犬神スケキヨ~さざれ石

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るろうに…

2015-12-27 13:30:27 | 維新の剣
年末に至り、とんでもない話しが出てきましたね。
ここへ来て日韓協議で慰安婦問題に妥結する。

以前から出ていた話しではありましたが…

これは今現在独自調査中です。
今解ることは、散々色々話しが出て来てますが、殆どが日本側からのリークの様です。

その意図はなんであるか?

又、機会を設けて自著ブログにアップしようと思います。



今回は幕末の剣士を紹介

以前にこのブログにて「山岡鉄舟」を紹介しましたね。

今回はご存知の方はご存知。

知る人ぞ知る剣士を取り上げてみます。

いつもと違うぞ?
と、感じる方もおられるでしょうが、幕末は現代日本に繋がる重要な時代であり当時の人々の振る舞いから日本の違う側面もみてみよう!

そんな試みです。

まぁ、気軽に読んでみて下さい。

るろうに剣心



佐藤健主演のるろうに剣心をご覧になった方もおられるでしょう。

自分も全部見ました。

明治となった世で、人斬りで名を馳せた剣士が殺さずの誓いを立て「逆刃刀」なる腹が峰、反りが刃の刀で明治の世で生きるという話しですね。

主人公の名前は緋村剣心。

この緋村剣心にはモデルがいたようです。
その人物とは?

出自は僧侶?

その人物の名前は

河上彦斎(かわかみげんさい)

幕末の砲術、蘭学の権威であり勝海舟の義理の兄であり坂本龍馬とも交流もあった。
佐久間象山を斬った男として有名です。

幕末四大人斬りの一人でもあります。

この男、ゴリゴリの尊皇攘夷思想者。

攘夷の為なら鬼にも悪魔にもなる程の男です。
幾多の人斬りに加担したのも、その崇高な目的の為であるという話しです。

この河上彦斎はビジュアルは丸で女の子の様な出で立ちです。

背も低く、当時の日本男子の平均身長が150~155cm程度の時代に150cmなかったとも言われています。
細身で色白。

歌舞伎の女形でもいけそうな美形であったようです。

どうやら出自は僧侶だったようで、到底血生臭い荒事とは最も縁のないはずです。

しかし、江戸時代の二百数十年を太平で過ごして来た武士の世で野性味をすっかり失った者よりは余程か肝は据わっていた。

そんな胆力を見せたのが後の騒乱の幕末へと向かう契機となった事件での事でした。

桜田門外の変

桜田門外の変が起こったのが万延元年(1860)の3月3日。

この時、河上彦斎は熊本藩家老付の坊主として、江戸城和田倉門付近の藩邸にいました。

そこに大老・井伊直弼を襲撃した直後の浪士達が訪れました。

あちこちに刀傷を帯び、更に返り血で血まみれ。
殺気だった表情に大勢いた熊本藩士はビビってしまい誰一人対応に出ない。

そんな状況で河上彦斎ただ一人が落ち着き払って彼らの前に出て事情を聞くのでした。

そこで「井伊直弼を暗殺した」と浪士達の口から明かされると藩邸内は更に騒然となりました。
江戸で大規模な争闘事件が起きるのは赤穂浪士事件以来です。

その当事者が目の前に現れたのですから藩士達は混乱状態です。
思考停止に陥り、浪士達を玄関先に放置状態。

正義漢で、坊主のクセに短気でもあった河上彦斎は藩士達の不甲斐ない態度にキレた!

「我が藩を頼って来た者を捨ておけません!礼を尽くして遇するべきです!」

医者を呼び、自らも付きっ切りで介抱しました。

河上彦斎の献身さに浪士達も彼には心を開き語りあったと言います。

この一件で河上彦斎は藩士達からも一目置かれ、勤王志士の間でも知られる存在となりました。
その後、僧侶から志士へ華麗に転身するのでした。
そして騒乱の京都に現れた。

井伊直弼襲撃の浪士達と語り合う中で感化されたのでしょうか?

いやいや!元々この男にはその志向があったのです。

幼少の頃からバリバリの勤王派であった国学者である林桜園に学んだ筋金入りの勤王派。
かなり本気の尊皇攘夷思想者です。
そもそも純粋無垢な男だけに尊皇攘夷思想を植え付けると恐ろしい。

背信者には鬼となり、何ら良心の呵責もなく平然と斬り殺す危険極まりない始末に負えない。

剣は我流の変則殺法

河上彦斎の剣はどこで修業したのか不明です。
しかし、かなり腕はたつ。

我流とも言われますが、その太刀筋はかなり独特なスタイルでありました。

映画「るろうに剣心」で主人公が見せた必殺剣はググッと腰を低く落とし、下から上に鋭く斬りあげる。

この河上彦斎もまた同じようなスタイル。

右手一本で持った剣を低い体勢のから相手を斬る。
剣はググッと地を這う様に相手の急所を狙う。

身長が低いと言う不利を有利にする為に考え出した様です。

このあたり映画とよく似てますね。

こんな太刀筋は、初めて対戦する相手はかなり戸惑いますね。

初戦なら必殺剣となります。

殺し合いの真剣勝負では二回目はありませんから、真剣勝負の場では変則殺法は相手にとって防御不能な技でしょうね。

目にも止まらぬ

河上彦斎が斬り殺した人物で最も有名なのが佐久間象山です。

佐久間象山と言えばあらゆる学問や西欧の知識に精通した天才です。

この頃一橋慶喜後の15代将軍徳川慶喜のブレーンとなって「公武合体」に奔走していました。
蘭学に精通していたこともあり、攘夷主義者にとって「西洋かぶれ」した忌むべき人物。

過激な尊皇攘夷思想の河上彦斎にとって殺す理由に値する。

しかし、この佐久間象山という人物ただの青白い学者ではありません。

剣術の心得もある。
風貌も態度もデカイくて迫力満点。
並みの剣客ならば一喝されただけで退散。

暗殺のその日も佐久間象山は三条通りのど真ん中を馬に乗り大威張りで闊歩していました。

この態度のデカさに義理の弟である勝海舟は「いつか狙われますよ」と注意していました。

そこへ「天誅!」と先ずは仲間の浪士三人が抜刀して立ちはだかる。

「うるさい!邪魔するな!」

ハエでも払うかの様に二人を鞭で打ち払う佐久間象山。
落ち着き払った態度で馬を走らせる。

まるで役者が違い過ぎた。

当初の計画では二人の浪士が佐久間象山を馬から引きずり落とし、そこへ物陰に隠れていた河上彦斎が飛び出して仕留める。
はずだったのですが…

このままでは逃げられる!

「いかん!」

焦った河上彦斎はすぐさま飛び出し、佐久間象山の馬の前に立ちはだかるのです。

佐久間象山、またもや鞭の一撃で刺客を撃退しようとした。

しかし河上彦斎の方が早かった!

瞬時に抜刀し佐久間象山の横を駆け抜けた!

佐久間象山の脇腹は鮮血染まっていました。
腸まで達する深手!

致命傷です。

佐久間象山、苦しい息を吐きながらも尚、強気で凄む!

しかし河上彦斎には効果なし。

更にもう一太刀。

同じ様に佐久間象山の横を駆け抜ける。

二の太刀は更に深く落馬した佐久間象山は既に絶命していました。

熟れる前に千切るべし!

河上彦斎の人斬りは趣味でも仕事でもない。

己が信じる思想の為にこそ斬るのです。

見た目は小柄で華奢。
大人しく思慮深く見える風貌。

しかし、本当は気の短い男です。

志士たちが集まる酒の席では、佐幕派や開国派の者達の話が酒の肴になるもんです。

「あいつは奸賊だ」とか「西洋かぶれ」だとか散々悪口を言って最後には「あいつはいつか斬らんといかん」と。
最後には欠席裁判というオチがつく。

そんな仲間との話しを黙って聞いていた河上彦斎はふらっと一人出ていく。

暫くして彼が戻って来た時には仲間達の顔が凍りつくのです。

さっき話題になった奸賊の首をぶら下げているではありませんか。

「酒飲んでる暇に斬らねばならん相手をさっさと斬って来い」

ある時に仲間から「お前は人を殺し過ぎる」と窘められた際には「君だって野菜は熟れすぎる前に千切ってしまうだろ?それと同じだ。ヤツらをいつまでも生かしておいてはダメだ。早く首を千切ってやる方が良い」と返すのです。

河上彦斎は慶応3年帰郷したところを、当時は佐幕派だった熊本藩に捕らえられ投獄されてしまいます。

しかし時の情勢が一気に薩長有利に傾くと、熊本藩は一転倒幕派にシフトチェンジ。

河上彦斎も出獄し、熊本藩兵を率いて戊辰戦争を戦いました。

遂に明治維新を迎え、戊辰戦争で西欧の最新兵器に触れた武士達に最早攘夷などと叫ぶ者は一人としていない。

坂本龍馬が示した新政府綱領の様に西欧列強に対抗できる新しい国造りを目指す世になった。

その中で未だ「幕府を倒した!後は攘夷を断行するのみ!」と叫ぶ河上彦斎。

激動の時代です。人の思想も信念もコロコロ変わるのです。
むしろ幕府を困らせる為の方便としか考えない者もいたのです。

その新たな時代を迎えた明治の世に「攘夷断行」を迫る河上彦斎。
この時代遅れの熱い男にさすがの明治新政府も困り果ててしまいます。

なまじ剣の腕もたち始末に悪い。

そのうち一人で攘夷断行をし、外国人大量殺戮なんてされてはたまりません。

長州出身の木戸孝允(桂小五郎)は一時期は京で一緒に行動していた時期もあったことから、河上彦斎のことを良く知る人間でもありました。
しかし助けるどころか「放置すれば、国を壊しかねん!あの男だけは適当な罪を付けて早く始末してしまえ」と処刑を命じてます。

河上彦斎

その純粋な心
剣の腕

敵に回すと此れ程に恐ろしい存在はありません。

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