お久しぶりの古事記です。
参院選もあり、随分久しぶりになりました。
都知事選挙なども気になりますね。
この都知事選挙でも、主権者の気になる事が候補者の争点になってません。
東京都と言えば、例えば、硫黄島も東京都です。
小笠原諸島も東京都です。
なのに、支那人が大挙押し寄せ根こそぎ奪った「赤珊瑚」について殆ど話に上がりません。
小笠原の漁民の方々が一生懸命守って来た漁場を無茶苦茶にされた、この問題をどうして行くのか?
国の安全保障と小笠原の人々の生活をどう守るのか?
話は繋がる事ではないのか?
誰も言いませんね…
こういう根っこを考える為にも、日本最古の国書『古事記』を知る事が現在の我が国を考えるのに必要なのではないでしょうか。
前回の話はここでおさらいしてみて下さい。
形式的
このシリーズで常に申して来たシラスとウシハクについて話してきましたね。
このシラスとウシハクで『天皇不親政』という、天皇の統治の形は理解頂けると思います。
天皇自ら政策を決定しない
これが、天皇統治の根幹です。
「かつては天皇は大元帥で統治権の総覧者だった、しかし今は象徴
だから国事行為はあくまで形式的・儀礼的なものだ」
この様に言う人々がいます。
国事行為とは、皆さんには釈迦に説法ですが、例えば総理大臣を任命するとか、議会を解散するとか、国政選挙を公示したり法律を公布するとか。
天皇陛下が自ら中身を考えて実行してきたものはありません。
勲章にしても、天皇陛下が「誰々に与えたい」なんて決めたりしません。
各省庁から推薦された人に勲章を与えるのです。
天皇の国事行為と言うものは、そもそも全て形式的で儀礼的なものです。
それを、無価値だ!無意味だ!とか言う人がいるんですよ!
だいたいド左翼とか、クソ左翼とか、アホ左翼にそんな事を言う人が多いですがね。
勲章と言うのはどの国にもあります。
リベラルな国だってあります。
その勲章をもらうのに「国務大臣から国務大臣室で貰うのと、皇居宮殿松の間で天皇陛下から頂くのとどちらが良いか?」
どうせ頂くなら、天皇陛下から頂きたいものですよね?
本当に形式的、儀礼的なら天皇陛下から宮殿で頂く必要はありませんね?
そうじゃないなら「俺は勲章なんかいらねぇ!」とか言わねばなりません。
あの桑田佳祐も勲章を天皇陛下から頂いた。
その後、大変な不敬を働いた。
それならば何故、勲章を頂いたのか?
「そんなものいらねぇ!」と言えば良いのです。
天皇陛下が自ら勲章を与える者を選んでないくらいの事はわかるはずでしょう。
アホの言う事、やる事は常に矛盾しています。
当然、各省庁の推薦があって勲章を授与するんですよ。
天皇陛下が自らインターネットとか見て「こいついい仕事してるね!」とかいうわけありません。
「勲章あげるから来週、皇居に来なさい」とかいうわけないでしょう!
しかし、皇居に出向き天皇陛下から頂くと言うのは絵も言われぬものでしょう。
だいたい左翼バカほど喜び勇んで叙勲に出かけるらしいですよ。
左翼も叙勲されるのか?
そんな疑問も湧いて来ますが、勿論もらえますよ。
天皇陛下から見れば、右も左も臣民です。
全て分け隔てなく【民】です。
天皇陛下の祈りとは、天皇崇拝者の為だけのものではありません。
【皇室打倒!】とか言う人間の事もそんな人々の幸せも祈っているのです。
それが我が国の統治者の姿なのです。
人の心を溶かす
かつて最も左翼と言われた憲法学者がいいたそうですが。
その学者は敗戦後長らく「皇室打倒!」とか叫び続けて来ました。
「皇室は無用の長物」とか「皇室はなくすべき
!
」とか声高に叫んでいたそうです。
散々皇室批判をして来たその学者が晩年、昭和天皇から叙勲される事になりました。
そんだけ批判しといて、どのツラ下げて行ったのでしょうかね?
「この目で天皇を見てやろう」ぐらいの気持ちだったの
でしょうか。
ところがこの学者は天皇陛下から勲章を授与された瞬間から、昭和天皇のファンになってしまったのです。
なんと改心してしまうんですね。
打倒!打倒!と言ってきたが、間違って
たんじゃないか?
「この人をなくしたらダメじゃないか!」
晩年になって気づいたんですね。
晩年になるまで、気づかなかったのか?
とか私は思いますがね…
しかし、この学者は偉かった。
それまでの自分の人生を否定したんですね。
なかなか出来るものではありませんよ。
自宅に帰ったその人は、片っ端から電話して自分がかつて書いた本を買い集めて、燃やしてしまったんですね。
「自分の主張研究は後世に残してはいかん!」
皇室は残さにゃいかん!
皇室、天皇陛下にはそんな力があるんですね!
決して力や支配、収奪や恐怖で人々を動かすのではありません。
ただその御存在だけで、頑なな気持ちをも溶かしてしまうのですね。
かつて「女系でいいじゃないか」と言っていた田原総一朗ですら近年では「皇統は男系でなきゃダメだ」と言っています。
中央公論やラジオ番組で『伝統だ』と述べ「日本人はやっぱり最後は天皇陛下だ!」と語っています。
最後は天皇だ!
あの田原総一朗ですら、そういうのです。
「天皇の国事行為なんか形式的で儀礼的で意味なんかな」という人ほど、急に皇室ファンになったりするんです。
天皇不親政の原則。
政治を直接決定しない。
存在するだけで国をまとめる。
その御存在位の意味を、ある瞬間にフッと理解する瞬間があるんです。
それは、日本人のみだけでなく人間の理想の根幹なのかもしれませんね。
参院選もあり、随分久しぶりになりました。
都知事選挙なども気になりますね。
この都知事選挙でも、主権者の気になる事が候補者の争点になってません。
東京都と言えば、例えば、硫黄島も東京都です。
小笠原諸島も東京都です。
なのに、支那人が大挙押し寄せ根こそぎ奪った「赤珊瑚」について殆ど話に上がりません。
小笠原の漁民の方々が一生懸命守って来た漁場を無茶苦茶にされた、この問題をどうして行くのか?
国の安全保障と小笠原の人々の生活をどう守るのか?
話は繋がる事ではないのか?
誰も言いませんね…
こういう根っこを考える為にも、日本最古の国書『古事記』を知る事が現在の我が国を考えるのに必要なのではないでしょうか。
前回の話はここでおさらいしてみて下さい。
形式的
このシリーズで常に申して来たシラスとウシハクについて話してきましたね。
このシラスとウシハクで『天皇不親政』という、天皇の統治の形は理解頂けると思います。
天皇自ら政策を決定しない
これが、天皇統治の根幹です。
「かつては天皇は大元帥で統治権の総覧者だった、しかし今は象徴
だから国事行為はあくまで形式的・儀礼的なものだ」
この様に言う人々がいます。
国事行為とは、皆さんには釈迦に説法ですが、例えば総理大臣を任命するとか、議会を解散するとか、国政選挙を公示したり法律を公布するとか。
天皇陛下が自ら中身を考えて実行してきたものはありません。
勲章にしても、天皇陛下が「誰々に与えたい」なんて決めたりしません。
各省庁から推薦された人に勲章を与えるのです。
天皇の国事行為と言うものは、そもそも全て形式的で儀礼的なものです。
それを、無価値だ!無意味だ!とか言う人がいるんですよ!
だいたいド左翼とか、クソ左翼とか、アホ左翼にそんな事を言う人が多いですがね。
勲章と言うのはどの国にもあります。
リベラルな国だってあります。
その勲章をもらうのに「国務大臣から国務大臣室で貰うのと、皇居宮殿松の間で天皇陛下から頂くのとどちらが良いか?」
どうせ頂くなら、天皇陛下から頂きたいものですよね?
本当に形式的、儀礼的なら天皇陛下から宮殿で頂く必要はありませんね?
そうじゃないなら「俺は勲章なんかいらねぇ!」とか言わねばなりません。
あの桑田佳祐も勲章を天皇陛下から頂いた。
その後、大変な不敬を働いた。
それならば何故、勲章を頂いたのか?
「そんなものいらねぇ!」と言えば良いのです。
天皇陛下が自ら勲章を与える者を選んでないくらいの事はわかるはずでしょう。
アホの言う事、やる事は常に矛盾しています。
当然、各省庁の推薦があって勲章を授与するんですよ。
天皇陛下が自らインターネットとか見て「こいついい仕事してるね!」とかいうわけありません。
「勲章あげるから来週、皇居に来なさい」とかいうわけないでしょう!
しかし、皇居に出向き天皇陛下から頂くと言うのは絵も言われぬものでしょう。
だいたい左翼バカほど喜び勇んで叙勲に出かけるらしいですよ。
左翼も叙勲されるのか?
そんな疑問も湧いて来ますが、勿論もらえますよ。
天皇陛下から見れば、右も左も臣民です。
全て分け隔てなく【民】です。
天皇陛下の祈りとは、天皇崇拝者の為だけのものではありません。
【皇室打倒!】とか言う人間の事もそんな人々の幸せも祈っているのです。
それが我が国の統治者の姿なのです。
人の心を溶かす
かつて最も左翼と言われた憲法学者がいいたそうですが。
その学者は敗戦後長らく「皇室打倒!」とか叫び続けて来ました。
「皇室は無用の長物」とか「皇室はなくすべき
!
」とか声高に叫んでいたそうです。
散々皇室批判をして来たその学者が晩年、昭和天皇から叙勲される事になりました。
そんだけ批判しといて、どのツラ下げて行ったのでしょうかね?
「この目で天皇を見てやろう」ぐらいの気持ちだったの
でしょうか。
ところがこの学者は天皇陛下から勲章を授与された瞬間から、昭和天皇のファンになってしまったのです。
なんと改心してしまうんですね。
打倒!打倒!と言ってきたが、間違って
たんじゃないか?
「この人をなくしたらダメじゃないか!」
晩年になって気づいたんですね。
晩年になるまで、気づかなかったのか?
とか私は思いますがね…
しかし、この学者は偉かった。
それまでの自分の人生を否定したんですね。
なかなか出来るものではありませんよ。
自宅に帰ったその人は、片っ端から電話して自分がかつて書いた本を買い集めて、燃やしてしまったんですね。
「自分の主張研究は後世に残してはいかん!」
皇室は残さにゃいかん!
皇室、天皇陛下にはそんな力があるんですね!
決して力や支配、収奪や恐怖で人々を動かすのではありません。
ただその御存在だけで、頑なな気持ちをも溶かしてしまうのですね。
かつて「女系でいいじゃないか」と言っていた田原総一朗ですら近年では「皇統は男系でなきゃダメだ」と言っています。
中央公論やラジオ番組で『伝統だ』と述べ「日本人はやっぱり最後は天皇陛下だ!」と語っています。
最後は天皇だ!
あの田原総一朗ですら、そういうのです。
「天皇の国事行為なんか形式的で儀礼的で意味なんかな」という人ほど、急に皇室ファンになったりするんです。
天皇不親政の原則。
政治を直接決定しない。
存在するだけで国をまとめる。
その御存在位の意味を、ある瞬間にフッと理解する瞬間があるんです。
それは、日本人のみだけでなく人間の理想の根幹なのかもしれませんね。