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大日本帝国の国家戦略~5

2016-04-24 16:33:53 | 大日本帝国
前回は大がかりなリストラが、日本を活性化させた事に触れました。

今回は最先端技術導入について見てみます。

西洋文化の吸収

富国強兵プロジェクトが成功した要因に我々の先達の好奇心があったと思います。

当時の日本人の好奇心。
「西欧の事を知りたい!学びたい!」という姿勢があったのだと思います。

元来、我々日本人は世界でも珍しい程の好奇心旺盛な民族なのです。

幕末、日本は「黒船の来航で目覚めた」と言われます。

しかし、果たしてそうでしょうか?

幕府や諸藩の中には外国の情報を熱心に集めていた者も沢山いました。

黒船来航前から、欧米の文明やアヘン戦争などの情報はありました。
高杉晋作などは直接、支那にてアヘン戦争を目の当たりにし、白人による植民地支配を最も危惧していました。

江戸時代、鎖国していたとされるものの、実際には出島など外国に解放されておりオランダなどとは交易がありました。
そこを窓口に世界情勢を収集していた。

オランダ語やオランダの技術を学ぶ「蘭学」は江戸時代の流行の学問でもありました。

この蘭学からも多くの西洋情勢がもたらされました。

大阪で適塾を開き日本で初めて天然痘予防を行なった緒方洪庵や、幕末に咸臨丸で渡米航海を成功させ、戊辰戦争(本来は戊辰の役)で江戸無血開城に尽力した勝海舟も蘭学を修めていました。

黒船来航で「欧米の事を知りたい」という日本人の好奇心はますます高まりを見せました。

外国への渡航が禁じられていたにもかかわらず、長州藩の吉田松陰は黒船に密航しようと捕縛された話は有名ですね。
薩摩や長州は秘密裏に欧州へ留学生を派遣しています。
あの伊藤博文も幕末にイギリス留学しています。

外国に目を向けたのは志士や藩だけではありません。

幕末明治の日本は「万国博覧会」に参加しています。

世界初の万国博覧会が開かれたのは1851年、その僅か16年後、パリで開かれた1867年万国博覧会に日本は正式出品しています。

当時はまだ幕府が倒れる前、日本政府の代表として幕府が出品したのです。

このパリ代表団の中に渋沢栄一もいました。
渋沢栄一は「日本資本主義の父」と呼ばれる人物ですね。

代表団は万博終了後も当地に一年ほど留まり、ヨーロッパ中を見聞しました。

渋沢栄一は鉄道、各種工場、造船所、製鉄所、銀行などを精力的に見学します。
「二時間で14万枚印刷する」というタイムズ新聞、イングランド銀行では金銀貨幣の貯蔵所なども見て回っています。

これが後の明治日本の経済社会に役立ったことは想像に難くありません。

明治政府として初めて出品したのは1873年のウィーン万国博覧会。

大隈重信(早稲田大学創設)を代表に据え、政府の威信をかけて展示しました。

展示品の中には鎌倉大仏の原寸大模型までありました。
あの巨大な鋳造物が展示会場に置かれたのです。
さぞやヨーロッパ人を驚かせたことでしょう。

名古屋城の金のシャチホコも展示されました。

当時此れ程、万国博覧会に積極的に参加した国はアジアでは日本だけです。
中国も1873年ウィーン万国博覧会に出品していますが、これは商人が取り仕切ったもので国家代表ではありません。
国家として正式に参加したのは、日本に遅れること10年。
1876年フィラデルフィア万国博覧会から。
清は日本より随分早く開国していたにもかかわらずです。
如何に国家としての体をなしていなかったか?
そういうことです。

しかしこれは清だけではありません。
アジア諸国はどこもそうです。
何しろ白人達の権益だった訳ですから国家の体を全くなしていません。

日本だけが、鋭敏に欧米へアンテナを張っていたという訳です。

岩倉使節団

日本人の好奇心、アンテナ気質が最も表れているのが岩倉使節団と言えるでしょう。

岩倉使節団は、右大臣の岩倉具視を特命全権大使とする使節団です。

不平等条約改正の下準備と欧米技術や文明を視察する目的で2年近くにわたってヨーロッパやアメリカに滞在しました。

しかし、時期的にみて、それは大冒険でもありました。

岩倉使節団が海を渡ったのは明治4年。
まだ維新の混乱が収束していない最中です。

そんな重要な時期に、政府の中枢が国を空け、長期間視察旅行に出かけたのです。

政府の中枢メンバーが長期間、視察行脚をするなど世界的にも例はありません。

当時の日本人はそれ程に「状況把握」を重要視していたのです。

岩倉使節団は特命全権大使に岩倉具視、副大使に長州木戸孝允、薩摩大久保利通、長州伊藤博文、山田顕義、土佐佐々木高行ら全部で46名。

留学生として派遣される青少年43名と随行員、合わせて総勢107名。

岩倉使節団は、まずサンフランシスコに上陸。
横断鉄道で首都ワシントンに赴き、その後イギリス、フランス、ベルギー、オランダ、ドイツなどを訪問しました。

一行はアメリカの豪勢なホテル設備、イギリスのリバプール造船所、グラスゴーの製鉄所、上水道、下水道の整備された街並みなど、欧米の科学技術の最先端を見て回りました。

岩倉使節団の面々は産業の発達には、鉄道などのインフラ整備、教育制度の充実が欠かせないと感じました。

岩倉使節団に参加した者の多くは帰国後、国の中枢となって国家建設に従事しています。

大日本帝国が素早く欧米文明を取り入れたのは、この岩倉使節団の功績が大きいと言えるでしょう。

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