今回はブロガー企画になります。
連携いたしておりますブロガーさんに同じテーマでブログをアップして頂きます。
人それぞれ違う見解、違う意見があります。
そのそれぞれ違う意見から一つの事に対して、様々な角度から考えてみよう!
そんな感じです。
今回は『いじめ』について考えてみたいと思います。
私は個人的に、よくニュースなどで見聞きするいわゆるいじめと呼ばれるものは『いじめではない』と思います。
そもそもいじめとは何なのか?と思います。
子供の世界だけでなく大人の世界にも『いじめ』はあるのでしょう。
しかし、子供の世界のいじめを見聞きすると『はて?それはイジメなの?』と思います。
例えば、怪我をする程の暴力。
つい最近も沖縄で一方的に殴る蹴るの暴力を与える動画をアップして問題となっていましたね。
例えば、金銭を要求する。
横浜で福島から自主避難していた子供に同級生が金銭を要求し150万も使わせたとか。
コレ、いじめなんですか?
普通、我々が暮らしていて此れらの事態に遭遇したら事件ですよ。
一方的に暴力を受けたなら『暴行傷害』事件
金銭を要求されたら『恐喝』
普通はそう考えます。
それが『いじめ』なる言葉にする。
沖縄の暴行動画は親御さんが警察に『傷害事件』として被害届けを出したそうです。
しかし、横浜の場合は皆さんもご存知と思いますが教育委員会で『いじめ』ではないと結論付けました。
しかも事件にすらしていない。
150万もの金は『いじめから逃れる為に奢った』という結論です。
それは大人の世界な明らかな恐喝だぞ!
いじめを苦に子供為が簡単に『死』を選ぶ。
その度に
そこまで追い込まれなければならない理由は何だ?周りは助けられなかったのか?
自殺して問題になり、大人達は慌てます。
学校の対応が、教師の対応が、親の対応が…
そんな問題が常に取り沙汰されるけれども、いじめは無くならず毎年数件いじめを苦に子供は自ら死を選ぶ。
まだ若い、余りにも若い年齢で先の人生に失望し自ら死を選ぶのです。
大人達はいじめを目にしても、何故か『それは子供達の世界の話し』として考える。
子供達は人生の経験が浅い。
だから将来を考えることが出来ない。
この先の人生に失望して死ぬ。
大人達は子供達の考え方がわからず、理解しようともしない。
子供達が死を選んだ理由が人生の経験が邪魔をして全く理解出来ない。
子供達の世界は子供達の世界ではあるけれど、そこで起こった事はいじめ等というものではなく犯罪行為です。
犯罪行為は人権を踏みにじるものです。
子供達の世界で起こった犯罪を大人達は『いじめ』と言って誤魔化している。
それは大人達が子供達の世界で起こった犯罪を見て見ぬふりをしている。
犯罪だと認めたくはない。
もし、犯罪だと認めれば犯罪を未然に防げなかった責任を問われてしまう。
子供達は『いじめ』が犯罪だと教えられていないし、それが人権を踏みにじる行為だなんて考えたこともなければ教えられてもいない。
マスコミの報道を見ても此れらを犯罪だとは報道しません。
死んだ子供の親にしても、そのいじめが犯罪だと気が付いていない。
つまり大人は何も解っていないのです。
つまり全く理解出来ない、出来ていない大人が『いじめ』に対応するなど不可能なのです。
私の同級生の話しです。
私が中学生の頃に私の同級生が殺されました。
犯人はその同級生の両親です。
同級生は学校に来ていませんでした。
彼は『いじめ』にあっていた。
それは後に知ったのです。
いじめに絶えかねた彼は、自ら死を選ぶことはありませんでした。
彼がいじめから逃れる方法は『登校拒否』でした。
私はこの選択を支持します。
自ら死を選ぶよりも、生きる事を選んだ。
死ねば全て終わってしまうけれど、生きていれば彼には将来選ぶ道も見つかる。
しかし、彼は家庭内で荒れていた。
親や兄弟に暴力を振るう様になっていたのです。
いじめがあったけれど、学校も教師も仲間も全く対応しなかった。
また、親御さんも対応出来ていなかった。
彼は自身に起きていることに苛立ちもあったと思います。
何せ人権を踏みにじられているのですから…
しかし、大人達はこれが理解出来ないのです。
自身を弱い人間だと、彼は思ったのかも知れないし、自身の将来も見えなかったでしょう。
その葛藤が『家庭内暴力』と言う形で表れたのではないかと私は思います。
連日、繰り返される息子の暴力。
もう手も付けられず、どうして良いかわからぬ両親。
遂に疲れ果てた両親が取った行動は
最愛の息子を殺害する
そういう選択でした。
同級生は自ら死を選ぶ事はしなかったけれど、やはり最後には死に向かってしまったのです。
私はよく、先達の話をします。
このブログでも、例えば硫黄島での先達の振る舞いや、例えば沖縄での学徒看護隊と呼ばれた、まだ恋すら知らなかった少女達の話をして来ました。
この先達達は他者の為に生きて、他者の為に命を燃やしたのです。
それは戦争だから、綺麗事ではありません。
しかし、一人一人は他者の為に命を燃やしたのは事実であり、そうやって生きた人々がいて、現在の我々日本人が生きている。
これは私事や私心から出来るものではない。
子供達の世界で起こった事は小さな世界の話しです。
しかし、いじめに悩む子供達も誰かの役に立つ。
例えば沖縄の少女達を知れば、硫黄島の先達を知れば
今はいじめに遭い、こんな小さな世界で悩んでいるけれど、そんな自分でも誰かを助け誰かを生かす、そんな生き方が将来出来るんだ!
そうすれば自ら死を選ぶことも、先の同級生の様に家庭内で暴力を振るう事もなかったかも知れない。
そして大人達は何をしているのか?
大人達は子供達の世界が理解出来ず、理解しようともしない、だから大人達は自分達が理解出来る範囲に押し込めて考える
だから、助ける手段を取らないのです。
やるべき事をやっていれば子供達が死ぬ事もありません。
それは拉致や領土問題も同じです。
やるべきことを、取るべき手段を講じていれば拉致など起きず、拉致被害者はとっくに取り返せています。
竹島だって、島根の漁家が殺されれずに領土も取られない。
我々が取るべき手段を全く取っていないから子供達は死ぬのです。
子供達は我々の財産です。
民族の根っこです。
いじめなるものは犯罪だと認め、それを子供達にしっかり教えなければ大人の役割りは一体何なのでしょうか?
全てにおいて取るべき手段を全てとる!これは大人の責任です。
教えるべき時に教えず、教えられるべき時に教えられなかった…
では一体いつ学ぶのでしょうか?
若い時は過ちを犯すこともある。
けれど、それを過ちと教えられずに大人になったらどうなるのか?
教えられずに来た大人が子供を教育する。
この連鎖を止めるのも大人です。
連携いたしておりますブロガーさんに同じテーマでブログをアップして頂きます。
人それぞれ違う見解、違う意見があります。
そのそれぞれ違う意見から一つの事に対して、様々な角度から考えてみよう!
そんな感じです。
今回は『いじめ』について考えてみたいと思います。
いじめなんてないのでは?
私は個人的に、よくニュースなどで見聞きするいわゆるいじめと呼ばれるものは『いじめではない』と思います。
そもそもいじめとは何なのか?と思います。
子供の世界だけでなく大人の世界にも『いじめ』はあるのでしょう。
しかし、子供の世界のいじめを見聞きすると『はて?それはイジメなの?』と思います。
例えば、怪我をする程の暴力。
つい最近も沖縄で一方的に殴る蹴るの暴力を与える動画をアップして問題となっていましたね。
例えば、金銭を要求する。
横浜で福島から自主避難していた子供に同級生が金銭を要求し150万も使わせたとか。
コレ、いじめなんですか?
普通、我々が暮らしていて此れらの事態に遭遇したら事件ですよ。
一方的に暴力を受けたなら『暴行傷害』事件
金銭を要求されたら『恐喝』
普通はそう考えます。
それが『いじめ』なる言葉にする。
沖縄の暴行動画は親御さんが警察に『傷害事件』として被害届けを出したそうです。
しかし、横浜の場合は皆さんもご存知と思いますが教育委員会で『いじめ』ではないと結論付けました。
しかも事件にすらしていない。
150万もの金は『いじめから逃れる為に奢った』という結論です。
それは大人の世界な明らかな恐喝だぞ!
毎度感じる違和感
いじめを苦に子供為が簡単に『死』を選ぶ。
その度に
そこまで追い込まれなければならない理由は何だ?周りは助けられなかったのか?
自殺して問題になり、大人達は慌てます。
学校の対応が、教師の対応が、親の対応が…
そんな問題が常に取り沙汰されるけれども、いじめは無くならず毎年数件いじめを苦に子供は自ら死を選ぶ。
まだ若い、余りにも若い年齢で先の人生に失望し自ら死を選ぶのです。
大人達はいじめを目にしても、何故か『それは子供達の世界の話し』として考える。
子供達は人生の経験が浅い。
だから将来を考えることが出来ない。
この先の人生に失望して死ぬ。
大人達は子供達の考え方がわからず、理解しようともしない。
子供達が死を選んだ理由が人生の経験が邪魔をして全く理解出来ない。
子供達の世界は子供達の世界ではあるけれど、そこで起こった事はいじめ等というものではなく犯罪行為です。
犯罪行為は人権を踏みにじるものです。
子供達の世界で起こった犯罪を大人達は『いじめ』と言って誤魔化している。
それは大人達が子供達の世界で起こった犯罪を見て見ぬふりをしている。
犯罪だと認めたくはない。
もし、犯罪だと認めれば犯罪を未然に防げなかった責任を問われてしまう。
子供達は『いじめ』が犯罪だと教えられていないし、それが人権を踏みにじる行為だなんて考えたこともなければ教えられてもいない。
マスコミの報道を見ても此れらを犯罪だとは報道しません。
死んだ子供の親にしても、そのいじめが犯罪だと気が付いていない。
つまり大人は何も解っていないのです。
つまり全く理解出来ない、出来ていない大人が『いじめ』に対応するなど不可能なのです。
事実を見る
私の同級生の話しです。
私が中学生の頃に私の同級生が殺されました。
犯人はその同級生の両親です。
同級生は学校に来ていませんでした。
彼は『いじめ』にあっていた。
それは後に知ったのです。
いじめに絶えかねた彼は、自ら死を選ぶことはありませんでした。
彼がいじめから逃れる方法は『登校拒否』でした。
私はこの選択を支持します。
自ら死を選ぶよりも、生きる事を選んだ。
死ねば全て終わってしまうけれど、生きていれば彼には将来選ぶ道も見つかる。
しかし、彼は家庭内で荒れていた。
親や兄弟に暴力を振るう様になっていたのです。
いじめがあったけれど、学校も教師も仲間も全く対応しなかった。
また、親御さんも対応出来ていなかった。
彼は自身に起きていることに苛立ちもあったと思います。
何せ人権を踏みにじられているのですから…
しかし、大人達はこれが理解出来ないのです。
自身を弱い人間だと、彼は思ったのかも知れないし、自身の将来も見えなかったでしょう。
その葛藤が『家庭内暴力』と言う形で表れたのではないかと私は思います。
連日、繰り返される息子の暴力。
もう手も付けられず、どうして良いかわからぬ両親。
遂に疲れ果てた両親が取った行動は
最愛の息子を殺害する
そういう選択でした。
だからこそ
同級生は自ら死を選ぶ事はしなかったけれど、やはり最後には死に向かってしまったのです。
私はよく、先達の話をします。
このブログでも、例えば硫黄島での先達の振る舞いや、例えば沖縄での学徒看護隊と呼ばれた、まだ恋すら知らなかった少女達の話をして来ました。
この先達達は他者の為に生きて、他者の為に命を燃やしたのです。
それは戦争だから、綺麗事ではありません。
しかし、一人一人は他者の為に命を燃やしたのは事実であり、そうやって生きた人々がいて、現在の我々日本人が生きている。
これは私事や私心から出来るものではない。
子供達の世界で起こった事は小さな世界の話しです。
しかし、いじめに悩む子供達も誰かの役に立つ。
例えば沖縄の少女達を知れば、硫黄島の先達を知れば
今はいじめに遭い、こんな小さな世界で悩んでいるけれど、そんな自分でも誰かを助け誰かを生かす、そんな生き方が将来出来るんだ!
そうすれば自ら死を選ぶことも、先の同級生の様に家庭内で暴力を振るう事もなかったかも知れない。
そして大人達は何をしているのか?
大人達は子供達の世界が理解出来ず、理解しようともしない、だから大人達は自分達が理解出来る範囲に押し込めて考える
だから、助ける手段を取らないのです。
やるべき事をやっていれば子供達が死ぬ事もありません。
それは拉致や領土問題も同じです。
やるべきことを、取るべき手段を講じていれば拉致など起きず、拉致被害者はとっくに取り返せています。
竹島だって、島根の漁家が殺されれずに領土も取られない。
我々が取るべき手段を全く取っていないから子供達は死ぬのです。
子供達は我々の財産です。
民族の根っこです。
いじめなるものは犯罪だと認め、それを子供達にしっかり教えなければ大人の役割りは一体何なのでしょうか?
全てにおいて取るべき手段を全てとる!これは大人の責任です。
教えるべき時に教えず、教えられるべき時に教えられなかった…
では一体いつ学ぶのでしょうか?
若い時は過ちを犯すこともある。
けれど、それを過ちと教えられずに大人になったらどうなるのか?
教えられずに来た大人が子供を教育する。
この連鎖を止めるのも大人です。