今年の夏は非常に暑い。
今まで経験した事のない暑さですね。
しかも台風に豪雨災害、大阪では地震とここまででも災害の多い年です。
しかしこの夏はこの御代最後の夏なのです。
平成と言う御代最後の夏。
来年の夏は新しい時代の夏になるのです。
うちの爺さん婆さんは明治の生まれです。
ですから明治、大正、昭和と3つの御代を体験しているのです。
私は昭和の生まれですから、昭和、平成、そして次の元号を経験するのです。
まさか自分が爺さん婆さんと同じ様な経験をするとは...
そんな変な心持ちでもあります。
さて、来年は御代が変わります。
つまり、新しい天皇が誕生し元号が変わる。
我々庶民はこの様に考えればよろしいわけですが、これが我々日本人の根っこを考える良い機会なのです。
例えば、即位の礼などの儀式。
日々の祈り。
祭日に行われる儀式など、一番わかりやすいのは勤労感謝の日などと訳の分からないものに変えられてしまった新嘗祭など、これを良く考えなければなりません。
ちなみに御代代わりの年に行われる新嘗祭は新嘗祭とは言わず大嘗祭(だいじょうさい)と言って、神に御代が代わったことを報告する大切な祭祀です。
これら祭祀をどう考えるのか?
天皇が行う祭祀や日々の祈り、更に御譲位の儀式ははっきり申せば日本神道に立脚しているのです。
立脚なんてもんじゃない。
それが根っこな訳です。
また、天皇と言う御存在もそこが根っこです。
しかし、その祭祀や祈りが現在は私的行為とされているのです。
それは何故か?
敗戦後のGHQの政策によるものです。
詳しくは拙著記事を参照下さい。
今一度足元を見て - 犬神スケキヨ~さざれ石
GHQの政策により天皇による祭祀や祈りは私的行為とされてしまいました。
政教分離なる言葉の基にです。
アメリカは日本の神道における天皇の存在を『教祖』だと考えた。
神道と言うカルト教が基で戦争を起こしたのだ!
そう考えたのです。
つまり神道を宗教と考えたのです。
一神教の国らしい考え方ですね。
全知全能たる神がこの世にいて、全ての創造主だと考える一神教。
その象徴こそが天皇で、カルトだと考えたのです
つまり
神道なる宗教は邪教である!
そんな考えのもとに神道を変え、祭祀を変えてしまったのです。
しかし、我々の神道は宗教などではありません。
そもそも『宗教』なる言葉すらなかった。
神道の根っこは古事記に記された神話です。
その神話は我が国の成り立ちを示しています。
神々から繋がり初代神武天皇が即位し、今上天皇へと繋がるのです。
歴代天皇は終始一貫、質素倹約を旨とし、ただ民の為に祈る事で統治をしてきました。
古事記を読んで、この本の中に教義や教祖があると思う人がいたら、それは頭がイカレてますよ。
西洋の例えば、キリスト教などは『自然とは克服すべきもの』と考えます。
しかし我々日本人にとっての自然とは『ありのままそこにあるもの』
決して克服などするものではなく、共に生きながら我々に恵みを与えてくれるもの。
natureと言う言葉は、我々が考える自然ではないのです。
つまり、この自然もありのままそこにあるのですから全知全能の神が作ったものではない。
我々の神々は、ありのままの姿で、それすらも自然なのです。
一神教のGODは、我々日本人の神とは意味が違うのです。
GOD=神ではない。
神話から繋がる神道は宗教などではなく、日本人の哲学であるのです。
どう生きて、どう死ぬのか?
生きる理由、死ぬ理由。
それが神道であり、そして天皇が行う儀式の意味であるのです。
白人達はそれがわからないのです。
だから、天皇を教祖とする『カルト教』と認識し、我々の信仰を変えてしまおうと考えたわけです。
だから戦後、GHQは神道を宗教にしてしまったのです。
また政教分離を強く進めた。
天皇の統治とは、これは祈る事です。
祈る事により国を守るのです。
そして一切の権力を持ちません。
権力は我々民に託したのです。
権威である天皇と権力である民が一緒になって国を造り、国政を担う。
君民共治
と言います。
『君民一体』の国政こそが我が国の根っこです。
天皇とは決して宗教の教祖ではありません。
そして我が国の神々は唯一絶対、全知全能の存在ではありません。
いわばありのままの自然を表し、我々日本人の始まりや生き方、そして死に方。
それを表したものであってこれは哲学です。
その神道を戦後政策により宗教と言う、古来日本にない概念に押し込み『祈りと感謝』と言う当たり前の事を禁じてしまったのです。
神武天皇は『私は民の為に祈る』と言い権力を我々民に託した。
仁徳天皇は『天皇とは民があって天皇』と言って民の為、人の為、あなたこそ大切と生きた。
これが政教分離なるバカなもので、公の行為で無くなったのです。
本来、民の為に祈る事で統治をして来た我が国の天皇の祈りを禁じる事がどれ程、我々日本人の心を破壊するか考えなければなりません。
民の為の祈りが私的行為などバカげた話しだ!
天皇の公務とは本来の目的は祈りです。
その根っこを我々日本人は忘れてしまったのか?
いつまでも私的行為などと言っていたら、我が国の本来の目的、本来の生き方、そして死に方を失ってしまいます。
そして何よりも我々民がその天皇と言う御存在をここまで繋いで来たのです。
このままでは我々日本人の心はバラバラに壊れてしまいます。
天皇の祈りは民の為。
天皇の祈りは公務。
天皇の祈りは国事行為。
それが我が国の本来の生き方なのです。
今まで経験した事のない暑さですね。
しかも台風に豪雨災害、大阪では地震とここまででも災害の多い年です。
しかしこの夏はこの御代最後の夏なのです。
平成と言う御代最後の夏。
来年の夏は新しい時代の夏になるのです。
うちの爺さん婆さんは明治の生まれです。
ですから明治、大正、昭和と3つの御代を体験しているのです。
私は昭和の生まれですから、昭和、平成、そして次の元号を経験するのです。
まさか自分が爺さん婆さんと同じ様な経験をするとは...
そんな変な心持ちでもあります。
御譲位をもって考えませんか?
さて、来年は御代が変わります。
つまり、新しい天皇が誕生し元号が変わる。
我々庶民はこの様に考えればよろしいわけですが、これが我々日本人の根っこを考える良い機会なのです。
例えば、即位の礼などの儀式。
日々の祈り。
祭日に行われる儀式など、一番わかりやすいのは勤労感謝の日などと訳の分からないものに変えられてしまった新嘗祭など、これを良く考えなければなりません。
ちなみに御代代わりの年に行われる新嘗祭は新嘗祭とは言わず大嘗祭(だいじょうさい)と言って、神に御代が代わったことを報告する大切な祭祀です。
これら祭祀をどう考えるのか?
天皇が行う祭祀や日々の祈り、更に御譲位の儀式ははっきり申せば日本神道に立脚しているのです。
立脚なんてもんじゃない。
それが根っこな訳です。
また、天皇と言う御存在もそこが根っこです。
しかし、その祭祀や祈りが現在は私的行為とされているのです。
それは何故か?
敗戦後のGHQの政策によるものです。
詳しくは拙著記事を参照下さい。
今一度足元を見て - 犬神スケキヨ~さざれ石
GHQの政策により天皇による祭祀や祈りは私的行為とされてしまいました。
政教分離なる言葉の基にです。
アメリカは日本の神道における天皇の存在を『教祖』だと考えた。
神道と言うカルト教が基で戦争を起こしたのだ!
そう考えたのです。
つまり神道を宗教と考えたのです。
一神教の国らしい考え方ですね。
全知全能たる神がこの世にいて、全ての創造主だと考える一神教。
その象徴こそが天皇で、カルトだと考えたのです
つまり
神道なる宗教は邪教である!
そんな考えのもとに神道を変え、祭祀を変えてしまったのです。
しかし、我々の神道は宗教などではありません。
そもそも『宗教』なる言葉すらなかった。
神道の根っこは古事記に記された神話です。
その神話は我が国の成り立ちを示しています。
神々から繋がり初代神武天皇が即位し、今上天皇へと繋がるのです。
歴代天皇は終始一貫、質素倹約を旨とし、ただ民の為に祈る事で統治をしてきました。
古事記を読んで、この本の中に教義や教祖があると思う人がいたら、それは頭がイカレてますよ。
西洋の例えば、キリスト教などは『自然とは克服すべきもの』と考えます。
しかし我々日本人にとっての自然とは『ありのままそこにあるもの』
決して克服などするものではなく、共に生きながら我々に恵みを与えてくれるもの。
natureと言う言葉は、我々が考える自然ではないのです。
つまり、この自然もありのままそこにあるのですから全知全能の神が作ったものではない。
我々の神々は、ありのままの姿で、それすらも自然なのです。
一神教のGODは、我々日本人の神とは意味が違うのです。
GOD=神ではない。
神話から繋がる神道は宗教などではなく、日本人の哲学であるのです。
どう生きて、どう死ぬのか?
生きる理由、死ぬ理由。
それが神道であり、そして天皇が行う儀式の意味であるのです。
白人達はそれがわからないのです。
だから、天皇を教祖とする『カルト教』と認識し、我々の信仰を変えてしまおうと考えたわけです。
だから戦後、GHQは神道を宗教にしてしまったのです。
また政教分離を強く進めた。
天皇の統治とは、これは祈る事です。
祈る事により国を守るのです。
そして一切の権力を持ちません。
権力は我々民に託したのです。
権威である天皇と権力である民が一緒になって国を造り、国政を担う。
君民共治
と言います。
『君民一体』の国政こそが我が国の根っこです。
天皇とは決して宗教の教祖ではありません。
そして我が国の神々は唯一絶対、全知全能の存在ではありません。
いわばありのままの自然を表し、我々日本人の始まりや生き方、そして死に方。
それを表したものであってこれは哲学です。
その神道を戦後政策により宗教と言う、古来日本にない概念に押し込み『祈りと感謝』と言う当たり前の事を禁じてしまったのです。
神武天皇は『私は民の為に祈る』と言い権力を我々民に託した。
仁徳天皇は『天皇とは民があって天皇』と言って民の為、人の為、あなたこそ大切と生きた。
これが政教分離なるバカなもので、公の行為で無くなったのです。
本来、民の為に祈る事で統治をして来た我が国の天皇の祈りを禁じる事がどれ程、我々日本人の心を破壊するか考えなければなりません。
民の為の祈りが私的行為などバカげた話しだ!
天皇の公務とは本来の目的は祈りです。
その根っこを我々日本人は忘れてしまったのか?
いつまでも私的行為などと言っていたら、我が国の本来の目的、本来の生き方、そして死に方を失ってしまいます。
そして何よりも我々民がその天皇と言う御存在をここまで繋いで来たのです。
このままでは我々日本人の心はバラバラに壊れてしまいます。
天皇の祈りは民の為。
天皇の祈りは公務。
天皇の祈りは国事行為。
それが我が国の本来の生き方なのです。