1996年
ペリリューの激戦に参加した二人の米国元軍人を迎えて、靖国神社でシンポジウムが開かれました。
その席上で千葉大学名誉教授の清水氏が、この元軍人に質問をぶつけます。
「日本は大東亜戦争でアジア諸国を全て解放したが、この偉業をどう思うか?」
この質問にコードリン・ワグナー氏は回答します。
「私は太平洋戦争にそれ以上の価値を見出しているものがあります。それは日本軍人の忠誠心です。太平洋の島々で玉砕するまで戦い、特攻隊まで繰り出した。祖国に対する忠誠心。その名誉は数千年の価値をもって語り継がれるでしょう。」
このシンポジウムにワグナー氏と共に参加していたエド・アンダウッド氏も語ります。
「日本軍は、勝てないとわかっている戦争を最後まで戦い抜いた、しかもその内部では反乱は起きず、誰も投降すらしない。その忠誠心は天皇の力だと知ってペリリュー島を『天皇の島』と名付けました。」
激戦
ペリリュー島の戦いは、硫黄島の戦いと並び称される太平洋方面の激戦であります。
激闘は実に73日間にも及びました。
南太平洋のパラオ諸島内にある面積20平方キロの珊瑚礁で出来た小島です。
1543年
スペインが発見して統治します。
1899年
ドイツがこれを買収。
その後1919年に日本の統治下に入り1947年にアメリカの支配下に置かれました。
大東亜戦争中、日本軍はここにフィリピン防衛の為の飛行場を建設しました。
1944年攻勢に出てきたアメリカ軍はフィリピン攻略への懸念となるペリリュー島を陥落させるべく総兵力42000人、約800隻の艦艇を出撃させました。
ペリリューの人々
ペリリュー島の人々は白人統治時代と日本統治時代の両方を経験しています。
ペリリュー島の人々は日本統治時代がいかに良いものであるかを知っています。
島民は老若男女問わず、日本軍と仲良くなり互いに信頼していました。
飛行場の建設を手伝ったり、その合間に日本の歌や文化を教えてもらったりしては共に笑い合ったり。
中川邦男陸軍大佐は島民を戦火に巻き込むまいと、船舶をかき集め、空爆の少ない夜間に島民を全員パラオ本島に避難させました。
ペリリュー島の人々は「我々も日本軍人と共に戦うから、何でも手伝いをさせて欲しい」と言ったのです。
しかし日本軍は「天皇陛下の日本軍人が、お前達の様な土人と一緒に戦えるか!」そう答えます。
ペリリュー島の人々は大変ショックを受けます。
あれほど一緒に歌い、一緒に笑い合った、あの日本人が手のひらを返した様な態度…
「やはり…日本人も白人と同じか…」
そしてペリリュー島の人々を乗せた船はペリリュー島を離れて行く。
港に日本人の見送りはない…
失意の中、離れて行く島。
ふと見ると、大声を上げ、千切れんばかりに手を振る日本軍人が現れました。
歌いながら、叫びながら、離れて行く島民に手を振る日本軍人。
ペリリュー島の人々は気がついたのです。
「そうか!日本人は我々島民の命を救う為に、巻き込むまいと敢えてあの様な事を言ったのか…」
日本軍人の心に触れた人々は「これが日本人か…」そう思うのです。
そして、もう生きては帰れぬ覚悟をした日本軍人の真意を知るのです。
ゲリラ戦
ペリリュー島に徹底的な艦砲射撃と空爆を浴びせるアメリカ軍。
1944年9月15日遂に上陸します。
当初、数日で落とせると楽観視していたアメリカ軍は手痛い打撃を受ける事になります。
中川邦男陸軍大佐は、これまで水際で敵軍を迎え撃とうとしては艦砲射撃や空爆で撃滅されてきた日本軍の教訓から、島の奥深くまで洞窟を掘り要塞を築くのです。
その為、アメリカ軍の艦砲射撃は日本軍に致命傷を与えるに至りません。
洞窟から出ては消える。
神出鬼没のゲリラ戦の前に、アメリカ軍は大打撃をくらい二度も上陸に失敗します。
この激戦の海岸を戦後アメリカ軍はオレンジビーチと名付けます。
この美しい珊瑚礁の海が、アメリカ兵の血でオレンジ色に染まったからです。
このペリリュー島の戦法は後に栗林忠道中将に受け継がれ、硫黄島でアメリカ軍を寒からしめる鬼神の如き戦いをします。
補給もない日本軍は、物量に勝るアメリカ軍に日に日に押されていきます。
そして73日を経過した時、残る兵力は僅か五十数名。
11月24日
中川邦男陸軍大佐以下3名は割腹自決。
最後の電文サクラ・サクラが打電されました。
これは一切の機密書類などを焼却し
これから桜花の如く玉砕するという意味です。
この打電を終え、満身創痍の日本軍人はアメリカ軍めがけて最後の突撃を敢行。
アメリカ海兵隊公刊戦史は「日本の斬り込み隊の一団は、米軍の包囲網を突破できず、24日の夜から27日7時頃までの間に米軍と激しく交戦、全員玉砕」と伝えています。
米太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ提督は自著の中でペリリュー島の激闘を振り返っています。
「ペリリューの複雑極まる防備に打ち勝つには、米国の歴史に於ける他のどんな上陸作戦にも見られなかった最高の戦闘損害比率40%を甘受しなければならなかった。既に制海権、制空権を持っていた米軍が、死傷者合わせて1万人を超える犠牲者を出して、この島を占領した事は今もって疑問である。」
ペリリュー島の戦いが終結してから、パラオ本島から島民達が帰ってきました。
そして日本軍人の遺体を見て泣き出した…
アメリカ人は、日本人の遺体には見向きもせず、自国兵の遺体だけを整理した。ここに征服民族の本性を見たのです。
ペリリューの人々は島民一丸となって日本軍人の遺体を手厚く葬ってくれました。
1982年
日本人有志の手によってペリリュー神社が創建されました。
更にペリリュー戦50周年にはニミッツ提督の言葉と伝えられる詩碑が建立されます。
諸国から訪れる旅人たちよ。この島を守るために、日本軍人がいかに勇敢な愛国心をもって戦い、そして玉砕したか伝えられよ」
建立式には現地からも多くの人々が集まり式典を歓迎しました。
ペリリュー島の人々は、今尚親日感情が強い。
「日本という国は何千年来の伝統を持ち、独自の文化を創り上げてきた。その結晶が天皇と教育勅語だ」
そう語るのはトヨミ・オキヤマという名前を持つ現地女性です。
1981年パラオ諸島はアメリカから念願の独立を果たします。
独立国家として必要なものに国旗があります。
パラオ島民にデザインを公募し、選ばれたのは
日本の日の丸と同じデザインです。
日の丸は白地に赤。
パラオ共和国は青地に黄色。
パラオ共和国民はこう語ります。
「日の丸の部分が黄色なのは月を示します。青地はパラオを囲む海。月は太陽がないと光輝く事はできません。太陽とは即ち『日本』、ペリリュー島の戦いで戦死した一万を超える日本の戦没者達は、国を愛する心と勇敢ささえあれば、アメリカよりも強くなれる事を我々に教えて散ったのです」
我々の先輩は武士道のこころをペリリューの人々に見せたのでしょう。
ペリリューの激戦に参加した二人の米国元軍人を迎えて、靖国神社でシンポジウムが開かれました。
その席上で千葉大学名誉教授の清水氏が、この元軍人に質問をぶつけます。
「日本は大東亜戦争でアジア諸国を全て解放したが、この偉業をどう思うか?」
この質問にコードリン・ワグナー氏は回答します。
「私は太平洋戦争にそれ以上の価値を見出しているものがあります。それは日本軍人の忠誠心です。太平洋の島々で玉砕するまで戦い、特攻隊まで繰り出した。祖国に対する忠誠心。その名誉は数千年の価値をもって語り継がれるでしょう。」
このシンポジウムにワグナー氏と共に参加していたエド・アンダウッド氏も語ります。
「日本軍は、勝てないとわかっている戦争を最後まで戦い抜いた、しかもその内部では反乱は起きず、誰も投降すらしない。その忠誠心は天皇の力だと知ってペリリュー島を『天皇の島』と名付けました。」
激戦
ペリリュー島の戦いは、硫黄島の戦いと並び称される太平洋方面の激戦であります。
激闘は実に73日間にも及びました。
南太平洋のパラオ諸島内にある面積20平方キロの珊瑚礁で出来た小島です。
1543年
スペインが発見して統治します。
1899年
ドイツがこれを買収。
その後1919年に日本の統治下に入り1947年にアメリカの支配下に置かれました。
大東亜戦争中、日本軍はここにフィリピン防衛の為の飛行場を建設しました。
1944年攻勢に出てきたアメリカ軍はフィリピン攻略への懸念となるペリリュー島を陥落させるべく総兵力42000人、約800隻の艦艇を出撃させました。
ペリリューの人々
ペリリュー島の人々は白人統治時代と日本統治時代の両方を経験しています。
ペリリュー島の人々は日本統治時代がいかに良いものであるかを知っています。
島民は老若男女問わず、日本軍と仲良くなり互いに信頼していました。
飛行場の建設を手伝ったり、その合間に日本の歌や文化を教えてもらったりしては共に笑い合ったり。
中川邦男陸軍大佐は島民を戦火に巻き込むまいと、船舶をかき集め、空爆の少ない夜間に島民を全員パラオ本島に避難させました。
ペリリュー島の人々は「我々も日本軍人と共に戦うから、何でも手伝いをさせて欲しい」と言ったのです。
しかし日本軍は「天皇陛下の日本軍人が、お前達の様な土人と一緒に戦えるか!」そう答えます。
ペリリュー島の人々は大変ショックを受けます。
あれほど一緒に歌い、一緒に笑い合った、あの日本人が手のひらを返した様な態度…
「やはり…日本人も白人と同じか…」
そしてペリリュー島の人々を乗せた船はペリリュー島を離れて行く。
港に日本人の見送りはない…
失意の中、離れて行く島。
ふと見ると、大声を上げ、千切れんばかりに手を振る日本軍人が現れました。
歌いながら、叫びながら、離れて行く島民に手を振る日本軍人。
ペリリュー島の人々は気がついたのです。
「そうか!日本人は我々島民の命を救う為に、巻き込むまいと敢えてあの様な事を言ったのか…」
日本軍人の心に触れた人々は「これが日本人か…」そう思うのです。
そして、もう生きては帰れぬ覚悟をした日本軍人の真意を知るのです。
ゲリラ戦
ペリリュー島に徹底的な艦砲射撃と空爆を浴びせるアメリカ軍。
1944年9月15日遂に上陸します。
当初、数日で落とせると楽観視していたアメリカ軍は手痛い打撃を受ける事になります。
中川邦男陸軍大佐は、これまで水際で敵軍を迎え撃とうとしては艦砲射撃や空爆で撃滅されてきた日本軍の教訓から、島の奥深くまで洞窟を掘り要塞を築くのです。
その為、アメリカ軍の艦砲射撃は日本軍に致命傷を与えるに至りません。
洞窟から出ては消える。
神出鬼没のゲリラ戦の前に、アメリカ軍は大打撃をくらい二度も上陸に失敗します。
この激戦の海岸を戦後アメリカ軍はオレンジビーチと名付けます。
この美しい珊瑚礁の海が、アメリカ兵の血でオレンジ色に染まったからです。
このペリリュー島の戦法は後に栗林忠道中将に受け継がれ、硫黄島でアメリカ軍を寒からしめる鬼神の如き戦いをします。
補給もない日本軍は、物量に勝るアメリカ軍に日に日に押されていきます。
そして73日を経過した時、残る兵力は僅か五十数名。
11月24日
中川邦男陸軍大佐以下3名は割腹自決。
最後の電文サクラ・サクラが打電されました。
これは一切の機密書類などを焼却し
これから桜花の如く玉砕するという意味です。
この打電を終え、満身創痍の日本軍人はアメリカ軍めがけて最後の突撃を敢行。
アメリカ海兵隊公刊戦史は「日本の斬り込み隊の一団は、米軍の包囲網を突破できず、24日の夜から27日7時頃までの間に米軍と激しく交戦、全員玉砕」と伝えています。
米太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ提督は自著の中でペリリュー島の激闘を振り返っています。
「ペリリューの複雑極まる防備に打ち勝つには、米国の歴史に於ける他のどんな上陸作戦にも見られなかった最高の戦闘損害比率40%を甘受しなければならなかった。既に制海権、制空権を持っていた米軍が、死傷者合わせて1万人を超える犠牲者を出して、この島を占領した事は今もって疑問である。」
ペリリュー島の戦いが終結してから、パラオ本島から島民達が帰ってきました。
そして日本軍人の遺体を見て泣き出した…
アメリカ人は、日本人の遺体には見向きもせず、自国兵の遺体だけを整理した。ここに征服民族の本性を見たのです。
ペリリューの人々は島民一丸となって日本軍人の遺体を手厚く葬ってくれました。
1982年
日本人有志の手によってペリリュー神社が創建されました。
更にペリリュー戦50周年にはニミッツ提督の言葉と伝えられる詩碑が建立されます。
諸国から訪れる旅人たちよ。この島を守るために、日本軍人がいかに勇敢な愛国心をもって戦い、そして玉砕したか伝えられよ」
建立式には現地からも多くの人々が集まり式典を歓迎しました。
ペリリュー島の人々は、今尚親日感情が強い。
「日本という国は何千年来の伝統を持ち、独自の文化を創り上げてきた。その結晶が天皇と教育勅語だ」
そう語るのはトヨミ・オキヤマという名前を持つ現地女性です。
1981年パラオ諸島はアメリカから念願の独立を果たします。
独立国家として必要なものに国旗があります。
パラオ島民にデザインを公募し、選ばれたのは
日本の日の丸と同じデザインです。
日の丸は白地に赤。
パラオ共和国は青地に黄色。
パラオ共和国民はこう語ります。
「日の丸の部分が黄色なのは月を示します。青地はパラオを囲む海。月は太陽がないと光輝く事はできません。太陽とは即ち『日本』、ペリリュー島の戦いで戦死した一万を超える日本の戦没者達は、国を愛する心と勇敢ささえあれば、アメリカよりも強くなれる事を我々に教えて散ったのです」
我々の先輩は武士道のこころをペリリューの人々に見せたのでしょう。
知ってましたが、改めて読むにつれ、止めどなく
汁が目から流れてきます。
やはり、大正の世代は、不幸であったが敬意と尊厳を
我々に身を持って示して頂いた世代であると痛感しまさした。