とか、いつ迄やるのでしょうか?
何故、先の大東亜戦争だけを取り上げるのか?

我が国にも、そして他国にも日本が悪かったとして置きたい思惑があるからでしょう。
だからこそ政治家や閣僚の『靖国神社参拝』をマスコミは取り上げるのでしょう。
靖国参拝は我が国の夏の季語ではない!

そして終戦記念日でもない。

終戦記念日とは言葉のまやかしです。
そう言って平和が来たとか悪かった日本が変わったとか言いたいだけでしょう。

その『終戦』の日以降も先達は戦っていました。

例えば占守島や、南樺太、北方四島に満州。
ソ連軍相手に民間人を守る為に戦っていました。
そしてシベリアに抑留されました。

だから終戦ではありません。
敗戦の日です。

そして本当の意味を込めるなら
我が国初の敗戦の日

他の戦争の終戦や戦後について、語らず式典も行われず、戦後談話も、靖国参拝も取り上げないのであれば、それは『勝ったから』としか思えません。

終戦記念日と言うなら、少なくとも明治維新後の戦争の終戦を記念日にしなければ、私個人としては違和感しかない。
日清、日露、更に第一次世界大戦を見て、その英霊にも哀悼の誠を捧げる式典をやらねば納得できません。

ですから、私個人の意見として8月15日は『敗戦の日』ということです。
ですから、ハッキリ申せば『戦勝記念日』をやり、大東亜戦争以前の先達や英霊の功績を称え、鎮魂の祈りを捧げるべきだとも考えます。

そして、いい加減『敗戦』の研究をして冷静に総括しなければならないと思います。
日本は悪かったなどという嘘をいつ迄も前提に考えているから、我が国の安全保障が穴だらけで北朝鮮に拉致された国民を奪還する事が出来ないのです。

憲法・基本法・法律

前置きが長くなりました。
しかしこの前置きは繋がっています。

終戦と言っている事の弊害は我が国の憲法にもあるのです。
「終戦」という言葉を漫然と受け入れているからこそ、我が国の捻じれた矛盾だらけの憲法が正しいと思い込んでしまうのです。

これが『敗戦』と認識していれば、我が国の現憲法が正しいとは思えません。

負ければ、国の根幹すら奪われてしまう

そう認識出来るはずです。

憲法も、敗戦前の帝国憲法も私は間違いだらけだと考えています。
勿論、良き面もあります。
しかし現憲法を見れば我が国の国柄や理念は全く有りはしません。
また、帝国憲法にも開戦や終戦の責任をどうするのか?がなかった、なかったが為に戦争に負けた時の振る舞いが解らなかったのです。
解らないから、現憲法を受け入れてしまったのです。

有名な『我々は原子力の光で温まるよ』という脅しを受けてしまった。
これは米国が書いた憲法を受け入れないなら、もう一発原爆を落とすぞ!という脅しです。

さて、私は憲法改正の立場です。
特に現憲法には国民をどう守るがありません。
だから9条は絶対に改正しなければなりません。

しかし、そこだけではありません。

地方自治やなんやかんや沢山あります。

勿論、良き条文もあります。

しかし、我が国の理念がないのですから、やはり改正しなければならないと思います。

現憲法を国際条約違反だから、破棄して新たな憲法を持つべき!
と、いう意見もありますが、私個人はそうは考えません。
そうすれば、現憲法にぶら下がる法律が変わりますし、何より現憲法そのものを完全に否定してしまいます。
そうなれば、現憲法にぶら下がる法律で営まれた裁判や、経済など我が国の敗戦後の活動そのものまで否定していかねばならなくなって、例えば死刑囚が死刑囚ではなくなったりという問題も出て来るのではないかと危惧するからです。

ですから、少しずつ改正して我が国オリジナルの憲法にして行けば良いと考えます。

その上で我が国の憲法は103条もあるのです。

もう一度、皆さんも全てを読み返して頂けたら解りますが、事細かに書かれています。
しかし、地方自治の部分を見ても「何だかおかしい」です。
それはそうで、アメリカ人がアメリカ人の考える憲法を英語で書いて、それを翻訳した程度の憲法ですから、文章そのものが既におかしいのです。

しかも地方自治など、連邦制でもない我が国に連邦制の地方自治を持ち込んでいるのですから、おかしい事になります。
だから、翁長や舛添みたいな首長が出てくるのです。

我が国の憲法は103条も必要ありません。

アメリカ人が言うConstitutionとは違います。

我が国の憲法は行動規範を示せば良いのです。

そうすると条文は103条も必要ありません。

20条もあれば充分
いや、多いかもしれません。

英語で訳される憲法と言う意味のConstitutionと我が国の理念としての憲法は意味が違います。
またアホの左翼がよく言う「立憲主義」なども我が国には合いません。

立憲主義の根本は、王様が居てその王様が好き勝手やって国を立ち行かなくしないように縛るのが「立憲主義」の根本的な考えです。
我が国には絶対君主などいません。

我が国の天皇は絶対君主などでもありません。
「不親政」を貫き、民こそが大事と考える人です。
だからこそ京都にある御所は砦も掘りもなく、低い塀があるだけ。
民の為にこそ祈り、生きる我が国の皇帝の命を狙う様なバカな国民はいないからです。

我が国の憲法の根本は十七条憲法五箇条の御誓文だったりするのです。

十七条憲法にしても、最初と最後は中味が被ってたりします。

そう考えれば、103条も必要ありません。

ではどうするのか?

私の答えは憲法・基本法・法律と言うことです。

憲法では行動規範のみを条文にすれば良い。

例えば、十七条憲法にある「和をもって尊しとなす」です。
これが条文ならば、そこに基本法をぶら下げれば良い。

例えば安全保障の部分なら国家は国民の安全と幸福、生命財産を守ることとすれば良い。
そして、その下に「どうやって守るのか?」を基本法としてぶら下げれば良いのです。

そしてその基本法を基に、今なら自衛隊法や警察法などをぶら下げれば良いのではないかと考えます。

だいたい、我が国の憲法は読んでも理解出来ません。
憲法学者が捏ねくり回して解釈せねばならない憲法そのものが既に間違いなんです。

例えば、米国大統領の演説。
これは英語の勉強になるほどの中味です。
それは何故かと言えば「義務教育終了程度の学力」で理解出来なければならないと言う前提に立っているからです。

しかし我が国の憲法は無理です。
たとえ大卒であっても、ある種の知識がなければ容易に解釈出来ません。
ある種の知識も学力もない私など、理解する為に必死になってしまいます。
それでも理解し難い。

そんな憲法はいらない!

義務教育終了者ならば、誰もが理解出来なければ憲法の意味はありません。
携帯電話の取説すら理解出来ない私の母は現憲法が全く理解出来ません。

そんな憲法ならば必要ありません。

誰もが理解出来る様に「行動規範」のみを憲法とし、その憲法理念をどう実現し実行するのかなどは基本法をぶら下げれば良いのです。

そうすれば憲法学者なんか必要ありません。
捏ねくり回して解釈するだけで、何の能力もない憲法学者なんか必要ありません!

あんなもので飯が食えるのですから、誰でも出来ます。
国民の命も財産も守らずに、違憲か合憲かなんて捏ねくり回しているだけですから、私でも出来ます。

国家は何をするべきか?

それだけあれば充分です。

もう一度、憲法と我が国の理念を考え直しても良いのではありませんか?

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