サガレン 樺太/サハリン 境界を旅する
梯久美子 著
2020年4月24日 初版発行
(株)KADOKAWA 発行
2017年11月と2018年9月にサハリンを訪問した紀行文です。
初回は寝台急行に乗って島を縦断し、北部のノグリキまで行って廃線跡などを見学しています。
二回目は1923(大正12)年に樺太を旅した宮沢賢治の行程をたどっています。
自分が以前読み、なおかつ思い入れの深い林芙美子の樺太への旅(1934年・昭和9年)を重ね合わせている箇所が、個人的には一番よかったです。
芙美子の紀行文は、感覚的なようでいて、よく読むと各種の数字がしっかり書き込まれている。船や鉄道の出発時間や所要時間はもちろん、物の値段から見かけた子供のおおよその年齢、一緒に食卓を囲んだ人の数、車窓から見た山の高さから峰の数まで、こまめに記されているのだ。p41
途中駅の白浦(現在のヴズモーリエ)駅に停車中、芙美子はホームで「パンにぐうぬう、パンにぐうぬう」と呼び売りをしているロシア人を見る。
こういうとき、必ず買ってみるのが芙美子という人p46
北原白秋もこのパン屋を見ている。
このパン屋はロシア人ではなく、実はムロチコフスキというポーランド人だった。
ぐうぬう、は牛乳のこと。
芙美子訪問時の樺太は50度線の国境も観光名所だったが、芙美子は日帰りで国境に行ける敷香まではるばるやって来たのに、断念してしまう。ハイヤーの代金が高く、一緒に乗ってくれる人を探すのが面倒だったと彼女は書いている。
しかし断念の本当の理由は、豊原での巡査からの無礼な態度から、国境訪問にはあらぬ疑いをかけられるとう警戒心から来ているのかもしれない。
芙美子の旅の三年半後、岡田嘉子と共産党員だった杉本良吉はこの国境を越えて亡命している。
サハリンに行きたいと思っていた村上春樹氏は、渡航可能になったあと、本当にサハリンを訪れた。『1Q84』が刊行される7年前、2003年のことで、函館からプロペラ機で行ったという。
その時の紀行文の冒頭近くで村上氏は、サハリン空港の入国審査の係員を「ついさっきおやつに胆汁をたっぷり飲んできたような渋い顔つきで、パスポートとビザを重々しく点検する」と描写している。
「その通り!」と膝を打つ筆者。p132
チェーホフが旅をした1890年のサハリン南部と、宮沢賢治が旅をした1923年。二人は同じルートを通っていた。p219
『サハリン島』におけるチェーホフの文章は、そのほとんどが事実を淡々と報告するそっけないものだ。だが、白鳥湖の岸辺に立ったときは、胸にあふれてくるものがあったようで、島内のほかの場所を訪れたときには見られない、主情的な文章を綴っている。p234
梯久美子 著
2020年4月24日 初版発行
(株)KADOKAWA 発行
2017年11月と2018年9月にサハリンを訪問した紀行文です。
初回は寝台急行に乗って島を縦断し、北部のノグリキまで行って廃線跡などを見学しています。
二回目は1923(大正12)年に樺太を旅した宮沢賢治の行程をたどっています。
自分が以前読み、なおかつ思い入れの深い林芙美子の樺太への旅(1934年・昭和9年)を重ね合わせている箇所が、個人的には一番よかったです。
芙美子の紀行文は、感覚的なようでいて、よく読むと各種の数字がしっかり書き込まれている。船や鉄道の出発時間や所要時間はもちろん、物の値段から見かけた子供のおおよその年齢、一緒に食卓を囲んだ人の数、車窓から見た山の高さから峰の数まで、こまめに記されているのだ。p41
途中駅の白浦(現在のヴズモーリエ)駅に停車中、芙美子はホームで「パンにぐうぬう、パンにぐうぬう」と呼び売りをしているロシア人を見る。
こういうとき、必ず買ってみるのが芙美子という人p46
北原白秋もこのパン屋を見ている。
このパン屋はロシア人ではなく、実はムロチコフスキというポーランド人だった。
ぐうぬう、は牛乳のこと。
芙美子訪問時の樺太は50度線の国境も観光名所だったが、芙美子は日帰りで国境に行ける敷香まではるばるやって来たのに、断念してしまう。ハイヤーの代金が高く、一緒に乗ってくれる人を探すのが面倒だったと彼女は書いている。
しかし断念の本当の理由は、豊原での巡査からの無礼な態度から、国境訪問にはあらぬ疑いをかけられるとう警戒心から来ているのかもしれない。
芙美子の旅の三年半後、岡田嘉子と共産党員だった杉本良吉はこの国境を越えて亡命している。
サハリンに行きたいと思っていた村上春樹氏は、渡航可能になったあと、本当にサハリンを訪れた。『1Q84』が刊行される7年前、2003年のことで、函館からプロペラ機で行ったという。
その時の紀行文の冒頭近くで村上氏は、サハリン空港の入国審査の係員を「ついさっきおやつに胆汁をたっぷり飲んできたような渋い顔つきで、パスポートとビザを重々しく点検する」と描写している。
「その通り!」と膝を打つ筆者。p132
チェーホフが旅をした1890年のサハリン南部と、宮沢賢治が旅をした1923年。二人は同じルートを通っていた。p219
『サハリン島』におけるチェーホフの文章は、そのほとんどが事実を淡々と報告するそっけないものだ。だが、白鳥湖の岸辺に立ったときは、胸にあふれてくるものがあったようで、島内のほかの場所を訪れたときには見られない、主情的な文章を綴っている。p234
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